文/吉林省の大法弟子
【明慧日本2023年1月14日】(前文に続く)
その頃、私はよく「この法輪大法は本当に素晴らしい」と思っていました。両親は何年も私を殴りましたが、私は変わりませんでした。しかし、大法を修煉した後、私はすっかり変わり、もう悪口や喧嘩はしないと堅く決心しました。まるで人が入れ変わったみたいで、本当に生き返ったような感じがしました。絶望的だった私は、陽気でおしゃべりな自分になっていました。Lさんや姑に対する態度もどんどん良くなり、Lさんや姑に対する恨み辛みが一気に吹き飛び、消えていきました。
旧正月に母親の実家に帰った時、友人や近所の人たちに師父の説法ビデオを流しました。父親や2番目の妹も修煉し、友人や家族も修煉し始めました。私の知るすべての人が修煉を始めることができるよう、私は心から願いました。その時、村人たちは私の変化を目にし、私は村人たちに「私を変えたのは法輪功です。法輪功は人に良い人になるように教えます」と言いました。
修煉を始めてすぐに試練がありました。ある朝、靴を磨き終わったところで、カウンターに男性の客が立っていたので、サービス業は朝の開店を大切にするので、私は急いで温かく挨拶しました。朝一番の1足が順調に売れれば、その日はスムーズにいくものでした。その客は、私の店の紳士靴を次から次へと試着し、10種類以上のデザインを試しました。私は靴を探し、手渡しでデザインを見せ、履き心地はどうですかと聞きました。長い時間忙しくして、結局その男性は何も買わずに、何も言わずに帰っていきました。その男性が帰った後、もう一人の店員がそばで私をたきつけつけるかのように「この人は本当に靴を買いに来たとは思えない、一言もしゃべらなかった。彼はあなたを苦しめるために来たのです」と言いました。
カウンターの上に散乱した靴や靴箱を見て、怒ることもなく、急いで片付けました。大法のすばらしさに思わずため息が出て、罵倒はおろか、怒らないと決めたらもう怒らず、もう一人の店員は、私が客にどのように怒鳴りつけるか、まだ様子を見ていました。その結果「もう一人の店員にとってのいい芝居」は演じられませんでした。修煉を始める前にこのような客に出会ったら、うまくやれずにその客に手を出していたでしょう。
修煉後、私は毎日が楽しく、歩いていて、周りに誰もいないと、つい上に向かって跳び上がっていました。自分の心態が変わり、周りもすべて変わり、家族も和やかになりました。当時は、朝、煉功場での煉功を終えて出勤し、夕方、法を学び坐禅を終えて帰宅するのが日課でした。
Lさんの病気は完全に良くなり、村の電気屋になり、家族の面倒を見るようになり、折に触れてお椀や洗面器を買ってくるようになりました。現在(訳注:2022年5月)でも姑の私に対する扱いは変わりませんが、私はそれを恨んだりせず、果物を買ってあげたり、時には美味しいものを作ってあげたりし、舅はその都度、私に感謝しました。ゆっくりと、姑の顔に笑顔が広がってきました。義妹も以前より話しかけてくれるようになり、時には日用品や洋服をくれたりしました。
Lさんはよく戦友に「あなたたちの奥さん全員に、私の家族の「仙人」(私のこと)から法輪功を学ばせれば、毎日あなたたちと喧嘩しなくてもいいし、彼女たちの浮気を心配しなくてもいいようになります」言いました。またいつも近所の人が私のことについて「あなたの奥さんは、法輪功を修煉した後、気性が良くなり、親孝行になり、さらにお金を稼ぐことができるようになりました」というのが聞こえました。私は近所の人たちに「法輪功は、人に良い人になるように教えます」と言いました。
路上で姑に会うと、姑は率先して私に挨拶してくれることもありました。私は姑が他人によく「世界中の人が法輪功を修煉すれば、悪人はいなくなり、それでも警察が必要でしょうか? 警察は役に立たなくなります」と言っているのを聞きました。
当時は、叱られようが、叩かれようが、利用されようが、笑って済ませることができたので、心性を修めることが難しいとは感じませんでした。しかし、足を組むことは私にとって本当に難しく、私は足が硬くてまったく組めませんでした。静功には双盤の坐禅が必要ですが、私は片足で坐禅を組むこともできず、足が棒のように硬かったのです。上に乗せているその脚は、まるで「高射砲」のような硬さでした。家にいる時は、自分で足を押さえることにこだわり、集団学法の時は、小同修を膝の上に坐らせて私の足を押さえてもらいました。それは本当に痛かったのです! 毎回汗ばむほど痛かったのです。
これを1年間堅持した結果、双盤で坐禅を組めるようになりました。しかし、初めて双盤で坐禅を組んだ時は1分だけで、痛くて悲鳴をあげてしまいました。当時はグループの環境に強いエネルギー場があり、みんなで一緒に比して学び、比して修しました。双盤で坐禅を組む時間が少し長くなってきて、太ももから少しずつ業力が降りてくるのを感じ、最後に足先から排出された時、涼しい風を感じて一瞬ほっとしましたが、足は紫黒色で、元の色に戻るまで長い時間がかかりました。
他の同修がじっと坐っているのを見ながら、私は歯を食いしばって毎日10分、30分、45分と我慢し、ついに1時間坐禅を組むことができるようになりました。
私は師父が説かれた「失わなければ得られず」の法を理解し『轉法輪』の中で師父が要求されている「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」に基づいて行動し、厳格に自分を律し、客と口論せず、二度と人を罵倒しなくなりました。人を罵る言葉を急に忘れてしまったかのような感じで、罵倒しなくなり、毎日口をつぼめて笑っていました。他の店員からも「宝物を見つけたのですか」と言われ、毎日がとても幸せでした。そこで、私は店員たちに「私は法輪功を修煉しています。この功はすごくよく、人の体を健康にし、気分がよくなり、すべてが順調に進みます」と言いました。
私は時間がある時に法を学び、心の中に法を持つことを約束し、本当に大きな変化でした。私の心態が徹底的に変わり、Lさんに配慮し理解できるようになりました。また、Lさんも変わり、毎日部屋の片付けをするなど、家でも仕事をするようになりました。洗濯も床掃除も、食料品の買い出しも料理も、Lさんはすべて自分で行いました。特にLさんは私の修煉に協力的で、私は嬉しくてたまらなくなりました。
嬉しくない時もありました。一度、Lさんと食事をしている時に、何が起こったのかわからなかったのですが、私はLさんにいきなり手を上げて2回ビンタされたことがありました。私は困惑し、泣きながら外に飛び出しました。子供の頃から、いつも人を殴ってきたのに、この修煉で、あえて私を殴る人がいるなんて・・・。気持ちが苦しくなりました。しかし、修煉者は耐えなければならないことを私は知っており、修煉はとても困難で、意味もなく2回もビンタされても耐えなければならないと心の中で思いました。どうしよう、戻ってLさんを2回殴って腹いせしてやればよかったのでしょうか? それはだめでした! 修煉者は人を殴ってはならないし、私自身もまだ最後まで修煉したいので、我慢しようと思いました。私は歯を食いしばり「我慢して、最後まで修煉しなければならない」と自分に言い聞かせました。私は涙を拭いて、テーブルを片付けるために中に戻りました。
Lさんはその後「なぜ殴ったのかわからない」「殴る時はどうして殴ったのかもわからない」と話しました。師父は私をお試しになり、Lさんによって私の心性を高めさせたのだ、ということが私にはわかりました。
姑と一緒に暮らすようになってからは、私は毎日朝食を作ってから出勤しました。私の親孝行を見た叔母(姑の妹)は、姑が老後も私たちと一緒に暮らせるようにと、3部屋の大きな家を建てる資金を出してくれました。Lさんは私に「老人(訳注:姑)をサポートして老人と一緒に暮らさないか?」と聞きました。私は喜んで「はい、彼女たちが望むなら、私は何も言うことはありません」と言いました。3部屋の大きな家が建った後、東の部屋に舅と姑の部屋、真ん中の部屋にLさんの兄の長男、西の家に義妹が住み、私たちは大きな家の裏庭にある、かつて舅と姑が住んでいた2部屋に住みました。しかし、表側の家も裏側の家も、みんな一緒に食事をしました。
ある日、姑から「朝早く起きて料理をする必要はありません」と言われました。姑は朝早く目が覚め、眠れなかったので、朝食を作ったということでした。私はとても嬉しくなり、姑に率直に感謝しました。翌朝は、私は本当に料理をするためには起きませんでした。しかし、朝起きてみると、隣の部屋で姑がLさんに私のことで「あなたのお嫁さんは朝から料理を作らないほど手抜きで、私がここに来てご飯を食べててもまだ起きて来ない」と話しているのが聞こえました。姑の言葉を聞いた私は、姑に暴言も吐かず、怒りもせず、それ以来、朝食は自分で作ると言い張り、姑から文句を言われることはなくなりました。私は自分に良い人になることを要求し、すべてが順調でした。姑に何を言われようと、私は誰ともけんかをしなくなりました。
私の心性を一番向上させてくれたのは、Lさんの次兄でした。姑と一緒に暮らすようになってから、家の中のものはすべて私たちが負担していました。舅の月収は600〜700元で、姑の月収は100元しかありませんでした。ですから、生活費の大半は私たちが負担していました。
次兄はほぼ毎朝、朝食を食べに来ました。次兄はオートバイを運転して、毎日それなりに稼いでいましたが、食事に来ても何も買わず、一銭も払いませんでした。毎回の食事の時、さらに私を「今日の料理は塩辛くて味が薄い、醤油が多くて料理の色が悪い、ご飯が柔らかくて汁物が淡白、この料理は切り方が美しくない、味がしない、などなど・・・」と叱りました。姑が「どうして自分の家で食べないのか」と次兄に聞くと「顔を見せたいから食べに来た」、「家では誰も魚や鶏肉を食べないので、残りのおかずはすべて捨てている」と言いました。姑は毎月30元の養老費を要求しましたが、次兄は払いませんでした。
Lさんの家に嫁いだ時から、次兄は会うたびに、私のことを、馬鹿だ、3歳の子供でも私より利口だ、と侮辱するような発言をしていました。私が修煉した後も「修煉してバカになった」と言い、このような侮辱する言葉を20年前から言っていました。しかし私は、前世で次兄をひどく傷つけたに違いないと思いました。
姑は2ムーの野菜畑を持っていたので、結婚後、私たちは小さな家を建てて、野菜を育てて生活しようと思っていました。叔母が私たちのために家を建て終えると、次兄は住んでいた家を売り、何かとしつこくからんできて、硬軟両様の戦術をとり、毎日のように姑に土地を要求してきました。姑は私たちと相談した結果、次兄に姑の土地を譲り渡すことにしました。次兄は、その土地に家を建てて、その土地が立ち退き工事で占拠された時に、多くの補償金をもらえるようにしたかったのです。次兄はお金がなかったので、公然と人に「土地に家を建てた者は、その土地が占拠されると、土地の代金の半分はその家族のものになり、誰も私に物申す者はいないでしょう」と言いました。Lさんは次兄の面目が立たなくなるように、家中の金を持ち出して、その土地に小屋と車庫と家を建てました。その時、次兄も次兄の妻も、私たちの家と次兄の家が占有している土地からそれぞれ半分ずつお金をもらうと言いました。
土地の占拠後は、土地に建てた家をアパートに交換し、子供の車を買って残りを貯金し、毎月の銀行利子で生活していこうと、私たちはもともと計画を立てていました。食べるものにも飲むものにも困らず、働かなくていいなんて最高でした! ところが、その後、土地の占拠の時、次兄と次兄の嫁は最初の約束には何も触れず、私たちに隠れて土地占拠の手続きにサインしました。お金を手にした次兄は、いつの間にか引っ越してしまいました。
当時は、多くの家族が、土地占拠のお金の不均等な分配をめぐって激しいつかみ合いをし、極度に混乱していました。Lさんも私も当時は激怒し、本当に失望し辛かったのです。私は自分が修煉者であることを自覚し、この心を放下しなければなりませんでした。しかし、お金は人心を動かしました。何十万、何百万というお金を手放すのは本当に簡単なことではありませんでした。その日々はとても波乱に満ちていて、心が痛むと同時に、私はLさんに「私たちのお金ではないのですから、私たちには必要ありません。私たち家族が安全で健康であれば、それでいいのです」と助言しました。この利益心を放下するのは簡単ではありませんでした。私は放下するのに1年かかりました。もし修煉していなければ、たとえ死んでも私はお金の半分をもらわなければならなかったでしょう。
負債もなければ、恨みもなく、借りた負債があれば返さなければなりませんでした!
心性を向上させるきっかけを一番与えてくれたのは、義妹でした。義妹は悪い人ではなく、正義感もあり、怖いもの知らずなのですが、非常にイライラしやすく、本をめくるよりも早く気が変わってしまうところがありました。
義妹の友人、家族、隣人たちは皆、義妹の気性の荒さに怯えていました。
もし大法を修煉していなかったら、私はこの家に1日もいられなかったでしょう。家では、誰も義妹のことをあえて口にしませんでした。義妹は気性が激しいだけでなく、怒り出すとハサミやナイフなど何でも投げつけ手の出し方が極めて辛辣でした。何かが少し上手くいかないと、その不満をぶつける相手を探して、十分罵ったと思ったらやめました。義妹が機嫌が悪いと、怒らせなくてもどなられました。家族みんなが義妹の腹いせの対象になっていました。特に私がそうでした。
ある日、休みの日に家で姑と雑談をしていると、義妹が聞き間違えて、私が陰で義妹の噂をでっち上げたと言い出しました。義妹は私の後を追いかけ、義妹の悪口を言ったかどうかと、罵りながら聞いてきました。私は、悪口なんて言っていません、と言いました。義妹は私の言うことを信じず、罵り続け、かねてからの恨み言まで何でも引っ張り出してきました。姑は私のために証言し、私が何も言っていない、ということを言いました。姑は私の味方だから何を言ってもだめだ、ということを義妹は言いました。
義妹は「あなたは法輪功を修煉していますが、真・善・忍を説いているのではありませんか? あなたは我慢しなければならず、我慢しなければ偽物であり、無駄な修煉をしていることになります」と言いました。夕方、Lさんが帰ってくると、義妹はLさんに文句を言い、私をこらしめろ、ということまで言いました。Lさんは微笑みながら「私が彼女を懲らしめる必要はなく、あなた一人で懲らしめることはできますよ」と言いました。十分罵った後、義姉がまた私に「義姉さん、あなたは間違ってませんか?」と聞きました。私は微笑みながら「間違っています、間違っています、人の陰口を言ってはいけません」と言いました。この時やっと、義妹は怒りが収まりました。
義妹は20年前から私たちと同居しており、私がうまく行えないと、義妹は遠慮なく面と向かって指摘し、私がうまく行った時、義妹は法輪功がいかにすばらしいかを言い、私が嫌がらせを受けた時、義妹は全力で私を守り、私が住居を追われた時、義妹は全力で私たち家族の面倒をみてくれました。
(続く)