(佛家の人物参考資料)
【明慧日本2024年5月18日】(前文に続く)
十六、沙羅双樹(サラソウジュ)で涅槃、舎利が広がる
釈迦如来は49年にわたって法を説き続け、涅槃に入ることになりました。涅槃とは「滅度円寂」とも訳され、生も死もなく、滅跡帰真という意味です。元々、佛には三つの身があります。一つは法身であり、清浄で相なく、至る所に満ち溢れ、古今にわたって生まれず死なずです。二つは報身であり、非常に高く荘重で清浄自由自在であり、寿命は無限です。初地菩薩以上の者に見ることができます。三つは応身であり、佛は無数の応化身を持ち、こちらで生まれ、あちらで消え、常に世間にあり、衆生のために顕現し、因縁に従って活動し、使命を果たした後に消えます。
佛の弟子の中で、舎利弗は知恵第一であり、目犍連は神通第一であり、摩訶迦葉は苦行第一であり、阿那律は天眼第一であり、須菩提は解空(げくう)第一であり、富楼那は説法第一であり、迦旃延(かせんねん)は議論第一であり、羅睺羅は密行第一であり、阿難は多聞第一であり、優波離は戒を守ることが第一です。彼らは世に「十哲」と称されます。その中で、舎利弗と目犍連が最も上位です。そこで、舎利弗は佛の涅槃を見ることに耐えられず、「涅槃定」に入り、先に涅槃しました。
佛は四衆の弟子たちに大般涅槃経を説き、法身が常住する理を広く明らかにし、弟子たちに三か月後に自分が涅槃することを告げました。最後に、佛は跋提河(ばつだいが)のほとりにある拘尸那城(クシナじょう)の途中で、純陀(チュンダ)から最後の供養を受けます。佛は沙羅双樹の間で休息しました。この場所は四方にそれぞれ二本の沙羅木があり、枝と葉が対になって綺麗に整然としています。中央には柔らかく緑の美しい芝生が広がっています。佛は阿難にここに綿床を設置するよう命じ、頭が北に向き、顔が西に向かって横になりました。右脇は下にし、足を畳んで安らかに横になり、深夜に涅槃に入ることになりました。阿難は佛に長く滞在してほしいと悲しみながら頼みました。その夜、異教のバラモン、須跋陀羅(スバッダ)が佛のもとに救い済度を求めにやって来て、八聖道法を聞き悟り、最後の弟子となりました。佛はまた、最後の教えを弟子たちに説きました。その中で、出家弟子たちは山林に依拠し、清浄を守り、少欲知足(しょうよくちそく、分相応で満足しわきまえる)であり、昼夜にわたって精進し、戒定を修めるようにと繰り返し教えました。世俗の事柄や医術、占星術などの俗世間の知識や業務に執着しないようにし、睡眠を贅沢にすることなく、六根を厳しく管理し、解脱を勤めるようにと厳命しました。そして、特に佛が涅槃した後は、戒律を最も尊重し、戒を師として拠り所とすることを強く念押しました。
佛が説法を終えると、静かに右側に横たわり、穏やかに逝去しました。それは2月15日の中夜で、世尊の寿命は80歳でした。
佛が涅槃すると、人々や天から涙が流れ、沙羅双樹は白く変わりました。弟子たちは7日間供養し、その後、四つの城門に向かい道路を整備してました。そして、人々と天界の守りで、金棺は自ら東の城門に向かって上昇し、各通りを通り抜け、香り高い花や旗、傘で飾られ、至るところで礼拝と供養が行われました。北の城門を出て、尼連禅河を渡り、天冠寺に到着しました。その後、迦叶尊者と500の比丘が到着すると、火を焚いて葬りました。焼却後、光り輝く八斛四斗の量の「舍利」が得られました。
その時、各国は佛が拘尸那城で涅槃されたと聞きました。そして、波波国の末羅民族、遮羅頗国の跋離民族、羅摩迦国の拘利民族、毗留提国のバラモンたち、迦毗羅衛国(かびらえこく)の釈種民族、毘舎離国(びしゃりこく)の離車民族、摩竭提国(まがだこく)の阿育王(アショーカ)が兵を整え、拘尸那城の外に集まり、佛の舎利を分けるよう求めました。当初、拘尸王はこれを拒否し、戦争が起こりそうになりましたが、人々の説得によって「皆が佛の信徒であり、佛の舎利を争って戦うべきではない」ということで同意し、八国はそれぞれ八つの部分に分けて塔を建てて供養しました。
佛の涅槃から百年後、阿育王が登場し、摩竭提国を支配し、インド各国を統治しました。阿育王は佛教を大いに興し、阿蘇世王が建てた舎利塔を発掘し、八万四千の舎利を得て、八万四千の舎利塔を建てて各地に分布させました。現在の中国浙江省寧波市の阿育王寺や天台山真覚寺などにある釈迦如来の真身舎利は、阿育王が分布させた舎利を掘り出して新たに建てた塔で供養されているものです。(舎利はまた舎利子ともいい、梵語で室利羅と訳し、雲霊骨を意味します。これは如来の身骨であり、戒定慧を積んで修成されたものです)
佛の涅槃後、500の羅漢たちは耆闍崛山(ぎじゃくっせん)に戻り、帝釈岩の中に住んでいました。皆で阿難を長老に選び、如来の教えを集めました。そこで、阿難尊者は上座に上り、聞いた教えを改めて唱え、他の人々がそれを記録しました。各経の最初の句に「如是我聞」(にょぜがもん、このように私は仏から聞いたという意)と記すことで、佛から直接聞いたことを示しました。このようにして三蔵法宝が形成され、それに基づいて修行した者は皆成道しました。
阿難尊者は佛の生前にはまだ須陀洹でしたが、佛の涅槃後に阿羅漢果を得ました。彼は迦葉尊者から法衣と鉢を受け継ぎ、西竺(インド)の第二祖となりました。後にその教えは馬鳴と龍樹という二大士に伝わり、彼らは大乗佛教を光り輝かせ、多くの論を造り教えを明らかにしました。二十八祖の達摩(だるま)大師は、中国の梁武帝の時代に渡江してきて、中国禅宗の初祖となりました。
これが佛教の正統な伝承です。佛法が中国に伝わると、隋唐の時代には多くの宗派が興り、大いに発展しました。一方、インドの大乗佛法は失われてしまいました(佛の涅槃後、十世紀にインドでは外道が再び台頭し、国政が混乱し、全インドから佛跡が消えました。インドが佛教を信仰しなかったため滅びたのです)。したがって、佛法はインドに発源し、中国で栄えました。この至宝の国粋はその後、日本へ伝わったのです。
(完)