ミラレパ佛の修煉物語(十一)
■ 印刷版
 

 【明慧日本2024年9月23日】ヒマラヤ山脈は古来、修煉者が多く集まる場所であり、人々は質素な生活を送り、歌や踊りを楽しむと同時に、佛法を崇拝していました。その中で、ミラレパ(密勒日巴)という修煉する者がいました。佛、菩薩たちは多生曠劫(たしょうこうごう:繰り返し輪廻する長い時間)の修煉によって成就するものですが、ミラレパは一生の中でこれらの佛、菩薩と同等の功徳を成就し、後にチベット密教の始祖となりました。

 (ミラレパ佛の修煉物語(十)に続く)

 この操普博士(そうふはくし:チベット佛教の学位を持つ人物)には、布林(ふりん)の村に愛人がいました。彼はその女性に、チーズに毒を入れて尊者に供え、尊者を毒殺するよう指示しました。操普博士は、この計画が成功したら、大きな翡翠を贈ると約束しました。女性はその言葉を信じ、毒をチーズに混ぜて尊者が住む場所へ行き、尊者に供えました。

 その時、尊者はすでにすべてを知っていました。尊者はすべての存在が影響を与えあう因果関係を見極め、縁がある衆生がすでに悟りをひらく可能性があることを知っていました。毒は自分を傷つけることはできませんが、自分の涅槃の日が近づいていることを感じ、毒の供え物を受け入れる準備をしました。しかし、尊者は、翡翠を受け取る前に女性が毒の供え物を供えたら、操普博士は絶対にその翡翠を女性に与えないことを知っていたため、女性に「今は食べません。後で持ってきてくれれば、その時に食べるかもしれません」と言いました。

 女性は尊者の言葉を聞いて、心中で疑念と恐怖が生じ、尊者が毒の存在を知っているのではないかと不安になりました。

 彼女は操普博士に会い、経緯を話し、尊者が神通を持っているに違いないので食べなかったのだと伝えました。

 操普博士は「ふん! もし彼が神通力を持っていたなら、後で持ってこいとは言わずに、今すぐその毒のチーズを食べてみろ、と言ったはずだ。彼がそうしなかったのは、神通力がない証拠だ。今すぐこの翡翠を受け取って、再度チーズを持っていき、必ず彼に食べさせるのだ!」と言って、翡翠を渡しました。

 彼女は「皆が彼に神通力があると信じているのだから、彼が昨日食べなかったのもそのためだ。今日持って行っても、彼は絶対に食べないだろう。私は恐ろしくて行けない。翡翠なんていらないから、許してほしい。こんな事はできない」と言いました。

 操普博士は「世の中には愚か者しか彼に神通力があると信じていない。彼らは経典を読まず、道理を知らないから、彼の嘘に騙されているのだ。私が読む経典には、神通力を持つ者は彼のようではない。彼には神通力がないことを保証する。再度毒のチーズを持って行き、彼に食べさせるのだ。成功したら、君を裏切ることはない。我々は長い間恋人同士だし、今後も隠すことはない。成功したら結婚し、翡翠だけでなく、全財産を君に任せる。我々は幸せに共に暮らそう」と言いました。

 女性は彼の言葉を信じ、再び毒をチーズに入れて尊者に供えました。尊者は笑顔で受け取りました。女性は「博士の言う通りだ。彼には神通力がない」と心の中で思いました。

 尊者は笑顔で「その仕事の代価としての翡翠は手に入れたか?」と尋ねました。

 彼女は驚きで口を大きく開け、一言も言えませんでした。恥と恐怖が入り混じり、震えながら礼をし、「翡翠は手に入れましたが、このチーズを食べないでください。私に返してください!」と泣きながら言いました。

 尊者は「なぜ欲しいのか?」と尋ねました。

 彼女は泣きながら「罪を作った私がそれを食べるためです」と言いました。

 尊者は「まず、あなたにそれを飲ませることは忍びない。あなたはあまりにも哀れだからです。次に、もし私があなたの供物を受け取らなければ、菩薩が修行の過程で守るべき戒律に反し、極めて重大な誤りを犯すことになります。特に、私のこの生涯での自分自身や他者に対して利益を与えるための活動、また衆生を救い済度することはすべて完了し、他の世界へ行く時も来ています。実際、あなたの供物は私を傷つけることはできません。飲むか飲まないかは全く関係ありません。前回、あなたが持ってきたチーズを飲んでいたら、あなたは翡翠を手に入れることができなかったでしょう。だから、私は飲まなかったのです。今、あなたが翡翠を手に入れたので、私は安心してこれを飲むことができ、彼も望みを叶えることができます。それに、彼はこの件が成功したらあなたにこれをあげる、あれをあげると言いましたが、その言葉は信じられません。彼が私について言ったことは一つも真実ではありません。将来、あなたたちは大いに後悔するでしょう。その時は、心から悔い改め、佛を学びなさい。そうでなくても、少なくともこれからは命に関わることがあっても罪を犯さないように心に留めておいてください。私と私が受け継いだ佛教の教えに真摯に祈りなさい。あなたたち2人はいつも幸せを放棄し、苦しみを自ら招いています。今回あなたたちが犯した罪業は、私が代わって清め、悔い改めることを願っています。あなたたちの安全のために、今回の件が皆に知られるのは時間の問題ですが、私が死ぬまでは誰にも言わないでください。私が以前に言ったことが真実かどうか、あなたたちは見ていないので信じられないかもしれませんが、今回あなたは自分の目で見ました。私の言葉が嘘でないことを信じるでしょう」と言って、尊者は毒の入ったチーズを飲みました。

 その女性は帰宅して操普博士に経緯を話しました。操普博士は「鍋の中の料理が全て美味しいわけではないし、人の言葉が全て本当であるわけでもない。彼が毒入りのチーズを食べさえすれば、私の目的は達成されるんだ。お前は余計なことは言わず、黙っているんだ」と言いました。

 尊者は亭日(ていじつ)、鴨龍(おうりゅう)の信者たちやその他の地域でまだ会ったことのない人々に、尊者に会いに来るように伝えました。弟子たちは法会の準備をしていましたが、この知らせを聞いて、多くの人々が信じられずに集まりました。尊者は数日間にわたって彼らに法を説きました。善行を行えば善い結果が得られ、悪行を行えば悪い結果が生じるという因果関係の道理と、すべての現象の根源にある真理を詳しく解説しました。尊者が法を説く時、修行の素質が優れている弟子たちは多くの佛菩薩が空中で尊者の法を聴いているのを目の当たりにしました。ある者は空中や地上に満ちた天人などの人間ではない存在の聴衆が喜んで法を聴いているのを見ました。空には5色の神聖な光や佛法の力が広がり、5色の花が雨のように降り注ぎ、芳香が漂い、空から心地よい音楽が流れてきました。

 法を聴いていた弟子の中には、尊者に尋ねる者もいました。「天界から地上まで天人が法を聴いているのが見え、これほど多くの神聖な現象を目にしましたが、これはどういうわけですか?」

 尊者は「天人と善良な神々が空中で私の法を聴き、人間が求める欲求を清浄な状態に昇華させたものを私に供養しています。あなたたちが法を聴くのは、瑜伽行者や良い徳を積んでいる信者だからであり、あなたたちも喜びの心でこれらの現象を見ているのです」と答えました。

 ある者は「なぜ私たちはこれらの天人を見ることができないのですか?」と尋ねました。

 尊者は「天人の中には高いレベルに達した菩薩や、決して後戻りすることのない悟りへの道を得た者が多くいます。彼らを直接見るには天眼通が必要であり、最低限でも悟りを得るための徳と知恵という二つの重要な要素が十分に集まり、悟りを妨げる煩悩や誤った認識が習慣化された状態があまり深くないことが必要です。佛や菩薩を見ることができれば、佛や菩薩に仕え従う者たちも自然に見えるようになります。佛や菩薩を見たいなら、罪を懺悔し、悟りのために必要な徳と智慧を集め、努力して修行しなさい。将来、あなたたちは必ず自分自身の内側にこそ最も完全な佛陀が存在するということを見ることができるでしょう」と言いました。

 尊者が法を説き終えると、修行の素質が優れている者は自己の心の本質が佛の真理そのものであるという道理を悟り、成就に向けて努力を続けることが期待される者は修行の成果として得られる内面的な安らぎ、明晰さ、心の清浄さが生じて悟りの道に入りました。会に参加した全ての人々が衆生を救いたいという強い意志を生じました。

 尊者は「この法会に来た出家と在家の人々や天人たちは、前生で善願(ぜんがん。訳注:善行を実現しようとする心の願い)を発していたので、今こうして集まることができたのです。私はもう非常に老衰しており、今生で再び会えるかどうかは分かりません。しかし、私があなたたちに説いた法は全て真実であり、虚偽ではありません。あなたたちはそれに基づいて継続的に修行しなさい。私の浄土で私が成佛した時、あなたたちは私の法を聞く最初の弟子となるでしょう。だから喜びなさい!」と言いました。

 鴨龍の弟子たちは尊者の言葉の意味を尋ねました。それは衆生を救い済度することが終わり、涅槃に入るという意味なのか、と。彼らは尊者がもし本当に涅槃に入るなら、鴨龍で涅槃に入って欲しいと、泣きながら懇願しました。尊者が鴨龍に行かないなら、せめて鴨龍に一度は来て欲しいと訴えました。亭日、曲巴(くっぱ)やその他の地域の人々も尊者に彼らの場所に来て欲しいと願いました。

 尊者は「私は鴨龍には行きません。布林と曲巴に住んで死を待つつもりです。今、私たちは一緒に善願を発しましょう。将来、清浄で高次の世界で再会することを願います」と言いました。

 弟子たちは「もし尊者が本当に行けないなら、せめてこれまで訪れた全ての場所に加持と祝福を願い、一度でも尊者に会ったことのある人々や全ての衆生に祝福を願います」と言いました。

 尊者は「あなたたちの信心に感動しています。私はすでに慈悲深い心をもって法を説きました。将来も自、他、一切の衆生の幸福を願ってみなさんが修行を成就し悟りを得ることを願います」と言いました。そして尊者は深い慈悲と衆生のための願いが込められた歌を歌いました。

 法を聴いた人々は非常に喜びましたが、尊者が本当に涅槃に入るとは信じられませんでした。鴨龍や布林の弟子たちは尊者の前に来て加持と祝福を求めました。その後、法を聴いた人々はそれぞれ帰りました。天上の虹やその他の神聖な現象も次第に空中から消えていきました。

 布林の人々は、尊者に最も信頼されている弟子である惹巴寂光(じゃばせきこう)たちに熱心にお願いし、尊者を毒龍頂窟茅蓬(どくりゅうちょうくつきょうほう)に居住していただくよう頼みました。尊者はそこでしばらくの間住み、布林の信者たちに法を説きました。ある日、尊者は弟子たち全員に「法について何か質問があるなら、早く質問しなさい。私はもうすぐ行きますから」と言いました。そこで弟子たちは供物を準備し供物を捧げ、尊者に祈りを捧げ、法を問うための質問をしました。最後に智貢巴(ちこうは)と薩問日巴(さつもんにちは)の2人が尊者に「上師様、あなたのお話からすると、もうすぐ涅槃に入られるようですが、私たちはそれを信じることができません。どうか長くこの世に留まって、さらに多くの人々を救ってください」と申し上げました。

 尊者は「私の寿命は尽きようとしており、救うべき衆生もすでに救い終わりました。生まれたものは必ず死ぬものであり、実際には生も死の一形態に過ぎないのです」と答えました。

 数日後、尊者は本当に病の兆候を現しました。弟子の雁総惹巴(がんそうじゃくは)は尊者が病にかかったため、すべての信者と弟子たちを集め、上師、本尊、護法神に祈り、供養の儀式を行いました。そして尊者に「上師様、あなたは長寿の法や薬による治療の法を知っておられます。どうか慈悲の心でそれを用いてくださいませんか?」と言いました。

 尊者は「根本的に言えば、瑜伽行者は何の法も修める必要はありません。すべての逆境も順境(じゅんきょう。訳注:順調で問題がない状態)も道であり、病も死もまた然りです。特に私はミラレパとして、大恩ある上師馬爾巴(マルパ:ミラレパの師)の法をすべて修め終えました。今さら法を修めたり神に助けを求める必要はありません。私は敵を悟りの一部として受け入れ感謝の気持ちを持って迎え入れたのですから、菩薩に助けを求める必要もありません。悪霊や鬼神はすでに降伏し、佛教を守護する護法となっていますので、呪文を唱えたり、鐘を鳴らして儀式を行う必要もありません。私は五毒(貪欲、瞋恚[憎み怒る]、愚痴、慢心、嫉妬の五煩悩)を五智如来に転じました(「五智」とは成所作智、平等性智、妙観察智、大円鏡智、法界体性智。「五如来」とは不動佛、宝生佛、阿弥陀佛、不空成就佛、大日如来のこと)。薬の六味(くすりのろくみ。甘味、酸味、塩味、辛味、苦味、渋味)も不要です。今、時が来たのです。完全な悟りに至るのです。これは変更の余地がありません。世の人々は、過去に犯した悪業の結果として、生老病死などの苦しみを受けています。薬で治療したり、佛に祈ったりしても、苦しみを解消することはできません。国王がどれほどの権力を持っていても、勇士がどれほどの力を持っていても、富豪がどれほどの財産を持っていても、美人がどれほどの美しさを持っていても、賢者がどれほどの知恵を持っていても、弁論家がどれほどの弁才を持っていても、彼らはすべて幻滅し、死に至るのです。これらすべては、呼吸法などのどんな外的な修行法でも救うことはできません。もしあなたたちが苦しみを恐れ、安楽を求めるなら、私は一つの方法を教えましょう。それによってあなたたちは苦しみを受けず、常に安楽を享受することができるのです」と言いました。

 弟子たちは「それではどうか上師、教えてください!」と言いました。

 尊者は「輪廻のすべての法は、成るものは最終的に終わりになり、集まるものは最終的に散り散りになり、生まれるものは最終的に死に至り、愛するものは最終的に離れることになります。これらの真理に対する決定的な悟りを持ったならば、苦しみを招く行為を徹底的に放棄すべきです。財を求めず、利益を追わず、条件を備えた上師に導かれながら修行を行い、悟りの境地へと導く究極の修行法を修行するべきです。無生空観の修行(むしょうくうがんの修行。訳注:万物は生じ滅亡するという変化を超越した不生不滅の真理を理解しその境地に達するための修行)はすべての修行の中で最も優れています。他にも大切な話がありますが、それは後でお伝えしましょう」と言いました。

 特に優れている弟子である惹巴寂光と雁総惹巴の2人が尊者に「上師様、もしあなたが健康で長くこの世に留まれば、さらに多くの衆生を救うことができるでしょう。私たちの願いを受け入れて百年の寿命を保つことはないかもしれませんが、どうか密教の優れた作法に従って修行を行い、薬を服用し、早く健康を取り戻してください」と申し上げました。彼らは再三にわたりこう願いました。

 尊者は「もし時節因縁が到来(じせついんねんがとうらい。訳注:涅槃が運命的に定められた時期に来たこと)していなければ、あなたたちの言う通りにすることもできたでしょう。しかし、衆生の利益のためでなく、自分の長寿を求めて密教の儀式を利用して佛菩薩を降臨させるのは、皇帝を玉座から引き下ろして召使いに使うようなもので、罪になります。だから自分のためや自分のこの生涯のために密教における儀式を修めるべきではありません。衆生の利益のために修めるのなら、それは素晴らしいことです。私はすべての衆生のために、人里離れた山中で最も重要で深い教義を含む儀式を一生修行してきたので、もう他の儀式を修める必要はありません。私の精神的な境地はすでに自身の存在が宇宙全体と一体化しその根本的な性質と完全に同一であるという悟りの境地に達しているので、現世での修行を修める必要はありません。馬爾巴上師の修行の教えがもたらす心の浄化や悟りへの導きの力により、私の五毒は完全に根絶されましたので、もう薬は必要ありません。あなたたちが逆境を道の助けとして利用できないならば、本当の修行者とは言えません。時節が来ていない時に逆境に遭遇し、悟りに至るための修行の障害となるならば、薬を服用し法を修めるのは当然のことです。このように困難に見える出来事を悟りへの糧とし成長の機会に変えることができる特別な時期は、ないわけではありません。根基が比較的低い衆生を救い済度するために、世尊(せそん。訳注:佛教において非常に尊い存在を指す称号)釈迦牟尼もジーヴァカの治療を受け薬を服用しました。しかし、時節因縁が到来すると、世尊自身も涅槃に入られました。今、私の時節因縁が到来したので、もう薬や法を修める必要はありません」と言いました。

 2人の弟子はさらに「尊者が他の世界に衆生の利益のために行かれるのであれば、尊者の没後や涅槃の際の供養の方法、遺体の取り扱い、像を作ることや塔を建てることについて教えてください。また、私たち弟子がどのように『佛教の教えを聞く、聞いたことを深く考える、実践する、そして最終的に悟りの道へと進む』という修行過程を修めるべきかも教えてください」と尋ねました。

 尊者は「私は上師馬爾巴の恩恵により、輪廻と涅槃のすべての業を清め尽くしました。身体、言葉、心のすべての働きが宇宙の根源的な真理と一体となり束縛から解放された瑜伽行者は、遺体を残す必要はありません。像を作ったり、塔を建てたりする必要もありません。私は寺院に対する執着もなく、寺院もないので、誰かに管理を任せる必要もありません。あなたたちは高山や雪山の無人で静寂な場所を自分の寺院としなさい。高山で六道の衆生を哀れるため修行することが、佛教の教義において最も価値がある行為です。一切の法が本来清浄であることを理解することが塔を建てることです。物理的な建物を作ることよりも、心そのものが清浄であるという認識を持つことが、より重要です。心から祈りを捧げるためには、心で思っていることと、口に出す言葉が一致している必要があり、心の深部から祈りを捧げることが最も勝れた供養です。煩悩や自己中心的な執着が強い人々と共に過ごし、衆生を害する行為をすることは、佛教徒としての倫理に反することです。しかし、煩悩を克服し衆生を苦しみから救い幸せへと導くためならば、表面的には悪業を行っているように見えても、実際には佛道を行っていることになりますので問題ありません。ただ佛法を理解するだけで実際に修行しない場合、多くの教えを聞いてもかえって障害となり、最終的には地獄道、餓鬼道、畜生道の深淵に堕ちることになります。だからこそ生命の儚さを認識し、自分が認識している善い行いと悪い行いに対して警戒心を持ち、たとえ命を失うことがあっても悪事を行わないように努力すべきです。簡単に言えば、佛を修める人は自分を恥じる心を持って道を修めることが重要です。こうして修行すれば、ある宗教教義や経典と矛盾するかもしれませんが、それはすべての佛と菩薩の本意に合致しています。聞いた教えを自分の心で深く考え実践するすべての修行の要点を簡略に述べると、このようになります。これで十分です。私の言葉に従って行動すれば、私も満足です。輪廻と涅槃のすべての業を究めることができるでしょう。社会の価値観に基づいた見方で私の願いを満たそうとしても、何の利益もありません」と言いました。

 弟子たちは深く感動し、この教えを心に刻みました。

 間もなく、尊者は重い病気が現れました。その時、操普博士がとても高級な酒と肉を持って、尊者に供養するふりをしてやって来ました。彼は尊者の前で嘲笑いながら「ああ! 尊者のような大成就者がこんな重病を患うべきではないでしょう! どうしてあなたも病気になるのですか? もし病気が他の人に分けられるなら、優れている各弟子に分けてください。もし病気が他の人に移せるなら、どうか私に移してください! 今、あなたはどうしようもなくなっているでしょうが、どうやってこの事態を収束するつもりですか?」と言いました。

 尊者は落ち着いた様子で微笑みながら「私は本来、この病を患う必要はありません。今、病気を患っている原因は、あなたがよく知っているはずです。一般の悟りを開いていない人の病気と瑜伽行者の病気は性質が異なり、発生の原因も異なります。私の今の病気は、実は佛法の尊さを示しているのです」と言いました。

 操普博士は心の中で尊者が自分を疑っているように感じましたが、確信は持てませんでした。尊者が病気を他人に移せると言ったことは、全く信用できないと彼は考えました。世の中に病気を人に移せることなどあり得ないのです。そこで彼は「私は尊者の病気の原因をよく知りません。もし病気が悪霊の仕業ならば、悪霊払いの儀式を行うべきです。もし四大(しだい。訳注:四つの元素「地、風、水、火」)の不調和によるものならば、体を調整し薬を服用するべきです。もし病気が本当に他人に移せるなら、どうぞ私に移してください」と言いました。

 尊者は「ある大罪人の、その心の中の悪霊が私を傷つけ、四大の不調和を引き起こして病気になりました。この病気はあなたの力では取り除けません。私のこの病気をあなたに移すことはできますが、あなたは一瞬でも耐えられないでしょう。だから移すのはやめておきましょう」と言いました。

 操普博士は心の中で、「この人は病気を誰かに移せるなんてことはできないから、こんなことを言っているのだ。彼に恥をかかせなければならない」と思いました。それで彼は再三尊者に病気を自分に移すように頼みました。

 尊者は「あなたがそこまで頼むのなら、病気を一時的に向かいの扉に移しましょう。あなたに移したら、あなたには耐えられません。見ててください」と言いました。尊者は神通力を使い、病苦を向かいの扉に移しました。扉は最初ギシギシと音を立て、まるで裂けそうな様子でしたが、しばらくすると本当に粉々に裂けてしまいました。尊者は病気がなくなり、健康な姿を見せました。

 操普博士は心の中で、「これは完全に目の錯覚を使った魔術だ。私を騙せるわけがない」と思い、「ああ、これは本当にめったに見られないことですが、それでも尊者はぜひ病気を私に移してください」と言いました。

 尊者は「あなたがそこまで望むのなら、病気の半分をあなたに移しましょう。全部は耐えられないでしょう」と言いました。尊者は病苦の半分を彼に移しました。操普博士はすぐに激痛で気を失いかけ、震えることもできず、呼吸もできなくなりました。ほぼ命を落としかけた時、尊者は彼に移した病気の大部分を元に戻し、「私はあなたにほんの少しの病気を与えたに過ぎませんが、どうですか? 耐えられましたか?」と尋ねました。

 操普博士は激痛を経験した後、猛烈な懺悔の心を抱き、ひざまずいて尊者の足に額をつけ、涙を流しながら言いました。「尊者! 尊者! 聖人様! 聖人様! 私は心から懺悔します。どうか私を許してください。私のすべての財産を尊者に捧げます。私の罪業の果報(ざいごうのかほう。訳注:過去の悪行によって受けるべき報い)をどうかお取り計らいください」。操普博士は非常に悲しんで泣きました。

 尊者は彼が本心から懺悔しているのを見て、非常に喜び、彼の残りの病気も取り除き、「私は一生田畑や財産を必要としませんでした。今は死を迎える時ですから、なおさらこれらは必要ありません。あなたはこれらを保持してください。今後、命を断つような状況でも、二度と悪事を働かないでください。今回あなたが犯した罪業の果報は、私が代わりに消し去ることを約束します」と言いました。

 操普博士は「私は以前、悪事を働いていたのはほとんどが金銭のためでした。今はもう財産は必要ありません。尊者ご自身が必要としなくても、尊者の弟子たちは修行のための資金を必要としています。どうか彼らのためにこれを受け取ってください」と言いました。彼は何度もそう頼みましたが、尊者は受け取りませんでした。後に弟子たちが受け取り、それを集会供養(しゅうかいくよう。訳注:修行者が集まる場所での供養)の資金として使用しました。今でも曲巴の地方にはこの集会供養があります。

 操普博士はその後、一生にわたって持ち続けていた執着を本当に放下し、立派な修行者となりました。

 尊者は弟子たちに「私がここに住んでいたのは、この大罪人を真心から懺悔させ、罪の苦しみから解脱させるためでした。今そのことが達成されたので、私は去らなければなりません。本来、偉大な修行者が村や町で涅槃に入るのは、皇帝が平民の家で死ぬようなものです。だから、曲巴に行って死ぬ場所を探します」と言いました。

 弟子の色問惹巴(しきもんしゃは)は「上師様! あなたはこんなに重い病気なのですから、歩くのは辛いでしょう。私たちがかごを用意して運びましょう」と言いました。

 尊者は「私は本当に病気ではないかもしれません。私の死も本当の死ではなく、実際の病気や死ではなく外面的にそう見えるだけです。かごなどは必要ありません。若い弟子たちよ、先に曲巴に行きなさい」と言いました。

 若い弟子たちが曲巴に到着すると、尊者はすでに熾結崖洞(しけつがいどう)で彼らを待っていました。多くの年配の弟子たちは、「私たちが尊者と一緒に来たのです」と言いました。別の人は、「尊者は毒龍頂窟(どくりゅうちょうくつ)で病気を患って休んでいます」と言いました。曲巴の村に後から来た施主たちは、「私たちは尊者が著卡頂窟(ちょかちょうくつ)で法を説いているのを見ました」と言い、また別の施主たちは、「私たちは尊者と一緒に来たのです」と言いました。また多くの人々がそれぞれの家で尊者に供養を受けてもらったと主張しました。最初に曲巴に来た人々は、「尊者は先に曲巴に来ていました。私たちが尊者の支援を行って一緒に来たのです」と言いました。このように、後から来た人、法を説いている尊者を見た人、供養を受けた尊者を見た人、それぞれが意見を述べ、誰が正しいのか分からず議論になりました。尊者はそれを聞いて笑い、「皆さん、皆さんは皆正しいのです。私たちが見ている世界は、主観的なものであり、絶対的な真実ではありません」と言いました。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2000/12/31/5862.html)
 
関連文章