文/吉林省の大法弟子
【明慧日本2023年1月13日】今年(訳注:2022年)の5月13日は第22回世界法輪大法デーであり、法輪大法があまねく伝えられてから30周年にあたります。法輪大法は、階級、人種、肌の色に関係なく、何百万人もの衆生に恩恵を与えています。法輪大法を心から真に修煉している人、今は修煉していないが「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」と心から信じて念じているすべての人を代表して、師父の慈悲深い済度に感謝申し上げます!
法輪大法を修煉すれば、放蕩息子(ほうとうむすこ:全く役立たずの息子)を連れ戻し、家庭に調和をもたらし、堕落者を清廉にし自制させ、不治の病にかかった患者の体を回復させ、難に遭った人の危険な状態を平穏な状態に変えることができる・・・。
「三つ子の魂百まで」とよく言われます。法輪大法を修煉し始めてから、私は長年紆余曲折した末に本当の家を見つけた子供のようでした。私は強情で不遜な性格から、人のことを思いやれる人間になり、生活や修煉の関と難の中でも心性を穏やかに保つことができました。なぜなら「私の人生は、ただ修煉するために来たのだ!」ということを深く実感していたからでした。
一、修煉前の人生の浮き沈み
私は1969年生まれです。長女である私は、両親から「素直で良い子になれ」としか言われませんでした。両親は私を躾けるのが相当難しく、思いもよらなかったようで、私もなぜ親の言うことを聞かなかったのか自分でもわかりませんでした。子供のころは、大人の機嫌などおかまいなしに、自分のやりたいことをやっていました。そのため、私は大人たちから「楊排風(訳注:『楊家将演義』に登場する楊家の侍女。侍女であるが武術に長けており、出陣もする)」「おてんば娘」と呼ばれるようになりました。
小学校に入ると、しばしばケンカをするようになりました。髪を短くし、痩せて小さいのですが、決して弱音を吐かず、手加減せず、喧嘩に負けることはありませんでした。レンガや石、棒など使えるものは何でも「武器」として使ったし、人を殴ったり蹴ったり、悪態をついたりすることもしょっちゅうでした。どんなに親に叱られても、泣きもせず、隠れもせず、慈悲を請わず、さらには親が殴り疲れてやめるまで間違いも認めませんでした。しかし私は、自分が悪いと思っているからこそ、親を憎むことはなく、私が役に立つ人間になるようにと願って私を叱ってくれているのがわかっていました。
中学生になるとますますケンカが多くなり、一人で大勢とケンカすることもありました。大人たちは、私が殴って泣かせた子供を連れて私の家に来て、その大人たちが帰ると、親に殴られるのが常でした。
中学時代、ケンカもしましたが、読書も欠かしませんでした。『西遊記』『紅楼夢』『三国志』『封神演義』など、どの本もみな好きでよく読みました。なぜなら子供の頃から「人はなぜ死ぬのか? 人は死んだらどこに行くのか? 人は死後も再生されるのか? どうすれば死なずに永遠に生きられるのか? 人が永遠に死ななければどんなに素晴らしいことか・・・」という疑問が多かったからでした。
誰も答えてくれませんでした。大人たちは、私が無駄なことを考えている、子どもは満腹になるまで食べ、あれこれとつまらぬことを考えてどうするんだ、と言いました。私は子供の頃、おとぎ話や仙人になり得道する話に夢中になりました。その頃ある家の誰かが亡くなると、私は喪主と一緒に涙を流して、人の命の短さを悲しみました。
農村の女性は20歳になると結婚するのが普通でした。大学受験に失敗して家に引きこもったのは、すでに私が25歳の時でした。なぜなら何度もお見合いに失敗したため、私はよく母親に叱られ、母親は「あなたはいつも相手のあら捜しをしている」と言いました。その後、母親に「もう叱らないで、今度結婚を申し込まれたらOKと言うから。足が不自由でも、目が見えなくても、男性なら誰でもいいです」と、私はふてくされて言いました。
1993年、ある人が私にLさんを紹介しました。Lさんの身長は170センチほどで、軍隊に所属していたそうでした。Lさんは学歴がなく、軍隊から戻った後も定職に就かず、家も貧しかったため、母親は結婚に断固反対していました。Lさんの母親は、思ったことをざっくばらんに言う私の性格が気に入らず、Lさんの母親も結婚を認めませんでした。しかし、両家の母親の反対を押し切って、私たちは3カ月後に結婚しました。
結婚する時、私は結納金を要求しませんでした。Lさんが無職で、ただギャンブルで生活をし時々喧嘩もしていたことがわかったのは、結婚してからのことでした。Lさんには、結婚している2人の兄と1人の姉、そして舅(Lさんの父親)、姑(Lさんの母親)、未婚の義妹(Lさんの妹)がいました。姑の家には部屋が2つしかありませんでした。結婚後、私たちはLさんの兄と同居することになりました。Lさんは毎日ばくちを打ちに出かけました。結婚した時、母が400元(約7000円)くれましたが、結婚式の翌日、Lさんにだまされて取られてしまいました。Lさんはギャンブルに勝てば何か食べ物を買い、負ければ手ぶらで帰宅しました。
Lさんは家に帰っても、私とはあまり話をしないし、私が何を聞いても何も言いませんでした。彼は私が何かを言うとイライラして、私のことがまどろっこしい、と言いました。Lさんは時々外泊し、帰ってきても私が質問することを許しませんでした。家では何もせず、毎日帰ってきては白酒(訳注:コウリャン・トウモロコシ・甘薯などを原料とし、蒸留して造ったアルコール分の多い酒)を飲んでいました。私が家でどうしてるかということにも、Lさんはまったく無関心でした。
家族以外の人の目には、姑は笑顔で何でも手伝ってくれるし、話もうまいと評判でした。しかし、私の姿を見たとたん、姑の顔は凍りつきました。舅はいつも優しくしてくれました。私が姑の家に行くと、家族以外の人がいる時は、笑顔で一言、私のことを「親孝行ですよ! 言うことをよく聞きますよ!」と人に自慢しました。しかし、Lさんに、私のあれもこれもだめ、言うことを聞かない、仕事も何もしない、会社にも行かない、といつも言いました。そのため、Lさんと私は時々喧嘩をしました。私は姑への恨みから、姑の家には行かなくなりました。
結婚後すぐに妊娠し、果物を食べる以外は受け付けなくなりました。しかし、Lさんは果物が嫌いなので、一度も果物を買いませんでした。私も捨て鉢になり、何もしませんでした。もともと私たちはお互いを知らず、感情的な基盤もなかった2人が、今では敵同士のような関係になり、会っても話さないし、話せば喧嘩になりました。話し合いの結果、私たち2人は「良い形で別れ、子供が生まれたら離婚して、男の子ならLさんが連れて行き、女の子なら私が連れて行く」と決めました。
姑の家は私の実家から60キロ離れていました。私の母親は、時々訪ねてきましたが、私が感じている苦しみを伝えることはできませんでした。結婚したのは自分の意思で決めたことなので、自分が我慢しなければいけないと思う反面、親が心配するのではという思いもありました。私は子供の頃から言うことをきかない子で、結婚してまで親に心配をかけたくありませんでした。姑の家のことはよくわからなかったので、相談する相手もいませんでした。私は気が狂いそうなほど抑圧され、ただただ赤ちゃんが無事に生まれ、出て行くのを待ちました。
1995年、娘が1歳の時、Lさんと私は離婚を決意しました。翌朝、近所の人がLさんに、胸と背中が痛くて息苦しいからレントゲンを撮りに結核病院に連れて行ってほしいと頼んできました。Lさんの叔父は当時、結核病院で働いており、レントゲンを撮るのにお金はかかりませんでした。近所の人とLさんは二人とも結核病院で検査を受け、近所の人は病気ではありませんでしたが、Lさんはかなり以前から結核だったと診断されました。
病院から帰ってくると、Lさんは顔をたれて下を向いてしまいました。結核になると、飲酒、喫煙、怒ること、力仕事、さらに食事をしっかりとることができなくなります。このような状況下なので、まずLさんには治療を受けさせて、Lさんが元気になってから私は離婚することにしました。
結核患者は毎日薬を飲まなければなりませんが、薬は肝臓や腎臓を刺激するので、体内の臓器への刺激を減らすために、毎日きちんと食べなければならなかったので、私は仕事に行くことにしました。仕事から帰ったら子供たちに会えるようにと、姑に子供を見てもらうようにお願いしたのですが、断固として拒否されました。仕方なく、子どもたちは60キロ離れた母親の家に預けました。子供と会えるのは年末年始と休みの時だけで、子どもたちは7歳になるまで母親のところに滞在しそれからやっと帰ってきました。その頃、私は姑に「一日中麻雀をやっていて、全く手伝おうとしない」と特別な恨みを抱いていました。
近所の人の協力を得て、靴を売る卸売マーケットへ行きました。前世紀の1990年代は、一般的に人々の賃金は非常に低く、私は月給600元(約1万1000円)で昼食の食事を自分で買わなければなりませんでした。勤務時間は朝6時半から夕方5時半までで、とてもハードでした。節約のため、バスには乗りませんでした。Lさんが古い自転車を手に入れ、私は毎日その古い自転車に乗って通勤しました。私はとても速く走り、マーケットまで10キロ以上ある道のりを30分でたどり着きました。
その数年間は特に夏場の雨が激しく、雨が降るとポンチョがびしょ濡れになり、寒さと空腹に耐え、冬場は地面が凍り、自転車に乗っていると簡単に転倒してしまい、体にあざができることがよくありました。昼食は、5毛の漬物と1元の花巻(訳注:変わり形のマントーの一種で、蒸し方はマントーと同じだが、くるくると巻いた形になっている点が異なる)を買って、しのぎました。花巻は油が入っているので、マントーよりも空腹に耐えられるということで、よく食べていました。毎月、夕食代として100元を残し、Lさんに好きな食べ物を買ってもらうために500元(約9000円)を渡していました。これがLさんの心に響きました。3年後、Lさんは完全に回復しました。
仕事が長くなり、多くの人に会うようになると、私の心は日一日とよくなりました。しかし、物を売っていると、悪態をつく人はよくあることで、我慢できず、時にはお客さんとケンカをすることもありました。
二、修煉後は苦しみを楽しみと考える
1997年のある朝、シューカウンターで靴を磨いていると、向かいの店員のZさんが本を読んでいるのが見えました。私は子供の頃から本を読むのが好きだったので、Zさんから本を借りました。Zさんは「この本は読めないと思いますよ」と言いました。私は「なぜですか?」と尋ねました。Zさんは「あなたは一日中怒って罵倒ばかりしていますが、これは佛を修める本ですが、あなたは読めますか?」と言いました。私は「私の家族は3世代にわたって佛教を信仰していますので、私に貸してください」と言いました。Zさんは私には貸さないと言いましたが、私はそれ以上何も言いませんでした。
翌朝、靴磨きと手洗いを済ませると、Zさんのカウンターに飛び乗り、Zさんの本を手に取りました。私はZさんに「今日は私に見せてください、見せてくれないならそれまでです。私が読まなければ、誰も読みたいと思いません!」と言いました。Zさんは急いで「あなたに見せます、あなたに見せます、よく読んでください、読んでみて信じられなくても、怒らないでください、あなたのためになりませんから」と言いました。私は「貸してください、怒りませんから」と言いました。
見てみると『法輪功』というタイトルの本で、ページ数も少なく、お客さんが来なかったので午前中に読み終えました。私はその本をZさんに返し「これは素晴らしい本です、私も法輪功を修煉したいです」と言いました。Zさんは「あなたは毎日人を罵っていますが、どうやって修煉するのですか?」と言いました。私は「変えます、私は変えてみせます」と言いました。
その夜、仕事が終わってから、9日間連続でZさんの家に行き、師父の説法ビデオを拝見し、五式の功法を学び、幸運にも『法輪功』という大法書籍を手に入れることができました。
修煉してみて「徳は良いものであり、修煉して功を伸ばすと徳に変換する」ということを理解しました。サービス業で働いている時、喧嘩も罵声も人に徳を与え、人を睨むことさえも徳を失うので、喧嘩や罵声などの悪い習慣を取り除く必要がありました。また、法の中では「修煉者は殺生してはいけない」と要求していました。なのでそれ以来、生きた魚は食べず、冷凍の魚だけを食べていました。
また、師父は「女性は優しくあるべきだ」、「女性は夫のことを思いやり、理解するべきだ」とも説かれていました。修煉者として、誰にでも親切でなければならず、人を見下してはならず、誰かが私にひどい仕打ちをするのは因果応報であり、私は過去に人を傷つけたことがあるからだ、と思いました。過去に夫に対してしたことを考えると、本当によくありませんでした。
師父はまた、各次元でいかに修煉するのかという法を説かれました。家庭では困難に耐えよく働くこと、仕事は真面目に取り組むこと、生活面では競争や競い合いをしないこと、ビジネスでは公平であること、心を正しく持つこと、人を陥れず人をだまさないこと、役人は自分のためにするのではなく、国民の生活をよくするためにこそするのだということを悟りました。大法を修煉するために山や寺に入る必要はなく、お金もかかりませんでした。特に、大法の修煉には人種も富も年齢制限もなく、真の修煉者である限り、今生円満成就することができるのです!
法を学んでから、修煉者である私が行うべきことは、すべての執着心を取り除くことだと理解しました。病気は業力の結果であり、大業は大病、小業は小病、すべての病気は自分の業の結果でした。子供のころの人生に対する疑問がすべて晴れました。私はただ法に則ってしっかり修煉するだけで、師父がすべて面倒を見てくださいました。
(続く)