修煉は一つの考え一つの念を疎かにしてはならない
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2023年7月18日】修煉の中で小さい事などありません。自分の一つの考え一つの念をおそろかにすると、修煉に困難をもたらすかもしれません。ここで私自身が体験した話をしたいと思います。

 ある日の夜、私は自転車に乗って、数人の同修と一緒に帰宅する途中、交差点で赤信号になったので止まりましたが、他の同修はそのまま通り過ぎました。同修たちは夜だし、道路には誰もいなかったからだと思っているかもしれません。私は同修たちに向かって「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[1]と、師父の説法を言いました。信号が青に変わり、私は同修たちに追いつき、こう言いました。「私たちは修煉者で、師父は私たちに『大志を懐きながら細かいことに配慮し』と教えて下さっています。遅い時間、道路に人がいなくても、赤信号でそのまま進んではいけませんよ」。同修たちは何も言わずに、ただ笑って平然としていました。私はそれ以上何も言えなかったのです。

 またある日、ある同修が用事があって、私に「一緒に行ってくれませんか」と頼みました。彼女は電動自転車で私を乗せて行くことにしました。交差点で赤信号だったので、私は「止まるだろう」と思いましたが、彼女は堂々と赤信号を走り抜けました。私は「なぜ、赤信号なのに進んだのですか?」と聞くと、彼女は微笑みながら「もう慣れたから、大丈夫です。信号を待つのは時間の無駄だからです」と答えました。私はそれ以上何も言えませんでした。帰る途中の交差点で、また赤信号になり、私はまた「止まるだろう」と思いましたが、そのまま赤信号を走り抜けました。「また赤信号で止まらなかったのですね」と言うと、彼女はただ微笑んでいました。私はどうしようもなかったけど「まあ、いいじゃないか」と思いました。この一念は同修の行為を認めたことになります。その後、自分も何度か赤信号になったとき、周りを見渡して誰もいなかったら、そのまま渡るようになりました。渡った後、いつも「なぜ、赤信号なのに、道路を渡るんだ? 神様が見ているじゃないか!」と後悔しましたが、そのたびに「もう渡ったから仕方がない」と、自分を慰めました。

 ある日、落ち着いてよく考えると「もう渡ったから仕方がない」という誤った念は、たとえそれが「一瞬の念」であっても、うっかりその誤りに同調してしまったことになります。そうすると、その一念に符合したほかの空間の生命に支配されるのではないかと思いました。

 私たちは生活の中で、このような「うっかり」した「一瞬の念」や、「うっかり」した「小さなこと」に対する同調が、他の空間ではどのぐらいの正しくないものを形成し、私たちの修煉を妨げ、修煉に困難をもたらすのでしょうか! それによって、修煉において、自分に厳しく要求することができず、無意識のうちに、知らず知らずと、流れに身を任せてしまい、ついには自分自身が抜け出せなくなり、ダメになってしまうかもしれません。実は、一つの考え一つの念を注意しなかったことで、つまり自分自身のせいで、問題になるのです。修煉の中でこのような例がたくさんありました。社会環境全体が私たちの修煉場であり、私たちはその中で生活し、その中で修煉しており、時々刻々に修煉しているのです。

 ここで、私はうっかり口から滑り出た言葉によって、命を落とすかもしれない出来事を招いてしまった話をしたいと思います。そのことを通じて、私は修煉の厳粛さを知ることができました。それは、ある日の夕食のとき、私は夫に何気なくこう言いました。「実は、私は死を恐れてはいない。死は私にとって、一種の(解脱)安らぎなのです」。この一言で、食事がまだ終わっていなかった私は、箸も握れなくなり、頭が垂れ下がってしまいました。それで、私は慌ててソファに移動し、横になりました。その時、全身は動かず、声も出ず、わずかな意識は保てているようでしたが、なんと、突然、身体の圧迫感がなくなり、心配事もなくなり、とても心地よくて快適な感じがしました。

 そのわずかな意識の中で「これは死に向かっているのだろうか?」と思いました。しかし「私は死んではいけないのだ。私が死んだらどれだけ大法に損失をもたらすのか!」と思い「 師父、助けてください。私は死ねません、間違っているところがあれば改めます」と心から叫びました。「寝室に入って寝れば、次の日の7時には目が覚めれる。きっと大丈夫!」という考えが頭に浮かびました。

 それから、自分がどうやって寝室に移動したのかは覚えていないのですが、ベッドに倒れ込んだ後の記憶がなくなったのです。翌朝、7時に目を覚ますと、何事もなかったかのように起きました。私は心の中で師父に感謝しました。夫が部屋に入ってきて「もう大丈夫か?」と聞いたので、私は 「ええ、大丈夫よ!」と答えました。夫は「昨夜は、本当に怖かった。突然のことだったから、何が起こっているのかすらわからなかった」と言いました。その後、私はうちに向けて探してみると「自分が言ってはいけないことを言ってしまったから『解脱したければ解脱させてやる』と旧勢力に隙に乗じられて、そうなったのだ」と認識しました。

 さらに、うちに向けて自分自身を深く掘り下げてみると「修煉の中で死というのは怖いことではないと理解したので、自分は生と死を手放すことができる」と思っていましたが、実はそうではなかったのです。師父は「人間は思想・意識の支配を受けて言葉を語るのです」 [2]と説かれました。「どのような思想・意識が、私にそのような話をさせたのでしょうか? 私は死を求めているのだろうか?」と、考えました。この文章を書く段階になって初めて、私の死を恐れないという心は、修煉において生と死を手放したというよりも、人生の苦難から自分を解放したいという願望があり、無意識のうちに死を求めていたのだと気づきました。たとえ、死は放下できたかもしれませんが、生は放下できていません。 

 この出来事から「私たち修煉者は常に堅実に自分の心を修めなければならない。修煉は子供の遊び事ではない」と悟りました。不注意な一言や一念は、旧勢力がその機会を捉えて、時に何が起こっているのかわからないうちに、迫害され、修煉に困難を引き起こしてしまいます。修煉の厳粛性を忘れてはいけません! 

 文章を書く過程は、心を修める過程であり、自分を昇華させる過程でもあります。もちろん「修は己にありて、功は師にあり」 [2]ですので、師父が見守ってくださるのです! 文章を書いているうちに、まるで扉が一つ一つ開き、物質が一層一層取り除かれていき、長い間困惑していた心の結び目が自然なプロセスのように解けて開いていくような気がしました。自分の次元で悟るべき法理を悟っただけではなく、大法は私に開いて見せてくれた気がしました。本当に驚きながらも、素晴らしいことだと思います! 

 ここで、自分の修煉体験を書いたことのない修煉者に「ぜひペンを取って書いてほしい」と言いたいのです。これは自分の修煉体験を書くだけではなく、書く過程で師父が私たちに知恵や叡智を与えてくださいます。法理に対する認識を昇華するのです。これは私の個人的な経験であり、もし間違っていたら、同修のご指摘をお願いします。

 私たち大法弟子はともに精進し、師父への恩返しをしましょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/6/27/462366.html)
 
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