【明慧日本2024年9月24日】ヒマラヤ山脈は古来、修煉者が多く集まる場所であり、人々は質素な生活を送り、歌や踊りを楽しむと同時に、佛法を崇拝していました。その中で、ミラレパ(密勒日巴)という修煉する者がいました。佛、菩薩たちは多生曠劫(たしょうこうごう:繰り返し輪廻する長い時間)の修煉によって成就するものですが、ミラレパは一生の中でこれらの佛、菩薩と同等の功徳を成就し、後にチベット密教の始祖となりました。
(ミラレパ佛の修煉物語(十一)に続く)
尊者(ミラレパ)は熾結崖洞(しけつがいどう)で病気を患ったような様子を見せました。その時、空には説法の時と同じように虹が輪のように現れ、花が雨のように空から降ってくるなどの吉兆が現れました。そこで皆は尊者が他の世界に行かれることを知りました。寂光惹巴(じゃっこうじゃば)、雁総惹巴(がんそうじゃくは)、色問惹巴(しきもんしゃは)などの弟子たちは尊者に「尊者が涅槃に入った後、どの浄土に行かれますか? 我々弟子たちはどこに祈ればよいでしょうか?」と尋ねました。
尊者は「どこで祈っても同じです。ただ信心を持ち、真摯に祈れば、必ず私はあなたたちの前に現れます。あなたたちの祈りが必ず成就することを保証します。今回、私は東方現楽浄土(とうほうげんらくじょうど。訳注:東方の理想的な浄土)に赴き、不動如来(ふどうにょらい。訳注:大日如来の化身)に礼拝します。以前話していたことがありますが、それが私の遺言です。私ミラレパが死んだ後、ほんの少しの持ち物以外には何も財産はありません。綿で作られた私の衣服と杖をレチュンパに渡しなさい。彼はすぐに戻ってくるでしょう。彼にこの二つの物は修行に関係すると伝えて、レチュンパが戻るまで私の遺体に触れてはいけません。このマイトリパ(訳注:チベット佛教の修行者)の帽子と沈香(じんこう。訳注:香木の一種)の杖は、佛法の教えを深く考察しその真髄を理解することができ、佛法を弘めるものであり、衛巴頓巴(えいばとんぱ)に渡しなさい。この木の碗は寂光惹巴、あなたが持って行きなさい。この霊蓋(れいがい。訳注:佛像を覆うことで保護する蓋のようなもの)は雁総惹巴に。火打石は色問惹巴に。この骨で作られた匙は熾貢惹巴(ちこういっぱ)に。この布の座布団は他の弟子たちに分けなさい。一人一片ずつ持って行けます。これらの物は金銭的価値はありませんが、佛法の教えを実践するために渡すのです。最も重要な遺言と私が長い時間にわたって集めた金はこの炉の底に隠されています。私が死んだ後、佛教の教えに対する認識が欠けている多くの弟子たちが私の死後の処理のため、争うかもしれません。その時にこの遺言を開いて見なさい。そこには修行の方法も記されています。また、少量の福徳しかない佛教徒が今生の名声や敬意のために表面的に佛事を行い、実際には支援を百行って千を取り戻そうとする者がいます。このような果報を求めて佛事を行う者は、毒を混ぜた美味を食べるようなものです。したがって、今生の名声や敬意のために世間の評判や名声を求めてはいけません。表面的には佛法で実質は世法(せほう。訳注:世俗的な事柄)の事を行ってはならず、一心に純粋な佛法を修行すべきです」と言いました。
弟子たちはさらに尊者に「衆生のために利益があるならば、少しは世法を行ってもよいでしょうか?」と尋ねました。
尊者は「世法を行う動機が少しでも利己的でないならば、それは可能です。しかしそのように行うのは非常に困難です。自己の欲望のために他者の利益を優先した行動をすると、自分自身の悟りも成り立たず、他者の利益も成り立ちません。水泳ができない人が泳ごうとしても、泳げずに溺れるようなものです。すべての現象は実体を持たない空(くう)であるという真理を深く理解し、自分自身の体験として確信するまでは、他者の利益を目的とした活動について話すべきではありません。悟りをまだ体得できてないのに、他者の利益を目的とした活動をしようとするのは、盲人が盲人を導くようなもので、最後には自分自身の欲望に基づいた深い混乱に陥るだけです。本来、真理は無限であり、衆生を救う機会もまた無限です。自らの修行が成就した後には、衆生を救う機会は無限にあります。どんな時も、どんな場所でも、衆生を救い済度することできます。成就する前は、自分の心を清め、深い慈悲の心を持って衆生を救おうとする態度を持ち、自分自身の悟りを目指しつつ、衆生への深い慈悲と救済の意志を持つべきです。物質的な欲望や世俗的な欲求に対する執着を捨て、身体は労苦に耐え、心は自己の欲望や執着を克服し、こうして修行することが本当の衆生を救い済度することであり、悟りを目指して行う修行の完成であり、自分自身と衆生が究極的に得ることのできる最高の利益です」と答えました。
ミラレパ尊者はさらに続けて「今、私はもう長くは留まりません。私の言葉を忘れずに、私の教えを継ぎなさい!」と言い終わると、尊者は生と死を超えた境地に達し、肉体の死を迎える際に涅槃の状態を顕現しました。享年84歳、木鼠年(1135年)の冬季の最後の月の14日の日の出前の空が少しずつ明るくなり始める時間帯、星の光が消え、朝日が昇る時、尊者の色身は物質的な存在を超え「空」の境地に到達し、涅槃の状態を体現しました。
この時、天人たちが空に現れる際の非常に美しく神秘的な光景が、以前よりもさらに広く、際立った形で現れました。空には広大で鮮明な虹が輪のように現れ、その虹の輪はまるで手で触れることができるかのように明瞭でした。さまざまな色が空中に交錯し、虹の輪の中央には八つの花弁を持つ蓮の花が見え、その上には非常に美しい曼荼羅がありました。世界最高の画家でもこのような美しい曼荼羅を描くことはできません。先端の5色の色とりどりの雲は、旗や飾り、宝幡(ほうはん。訳注:装飾的な旗)など変化の形態が多様であり、さまざまな花が空から降り注ぎ、雨のように落ちてきました。色とりどりの雲は四方の山頂に絡みつき、宝のように美しい塔のような雲が曲巴(くっぱ)の中心に集まりました。皆は天界から聞こえてくる心地よく美しい音楽と賛辞の声を聞き、天界から漂ってくるこの世のものとは思えないような香りが大地に漂いました。世間の人々も天人の姿が空に満ちているのを見て、盛大な供養が行われているのを目撃しました。人々は天神たちが裸でいるのを見ても驚くことはありませんでしたが、天神たちは人体の臭いを恐れ、顔を覆って通り過ぎました。天神と人間が互いに話し合う光景も見られました。人々は非常に珍しいこれらの奇跡的な現象を目の当たりにしました。
鴨龍(おうりゅう)の施主たちは尊者が涅槃に入られたことを聞き、曲巴に駆けつけ、主要な複数の弟子たちや曲巴の施主たちに、尊者の遺体を鴨龍に運んで埋葬させてほしいと多くの理由を述べましたが、主要な弟子たちに拒否されました。そこで鴨龍の施主たちは大礼(たいれい。訳注:尊者の功績を称えるために行う葬儀)を延期してもらい、布林(ふりん)や他の地の信者たちに最後に尊者の聖容を拝む機会を与えてほしいと求めました。曲巴の施主たちはこの要求を受け入れました。鴨龍の人々は急いで会議を開き、勇敢で力強い人々の集団を連れて尊者の遺体を奪う準備をしました。そして曲巴の施主たちと争いが始まり、騒ぎは暴力に発展しそうになりました。主要な弟子たちはこの状況を見て、すぐに彼らに「皆さんは尊者の信徒です! 争わないでください。尊者が曲巴で涅槃に入られたのですから、当然ここで大礼を行うべきです。ここで待っていれば、大礼が終わった後に必ず尊者の遺骨や灰を分け与えることができます!」と言いました。しかし、鴨龍の人々は人が多いことを頼みにして、聞く耳を持たず、遺体を奪おうとしました。すると突然、空中に天神が現れ、尊者の声を発しました。
施主と弟子たちは再び尊者に会えたように感じ、言い表せないほどの喜びと感動に包まれ、争いは止み、一心に祈りを捧げました。ついに不可思議な幻想的な現象の中で、主要な弟子たちと曲巴の施主たちは元の遺体を保有し続け、鴨龍の人々は奇跡によって現れたもう一つの尊者の遺体を得て、それを大鵬蛋窟(だいほうたんくつ)の頂上で火葬にしました。空中には前回の涅槃時と同じく、5色の神聖な光、色とりどりの雲、天界から聞こえてくる美しい音楽、天界から漂ってくるこの世のものとは思えないような香り、その他さまざまな奇跡が現れました。
一方、曲巴では、主要な弟子たちと施主たちは6日間連続して心を尽くして祈りを捧げました。すると尊者の顔が突然輝き始め、若々しく8歳の子供のようになりました。主要な弟子たちは相談し、「レチュンパは恐らく戻ってこないでしょう。このままでは何も残せなくなり、供養のための骨灰さえも手に入らなくなります。早く火葬を行いましょう!」と決めました。皆は尊者の聖容を最後に拝し、聖体を熾結窟(しけつくつ)の前の佛法を説くために設けられた崖に移し、火葬の台を設置し、聖体を台に安置して曼荼羅を描きました。天人の供養には及びませんが、人間界で最良の供物を並べました。夜明けに、さまざまな祈りと儀式が行われ、火葬が試みられましたが、火はどうしても点きませんでした。その時、空に虹の輪が現れ、悟りを得た 5人の女性密教修行者が現れました。
雁総惹巴は「尊者と空行者(くうぎょうしゃ。訳注:高い悟りの境地に至った修行者)の教えは、レチュンパが到着するまで尊者の遺体に触れてはいけないと教えています。しかし、レチュンパはまだ到着しておらず、遺体が腐敗する恐れがあります。どうしましょうか?」と言いました。
寂光惹巴は「尊者と空行者の教え、そして火が遺体を焼けないことから考えると、レチュンパは間もなく戻ってくるでしょう。私たちは心から祈り続けましょう」と答えました。皆は聖体を洞窟に戻し、再び一心に祈りを捧げました。
さて、レチュンパが羅若多寺(らじゃくたじ)で修行していた時のことです。ある夜の後半、光明と睡眠が一体となった感覚の中で、彼は曲巴の地に水晶で作られた一座の塔が現れ、周囲の虚空に光明を放っているのを見ました。無数の空行者たちが宝のような美しいこの塔を囲み、他の世界へ迎え入れようとしていました。地上には自分の修行仲間や尊者の施主たちが至る所にいました。天神と空行者の歌声が空に響き渡り、至る所で不可思議な捧げ物のような雲が見えました。レチュンパは宝のような美しい塔に礼拝し、突然尊者の顔が塔から現れ、彼に「息子よ! お前は私の言葉に従ってすぐに帰ってこなかったが、もし我々父子がもう一度会うことができるなら、私は非常に嬉しい。今後、我々父子が頻繁に会うことは恐らくないだろう。この貴重な機会を逃さないで、しっかりと話をしようではないか!」と言い終えると、尊者は手をレチュンパの頭に置き、満面の笑みを浮かべて彼を見つめました。レチュンパは悲しみと喜びが入り混じり、これまでにない信心と特別な感覚が生じました。
レチュンパが目覚めると、尊者が以前に彼に言ったことを思い出し、心の中で大いに驚いて「尊者は涅槃に入られたのか?」と思いました。彼は耐え難い悲しみと強烈な信仰心に襲われ、一心に尊者に祈りを捧げました。「師よ! 私はすぐに駆けつけることができず、本当に後悔しています! しかし、すぐに戻ります!」と考えていると、空に2人の少女が現れ、彼に「レチュンパ、尊者は浄土に行かれるから! 急がないと、今生で尊者に会うことはもうできないかもしれない! 早く行きなさい!」と言いました。
レチュンパは心の中で上師を念じ、心は矢のように急いで立ち上がり、帰途につきました。羅若多寺の鳥たちはその時、チュンチュンと朝を知らせていました。
レチュンパは一心に師に祈りを捧げ、一方で特別な力を発揮し、矢のように飛びました。ロバで2カ月かかる道のりを、半日の朝のうちに飛び越えました。亭日(ていじつ)と布林の境界にある鉢赛山(ぼっさいさん)の山頂に到着すると、空はようやく明るくなり、太陽がちょうど昇るところでした。彼は座って少し休みました。見上げると、至る所に色とりどりの雲が見え、特に尊者がこの世を離れた山頂には、広大無辺な雲が現れ、無数の天神と空行者たちが五つの欲を象徴する雲によって全ての衆生への慈悲を示し、盛大に供養をしていました。ある天神は祈りを捧げ、ある者は願をかけ、ある者は礼拝し、ある者は賛歌を歌っていました。レチュンパはこれを見て、心の中でまた悲しみと喜びが交錯し、ある天神に疑問を抱いて「あなたたちは何のためにこのように供養礼拝をしているのですか?」と尋ねました。
天神は「あなたは耳が聞こえないのですか? 目が見えないのですか? このような人間界と天界の両方が関わる盛大な供養の機会を知らないのですか? これは密勒喜笑金剛大士(馬爾巴による灌頂の時にミラレパに授けられた名前)が清浄な世界に向かうため、天界に住む神々が彼を供養祈祷しているのです。知らないのですか?」と答えました。
レチュンパはこの言葉を聞いて、心が痛み、尊者がこの世を離れた山の中にある洞窟に向かって走りました。曲巴の一角に神聖で穏やかな場所があり、夢を見ているかのように尊者が満面の笑みを浮かべて彼に「息子のレチュンパが来たのか?」と言いました。
レチュンパはこれを見て、言葉にできない喜びを感じ、尊者が涅槃に入っていないと思い、急いで尊者の足元に礼拝し、祈りと安否を尋ねました。レチュンパはさらに多くの質問を尊者に投げかけ、尊者はそれに答えました。最後に尊者はレチュンパに「息子よ! 私は先に行く、君は後から来なさい! 将来、私は君を迎えに来る! 私の言葉を忘れないで!」と言うと、忽然(こつぜん。訳注:突然)と一瞬のうちに尊者は姿を消しました。
レチュンパは心を揺さぶられながら曲巴に駆けつけ、尊者が入滅された洞窟の前に到着すると、弟子たちと施主たちが尊者の遺体の傍らで悲しみながら祈りを捧げているのを見ました。多くの新しい弟子たちがいましたが、彼らはレチュンパを知らず、彼が洞窟に入って尊者の遺体に近づくのを阻止しました。 レチュンパは言葉にできない哀しみを感じ、涙を流しながら泣きました。
「恩深く慈愛深い上師よ! あなたの深い慈悲と智慧に、弟子の嘆きを聞き取ることができないのですか? あなたの深い慈悲と智慧に、弟子の痛みを憐れむことができないのですか? ああ、慈愛深い上師よ!」
レチュンパの歌声が洞窟に届くと、尊者の遺体が突然光り輝き、顔が生きているかのように見えました。尊者の遺体が突然自ら燃え上がりました。寂光惹巴、雁総惹巴、そして主要な弟子たちと施主たちは、レチュンパの歌声を聞いて急いで出迎えました。しかし、レチュンパは新しい弟子たちが彼を知らず、洞窟に入ることを許さなかったため、非常に悲しみました。そのため、彼はすぐに洞窟に入ることができませんでした。尊者に対して尊敬と感謝の気持ちを表す歌を歌い終えた後、ようやく洞窟内に入りました。レチュンパの熱情と誠実な歌声の祈りが尊者を感動させ、尊者が宇宙の根源となる真理と一体化し永遠の安らぎを得た状態に入っていたにもかかわらず、再び慈悲の光から起き上がり、新しい弟子たちに向かって「修行を始めたばかりの新しい弟子たちよ、レチュンパに対して不適切な行動を取ってはいけない! レチュンパは尊敬される人物であり、彼を敬うべきだ」と言いました。また、レチュンパに向かって「息子よ、そんなに悲しむな、父のそばに来なさい!」と言いました。
皆はこの奇跡を目の当たりにし、大いに驚き、無量の喜びが心に湧き上がりました。
レチュンパはすぐに尊者の遺体の前に駆け寄り、尊者を抱きしめて声を上げて泣きました。あまりの悲しみのため、レチュンパはその場で気を失って倒れてしまいました。目が覚めると、弟子たちと施主たちが祭壇の周りを取り囲んでおり、清浄な悟りの境地にあり衆生を救済する働きを持つ尊者の尊い身体は倒れておらず、八つの花びらを持つ蓮の花の形の火の中で安らかに座っていました。尊者の身体はまるで花の中心であるかのように、八つの炎の花びらの中で座り、右手は佛教の教えを説く際に用いる手印で火の先端を押さえ、左手は頬に当てて歌う姿勢をとり、レチュンパと弟子たちに向かって「私、この老人の最後の歌を聴きなさい!」と言いました。
そして、祭壇の上で悟りへと導くために重要な六つの要素をまとめた歌を歌いました。
我が息子レチュンパよ、私の最後に伝えるメッセージ、最後の歌を聞きなさい。
三界輪廻の火海の中、輪廻から解放されるためには自我を理解することが重要である。
衣物に執着し世事に奔走すること、世事は永遠に終わりがない。
世法を捨てなさい、レチュンパよ!
存在の要素は幻想であり、実体を持たない真の自己を見つけることが苦しみから解放されるための鍵である。
この心が肉身に使われるならば、宇宙の根本的な真理を永遠に証することはできない。
自心を善く持ちなさい、レチュンパよ!
心と物質の選択に関する理解には、本来の智慧が鍵である。
変化し続ける因果関係を追い求めるならば、執着を捨てることの重要性を永遠に証することはできない。
無生を善く観なさい、レチュンパよ!
現世と次の生の取捨の中に、生死の間の心の状態が鍵である。
常に身体が存在するかしないかに依存するならば、本質的な真理を永遠に証することはできない。
実相を善く観なさい、レチュンパよ!
六道の中で迷いと混乱に囚われれば、明瞭な状態に達していないために、自分の過去の悪い行いや罪が積み重なり、まるで山のように巨大になる。
貪欲や憎しみの煩悩を除滅しないならば、人の平等性を永遠に証することはできない。
貪欲と憎しみを捨てなさい、レチュンパよ!
万千の諸佛の浄土の中、衆生の性質に合った教えを巧みに説く。
もし一時的な方法に依るならば、究竟の義を永遠に悟ることはできない。
一時的な手段を捨てなさい、レチュンパよ!
上師本尊と空行、これを一体観として祈り願いを込める。
正しい行いを実践し正しい方法で修行を行い、身・口・意のすべてにおいて偏りがなく一貫して修行を行う。
この生また来世と生と死の間、これを一体修として熟念する。
我今あなたに最後の決を伝えん、これが最後の遺言である。
これを捨てて他に心伝なし、これに依りて修行するは我が子なり。
尊者が最後の教えを述べ終えると、再び真理と一体化した状態に入られました。尊者が涅槃に入ると同時に、祭壇から光が放たれ、広大で荘厳な超越的な四方形の宮殿に変化しました。様々な光明の傘、美しい色彩の霞、神聖な旗などの豊富な供養が尽きることのない荘厳さを示していました。光の中には無数の天女が現れ、美しい音楽の中で歌い踊っていました。祭壇の上の神聖な空間では、天子と天女が満ち溢れた甘露の宝瓶を捧げて尊者に供養していました。弟子たちや信者たちは、ある者は祭壇の中の尊者を喜金剛(きこんごう。訳注:密教における重要な本尊の一つ)として見、ある者は上楽金剛(じょうらくこんごう。訳注:密教における重要な本尊の一つ)として見、またある者は密集金剛(みっしゅうこんごう。訳注:密教における重要な本尊の一つ)として見たり、金剛亥母(こんごうがいも。訳注:密教における重要な本尊の一つ)として見たりしました。それぞれの因縁と根器に応じて、様々な佛身を見たのです。
この時、無数の空行者が神聖な空間に満ち、一斉に声を合わせて歌いました。
崇高な存在が涅槃に入られる時、天と地の大衆は共に悲しみました。
ある者は涙を流し激しく泣き、ある者は悲しみのあまり立つこともできず倒れました。
自らの炎が自ら燃え上がり、火焔は八葉の蓮花の形を成しました。
7種類の宝物と八つの吉祥の象徴を具え、無数の願いをかなえる力を象徴する供物が現れました。
弦楽器、管楽器の諸々の楽器が無量の妙音を奏でました。
火の中から無数の天女が現れ、広大な心からの供養を捧げました。
妙なる香が漂い、宝傘や花のような装飾などが現れました。
吉祥天女が供養を捧げ、清浄な身として骨を持ち帰りました。
上師の身体が完全に消滅し、上師の遺骨は極めて稀有でした。
法身はどこまでも広大で自由な状態であり、衆生を救うために現れる姿はすべての衆生を包み込み慈悲の雨を降らせ、さまざまな姿に変化して衆生を教え導く活動は無数に現れ、すべての生きとし生けるものを悟りの境地に導きました。
物事の本質は実体を持たず変わらない状態であり、この中に生じるものもありません。
すべてのものが空であるという性質は生と滅という変化の過程を超越しており、生と滅もまたすなわち空です。
この物事は実体を持たないが現象としては確かに存在するという深遠な認識において、どうか疑いを生じて誤解することのないように。
空行者たちが歌を歌い終わると、時はすでに黄昏に近く、空は次第に暗くなり、祭壇の火も消えていました。しかし、祭壇の内外は一片の透明な光で包まれていました。弟子たちはとても不思議に思い、祭壇の中を覗いてみると、祭壇の中央に宝のように美しい光明の塔が現れていました。塔の中央には、上楽金剛を見た者、金剛亥母や喜金剛を見た者、金剛鈴杵(こんごうれいしょ。訳注:密教において用いられる法具の一種)、宝瓶(ほうへい。訳注:灌頂で用いられる器)、手印、身・口・意の文字を見た者、金色の光明を見た者、海水を見た者、烈火を見た者、何も見えなかった者がいました。
弟子たちは祭壇の扉を開け、熱気を逃して、翌日に舎利を取りに来る準備をしました。その時、さらに多くの不思議な徴候が現れました。その夜、皆は祭壇の扉に向かって頭を下げて地面に寝ました。翌朝、レチュンパが目を覚ますと、佛の五つの智慧に対応する空行母(訳注:悟りを得た女性の密教修行者)たちが装飾された宝飾品や香や花、食べ物、装飾品などの供養品を持って祭壇に入ってきて供養を行いました。しばらくすると、5人の主要な空行母が光の束を抱えて祭壇から飛び出して行きました。レチュンパはそれを見て、尊者の骨灰の舎利を空行母たちが持って行ったのだと思い、急いで駆け出しましたが、空行母たちはすでに舎利を抱えて空中にいました。レチュンパは急いで戻り、すべての兄弟弟子たちを起こしました。皆で祭壇の扉を開けて中を見ましたが、舎利の一つも残っていませんでした。レチュンパは悲しみのあまり、空行母に慈悲を求め、人間の弟子たちのために舎利を少し分けてもらうように懇願しました。
空行母は「あなたたち主要な弟子たちは、すでに最も優れた舎利を得て、法身を直接見ました。それで十分でなければ、尊者に祈り求めなさい。尊者は自然にあなたたちに与えるでしょう。しかし、他の人々は、高い悟りの境地に至った尊者に比べればホタルにも及ばないのです。そのような人々に舎利を与えて何の役に立つでしょうか? これらの舎利は私たちのものです」と言って空中で停止しました。弟子たちは空行母の言葉を聞き、一理あると考え、悔いを感じました。
空行母の掌から5色の光が放たれ、尊者の舎利は鳥の卵ほどの大きさで、祭壇に降り注ぎました。弟子たちは舎利が降りてくるのを見て、手を伸ばして取りに行きましたが、舎利は再び空中に舞い上がり、再び空行母の掌の光に溶け込みました。突然、光は二つに分かれ、一つは日月の座を持ち宇宙全体を照らす力を持った獅子座に変わり、もう一つは内外が透明であり無限の光を放つ琉璃の宝塔に変わりました。宝塔は赤、白、青、黄、緑の5色の光を放ち、三千大千世界を照らし出しました。その中心には一千零二尊の無数の佛が取り囲み、中央には至尊ミラレパが最も尊い位置に鎮座していました。無数の空行者が集まり、供養と賛美を行いました。宝塔の基部に位置した2人の天女が宝塔を捧げていました。
弟子たちとの話を終え、空行母は宝塔を持ち、尊者を清浄な世界へ迎え入れる準備をしました。その時、寂光惹巴は「人間のためにこの宝塔を供養物として残していただけないか」と心から懇願しました。
空行母は宝塔を持ち、主要な弟子たちの頭上に飛び上がり、宝塔は多くの光を放ちました。弟子たちの頭頂にもそれぞれ光が照射されました。皆は宝塔の中央にいる尊者が空中に浮かび、喜金剛、上楽金剛、密集金剛、曼荼羅、宇宙そのものに変わり、空行母に囲まれているのを見ました。最後に、佛菩薩たちは皆光明に変わり、尊者の内なる存在として溶け込みました。天界から聞こえてくる美しい音楽が鳴り響く中、尊者は東方の極楽浄土に迎え入れられました。
弟子たちの中には、尊者が佛の威厳を持ち、獅子座に座り、悟りの境地に至った4種類の空行者が捧げ持ち、金剛亥母が導いて、不可思議な天界の音楽と捧げ物のような雲の中で東方の悟りの境地へ飛び去るのを見た者もいました。
主要な弟子たちは尊者がすでに飛び去ってしまったことを見て、舎利を供養することができないと感じ、皆で大声で泣き、悲しみの祈りを捧げました。すると、空中から尊者の声が聞こえてきました。「弟子たちよ、そんなに悲しむ必要はありません。崖の下に4文字の刻まれた言葉を見つけなさい(尊者が残した書物には4文字が何であるかは書かれていません)。そうすれば、供物を見つけることができるでしょう」。皆で崖の周りを探すと、本当に石に刻まれた言葉が見つかりました。この崖の石は、現在も曲巴寺で見ることができます。
弟子たちは尊者が他の世界に行ってしまったことを知り、心から悲しみましたが、将来必ず尊者の浄土に生まれ変わることを信じ、尊者がこの世に現れたことはすべて佛法と衆生のためであることを理解しました。皆は自己の成長と他者の助けを実現する活動に身を捧げる決意を抱き、尊者の遺言と炉の下の金がどうなっているかを確かめに行きました。
皆は尊者が金など隠すような人ではないとわかっていましたが、遺言に従うために炉の下を見に行きました。すると、棉の布の包みが見つかり、中には小刀が1本ありました。小刀の刃は鋭く、刀の柄には椎の木の実が装飾として付いていました。さらに小さな砂糖の塊と刃物を研ぐために使う石も布で包まれていました。よく見ると刀の上には小さな文字が刻まれていました。「この刀を使ってこの砂糖と布を切りなさい。これらは永遠に切り終わることはありません。この砂糖と布を切って皆に分け与えなさい。この砂糖を食べ、この布を受け取った者は、決して地獄道、餓鬼道、畜生道に堕ちることはありません。恩恵が与えられた食物と衣服は、馬爾巴上師とすべての佛の加持を受けています。もし衆生が私の名を聞いて、一念の信心を抱けば、未来の6回の生まれ変わりの間に地獄道・餓鬼道・畜生道に堕ちることは決してなく、恩恵を感じ続けることができるでしょう。これはすべての佛と菩薩の承認です。もし誰かがミラレパに金があると言ったなら、その者は糞を食べるべきです」。弟子たちはこの遺言の最後の一文を見て、悲しみの中で笑わずにはいられませんでした。皆は大いに喜びました。
そして小刀で砂糖を切り分けましたが、何度切っても砂糖は減りませんでした。布も同様で、何度も切りましたが、元の布は全く減りませんでした。こうして無限に切り分けて、皆に布と砂糖が分けられました。多くの病気を患っていた人々は、砂糖を食べるとすぐに治りました。心が乱れていた者も、砂糖を食べると次第に智慧が増し、慈悲心も深まりました。
葬儀の後の供養会が行われると、天から5色の花が降り注ぎました。花が降りると、多くは人の頭の高さで溶けて消えました。地面に落ちた花は拾ってみると、蜂の羽のように細く、美しく、見事なものでした。
曲巴村のところには、天から降り注いだ花が地面に一面に広がり、膝まで積もりました。他の近くの場所にも、花が雪のように多く降り注ぎました。供養会が終わると、様々な神秘的な現象や美しい現象は次第に消えていきました。
それから何年もの間、尊者を記念する日には、天に虹が現れ、花の雨が降り注ぎ、天の音楽が鳴り響き、天界から漂ってくるこの世のものとは思えないような香りが漂い、様々な奇跡が現れました。同時に、地上には多くの神秘的な花が咲き、豊作の年が続き、人々には災害も病気も戦争もありませんでした。これらの奇跡は言葉では言い尽くせません。
(完)