【明慧日本2024年8月7日】ヒマラヤ山脈は古来、修煉する者が多く集まる場所であり、人々は質素な生活を送り、歌や踊りを楽しむと同時に、佛法を崇拝していました。その中で、ミラレパ(密勒日巴)という修煉者がいました。佛、菩薩たちは多生曠劫(たしょうこうごう:繰り返し輪廻する長い時間)の修煉によって成就するものですが、ミラレパは一生の中でこれらの佛、菩薩と同等の功徳を成就し、後にチベット密教の始祖となりました。
(ミラレパ佛の修煉物語(五)に続く)
ミラレパは引き続き言いました。
私が自殺しようとした時、喇嘛たちは上下に走り回って私を慰め、上師に嘆願していました。しばらくして、馬爾巴(マルパ:ミラレパの師)上師の心が落ち着き、彼は「ああ! 達媚瑪(たつびま:馬爾巴の妻)を呼んできてくれ」と言いました。師母(訳注:達媚瑪)が来た後、上師は「俄巴(がは:馬爾巴の一番弟子)法身金剛(俄巴喇嘛の別名)たちはどこに行ったのか?」と尋ねました。
師母は「俄巴上人はあなた様の命令で那諾巴(ナーローパ:馬爾巴の師)の身装厳[しんそうごん](上師が身に着けていた装飾品)と玉印を取りに行きました。彼が外に出た時、ちょうど大力(だいりき:馬爾巴の下で修業時のミラレパの名前)が自殺しようとしており、彼の死後の超度(訳注:悟りの境地へと導くこと)を求めました。彼らは今、大力を慰めているところです」と言いました。
上師はこれを聞くと、涙を流して「こんなに優れた弟子が! 秘密真言乗(ひみつしんごんじょう。訳注:密教)の修行者としての必要な条件を全て備えている、なんて哀れなことだ。皆を呼び戻してくれ」と言いました。1人の弟子が走って俄巴喇嘛を呼びに行きました。「今、上師の心は平静です。上師はあなたと大力を一緒に迎えに来るように私を送りました」
私はこれを聞いて、慌てて「私が行っても誰も喜ばないでしょう。私は罪人で、上師の心が落ち着いても、上師の前に出る資格はありません。無理に行けば、叱られるだけでしょう」と言い終え、泣き続けました。俄巴上師はその弟子に「大力の言葉を上師に伝えてください。彼が上師の前に行けるかどうかを聞いてください。私はここで彼を見守らなければなりません。さもなければ、また何か悪いことが起きるかもしれません」と言いました。その弟子は馬爾巴上師に一言一句伝えました。師母も一緒に入りました。
上師は「彼の言うことは、以前の状況を考えれば本当だ。しかし今は違う。彼はもう怖がる必要はない。今回は、大力が私の主賓となるのだ。達媚瑪! 彼を呼んできてくれ」と言いました。師母は非常に喜び、私に「上師はあなたに深い慈悲の心を持っています。今回はあなたを主賓として迎えると言っています。彼は私を叱りもしませんでした。さあ、喜んで行ってください」と言いました。私は半信半疑で、自分の耳を信じられず、混乱したまま家に入りました。
皆が席に着いた後、上師は「過去のことを振り返ると、誰も間違っていません。私は大力の罪業を清めるために、彼に苦行をさせ、家を建てさせました。このようにして清浄な道によって罪業を浄化することができたのです。今やそれが完了したので、私には過ちがなかったのです。達媚瑪は女性で、心が柔らかく、慈悲深いのは当然のことですが、偽の印信を作ったことは大きな過ちでした。俄巴も間違っていませんが、まずは身装厳と玉を私に返しなさい。後でまたあなたに渡します。そして大力、彼は法を求める心が切実で、あらゆる方法で法を得ようとしたので、彼もまた責めることはできません。
この時、俄巴は達媚瑪が偽の手紙を作ったことを知らず、大力に灌頂と口訣を伝授しました。そのため、私は彼(訳注:大力)に苦しみを与えることができなくなり、大いに怒りました。あなたたちの願いを全て聞き入れませんでした。しかし、知っておいてください。この怒りは世間一般の人の怒りとは違います。過去に表現したどんなことも法のためであり、その本質は全て菩提道(ぼだいどう。訳注:悟りに至るための修行道)に従っています(つまり、佛法の精神と教義に適合しているという意味です)。解脱の方便(訳注:佛教の教えを伝えるための手段)を理解していない人は、邪見を抱かないようにしてください。
また、私のこの弟子大力が9回の大きな苦痛と大きな試練に耐えることができれば、彼はもう後生(訳注:死後に生まれ変わること)を受けることはなく(つまり、六道輪廻に再び入ることはなく)、この肉体のままで佛になることができるでしょう。今はまだそうなっていませんが、残っている罪業はほんの少しであり、これは全て達媚瑪の心が柔らかいせいです。
とはいえ、彼の罪業の大部分は8回の大苦行と無数の小苦行の中で根本的に清浄になりました。これからは、私は彼に加持を与え、灌頂と口訣を伝え、最も秘密な心要(しんよう。訳注:特に重要な核となる教え)の口訣を授け、修行のためのに必要な物を与え、全ての修行の助けとなるものを提供します。大力、これで本当に喜んでいいのです!」と言いました。
その時、私は心の中で「これは夢なのか? それとも現実なのか? もし夢なら、永遠に目覚めたくない!」と思いました。心の中に無量の喜びが湧き上がり、喜びの涙が泉のように溢れ、一方で泣きながら上師に礼拝しました。師母、俄巴喇嘛と会に参加していた全ての人々も、それぞれに思いました。「上師は罪業を根絶する方便が本当に巧みだ」「上師の加持と慈悲は本当に大きい」「上師はまさに佛陀と何ら変わらない」と。師母と俄巴喇嘛は私を哀れみ、私のために喜び、涙を流しながら上師に礼拝し、「本当にありがとうございます」と言いました。こうして皆が笑顔と涙の中で会供輪[かいきょうりん](毎月一度行われる密教の集会で、佛に供養し、儀軌[ぎき。訳注:供養の規則を説いた典籍]を唱える)を修行し終えました。
その夜、皆が集まり会供を終えた後、上師は「私は皆に別解脱戒(べつげだつかい。訳注:生き物を殺さないなど、在家佛教徒向けの戒律)を授けます」と言い、私の髪を剃り清めました。上師は私に「あなたの名前は、初めて会った時にすでに決めていました。那諾巴上師が夢の中であなたに名前を付け、密勒金剛幢(みらこんごうとう)と呼びました」と言いました。そこでこの名前を私の法名とし、居士戒(訳注:在家佛教徒が守るべき戒律)と菩薩戒(訳注:菩薩が実践すべき戒律)を授けました。
上師は内供(ないぐ。訳注:灌頂)用の天霊蓋(密教の修行に用いる法具)に究極心意(訳注:心意[精神的エネルギー]を最も深いレベルで注ぎ込むこと)の加持を行い、その天霊蓋は突然、五色の光を放ちました。会に参加していた全ての人がそれを見ました。加持された甘露を祖師(訳注:密教の一宗派を開いた人物)や諸佛に捧げた後、馬爾巴上師は自らその甘露を飲み、次に私にその甘露を渡しました。私はそれを受け取り、一気に飲み干しました。上師は「縁起がとても良い」と言いました。
「私の内供は他の伝承の正式な四灌頂(訳注:チベット密教の高度な修行体系)の四部灌頂であり、全ての密法を包括する)よりもさらに優れている。明日の朝、再び灌頂を授ける」と上師は続けました。
翌朝、上師は勝楽六十二本尊(訳注:勝楽金剛という護法神を中心に六十二の本尊が配置された曼荼羅)の大曼荼羅を建立し、灌頂を授けました。空を指さし、指を弾くと、一瞬にして空中に具徳総集輪[ぐとくそうしゅうりん。訳注:護法神の別名)が現れました。24の勝地(しょうち。訳注:聖地)、32の勝境(しょうきょう。訳注:修行の場)、八大尸林(はちだいしりん。訳注:自身の執着と向き合う修行場)、空行(くうぎょう。訳注:高度な悟りを得た存在)の大勢が取り囲んでいました。その時、上師とすべての佛聖衆(ぶっしょうしゅう。訳注:佛と菩薩)が同声で「汝の名を喜笑金剛(きしょうこんごう)と名づける」と言いました。
上師はさらに私に秘密本続(ひみつほんぞく。訳注:密教の詳細な修行方法を含む経典)の詳細を説き、観法(かんぽう。訳注:瞑想修行の一種)と密修(みっしゅう。訳注:秘伝の修行方法)の口訣を示しました。そして、私の頭に手を置き「子よ、お前が最初に来た時、私はお前が根器のある弟子であるとわかっていた。お前がここに来る前夜、私は夢を見た。この夢の兆しは、お前が佛法において大きな事業を成し遂げることを示していた。達媚瑪も同じ夢を見た。それは寺を守る護法空行(ごほうくうぎょう。訳注:佛法を守護する女神)が示したものだ。だから、お前は上師空行母(くうぎょうぼ。訳注:悟りを得た女性の密教修行者)が私に連れてきた弟子だ。それゆえ、私は田を耕すふりをしてお前を迎えたのだ」と言いました。
上師は引き続き「お前は私が与えた酒をすべて飲み干し、田を一つ残らず耕した。これは、お前が口訣を授かり、法器となり、円満な悟りに達する兆しである。後に、お前は四つの柄のある銅鉢(どうばち。訳注:チベット佛教における法具の一つ)を私に供養したが、これはお前が私の四大弟子の一人になることを示している。その銅鉢に一つの隙間もなかったのは、お前の煩悩の垢(ぼんのうのあか。訳注:悟りの妨げとなる煩悩)が少なく、『拙火定』(そっかじょう。訳注:瞑想修行の一種)の大暖楽(だいだんらく。訳注:チベット佛教における瞑想修行の最高境地の一つ)を享受する兆しである。お前が空の鉢で私に供養したのは、将来お前が修行中に食物が不足し、飢餓の苦しみを経験することを示している。私は、お前の後半生と弟子たちの法統(訳注:師弟関係による教えの継承)が大いに恩恵を受けるため、また根器のある弟子が口訣の精要(せいよう。訳注:核心部分)によって喜びを生起するために、空の鉢に酥油(そゆ。訳注:バターに似た乳製品)を満たし、それを灯明として燃やした。そして、お前が広く名声を得るように銅鉢を叩いて音を出した。お前の罪業を浄化するために、お前に息、憎、懐、誅(そく、じょう、かい、ちゅう。訳注:密教における四種の修法)の四種の家を建てさせた。私は灌頂の会座(えざ。訳注:灌頂が行われる場所)からお前を追い出し、多くの不合理なことをしたが、お前は少しも邪見を起こさなかった。これは将来、お前の弟子や法統が信心、精進、智慧、慈悲などすべての条件を備え、修行中に大きな執着がなく、苦難に耐え、精進して修行する力を持つことを示している。そして、最終的に悟りを得て、慈悲と加持を具え、円満具相(えんまんぐそう。訳注:すべての徳を備え欠点のない悟りの境地)の上師となる。私のこの口授伝承の法統は、月輪が増して光輝くように、大いに発展し、輝かしいものとなるだろう。子よ、お前は喜ぶがよい!」と言いました。
このようにして、私に教えを授け、励まし、慰め、讃えてくださいました。それ以来、私は正法を修行する幸福な道を歩み始めました。
ミラレパはここまで話しました。
レチュンパがまた「尊者、口訣を得た後、すぐに山に行って修行したのですか? それともまだ馬爾巴上師のところに留まっていましたか?」と尋ねました。
ミラレパは引き続き以下のように話しました。
上師は私に彼の近くで安心して修行するように言いました。そして、良い衣食を用意してくれて、近くのロツァウ村の臥虎崖洞(がこがいどう)に行って修行するように言いました。
洞窟で修行している間、頭上に酥油灯を灯しました。灯が燃え尽きるまで、体を動かさず、座から下りませんでした。こうして昼夜を問わず修行し、11カ月が過ぎました。
ある日、上師と師母が会供輪の上等な飲食物を持って洞窟に来てくださいました。洞窟の入口で、上師が「息子よ、お前が今日まで修行して11カ月が経ちました。座布団を冷たくしないように精進していることを、私は本当に喜んでいる。今、しばらく窟の門を開けて私のところに来て、話をし、休息し、疲れを癒し、お前の悟りの体験を私に話してくれ」と言いました。
洞窟の中で、上師の言葉を聞いた後、私は「休息は必要ありませんが、これは上師の命令ですので、出ないわけにはいきません!」と言いました。窟の門を開けようとしましたが、心の中で躊躇していました。外に出るのがもったいなく感じられたのです。こうして躊躇していると、さらに窟の門を開ける勇気がなくなりました。師母が近づいて言いました。「息子よ、門を開けているのかい?」
「門を開く勇気がありません」と私は答えました。
師母は「出ることに何の過失もありません。これは秘密真言乗の深遠な大きな因縁(訳注:運命)です。特に上師は気が短いので、機会を逃さないでください。母が代わりに窟の門を壊してあげるから、早く出ておいで」と言って師母は窟の門を壊しました。そこで私は上師と師母について寺に戻りました。
寺に戻ると、上師は「今、私たち父子で『現観』(げんかん。訳注:上師と弟子が共同で行う密教の修行)の儀軌を修めましょう。達媚瑪、会供の準備をしてくれ」と言いました。会供の中で、上師は「息子よ、口訣についてどのような理解があるか? どんな悟りの体験があったか? ゆっくりと話してくれ」と言いました。
私は上師の前に跪き、胸に合掌し、涙を流しながら七支供養(しちしくよう。訳注:七つの行為を通じて功徳を積むための儀礼)の歌を歌いました。
七支供養を捧げた後、私はさらに上師に申し上げました。
「金剛持[こんごうじ。訳注:チベット佛教における最高位の佛](ヴァジュラダラ)と等しい上師父母よ! あなたの比類なき慈悲と加持は、弟子にとって無限の恩寵(おんちょう。訳注:佛から受ける恵み)です。今、私の些細な悟りをお伝えし、法性(訳注:佛教の真理)の静寂な心境で慈悲深くお聞きください。
私たちのこの複雑な身心(訳注:肉体と精神が互いに影響を与え合いながら存在している状態)は、「無明」(むみょう。訳注:世界の真実を知らない状態)などの十二縁起(じゅうにえんぎ。訳注:「無明」から始まり「老死」に至るまでの12の因果関係)によって生じたものです。この人間の体は、一方では血肉に繋がり、業果に引き寄せられ、精神に支配された混合物ですが、この人間の体は、福徳と宿善(訳注:前世で積んだ善行)のある人々にとっては、無価(むか。訳注:値段をつけることができないほど貴重)の宝船です。この宝船は、生死の河を渡り、解脱の彼岸に到達するためのものです。しかし、悪行を積む人々にとって、この体は悪趣(あくしゅ。訳注:地獄道・餓鬼道・畜生道)に誘う淵となります。同じ人間の体であっても、善行と悪行、上昇と下降、快楽と苦痛を招く道がこれほど異なるのです。私は悟りました。分岐点でどの道を選ぶか、この体をどう活用するかが、人生で最も重要なことなのです。
一切の苦痛の根源である輪廻の大海(訳注:生死を繰り返す輪廻)は、渡るのがいかに困難であるか。しかし今日、慈悲深い上師のお導きのおかげで、この無限の生死の大海で私に方向を示してくださったのです。
私がまた悟ったのは、最初に佛道に入るには、上師と三宝(訳注:佛・法・僧)に帰依(きえ。訳注:佛の教えに従うことを誓うこと)し、次に法を正しく学ぶべきです。すべての学びの中で最も重要なのは、上師に依止(えじ。訳注:教えを学び実践していくこと)することです。上師はすべての幸福の根源であり、上師のすべての教えに従わなければなりません。三昧耶戒(さんまやかい、密教の戒律)を守ることが、最も重要な基盤です。
無数の異なる衆生の中で、人間の割合は非常に少ないです。無数の人々の中で、佛法を聞き、解脱の道を知り、菩提(ぼだい。訳注:悟りの境地)の道を歩むことができる人々はさらに稀です。このように、無限の衆生の中で、佛法に入る機会を得た人は、どれほど少なく、どれほど貴重なことでしょう。
私たちは幸運にもこのような人間の体を得ましたが、生命の安全を保証することはできません。誰もがいつ死ぬか、いつこの貴重な体を失うかわからないので、この体を大切にし、尊重しなければなりません。
宇宙の万物万象はすべて因果律(いんがりつ。訳注:原因と結果)によって支配されています。善因は善果を、悪因は悪果をもたらします。三世の因果律(訳注:過去世・現在世・未来世の因果律)を理解することで、苦楽の報い、賢愚貴賤(けんぐきせん。訳注:身分の高い人・低い人・賢い人・愚かな人)の原因を理解することができます。また、宇宙のすべては絶えず変化しているため、すべての善悪行為の果報も永遠不変ではありません。積善(せきぜん。訳注:善行を積み重ねること)の結果としての福徳、努力の結果としての富貴(ふうき。訳注:金持ちで身分が高いこと)、情愛による親族(訳注:血縁関係ではなく愛情に基づいて繋がっている親族)、すべての享受と快楽も一時的であり、破滅し、頼りにならず、究極的ではありません。人生の快楽はその苦痛に比べて、まさに大海の一滴に過ぎません。三悪道(さんあくどう。訳注:地獄道、餓鬼道、畜生道)の苦痛は想像を絶し、無限の輪廻の生死の大海において、衆生は苦痛と悲哀を味わい尽くしています。この無限の生死の疲労と苦痛を考えると、私は自然に一心に法を求め、解脱を渇望し、佛になる決意をしました。
清浄な身心を持つことが佛法に入るための基盤です。ですから、第一歩として別解脱戒を受け、その後、正法を次第に学ぶべきです。学処(がくしょ。訳注:修行規範)を守ることは、目を守る(訳注:佛法の真理を見失わないこと)ように慎重に行い、損なうことなく堕落しないようにすべきです。しかし、個人の解脱を求めることは小乗の有限の道(訳注:自分自身の解脱にしか到らない道)に過ぎません。一切の衆生を悲しみ、衆生を苦海から解脱させるためには、大慈悲心と大菩提心(だいぼだいしん。訳注:すべての衆生を救いたいという強い意志)を発さなければなりません。一切の如父如母(にょふにょほ。訳注:自分自身の親であると考えること)の衆生の恩徳と情愛を思い、どう報いるかを考えます。ですから、菩提道で行うすべての善行は、すべての衆生に回向(えこう。訳注:自分が積んだ功徳を他の者に施すこと)すべきです。このようにして、すべての如父如母の衆生のために佛果(ぶっか。訳注:究極的な境地)を求め、大菩提心を発し、一切の菩薩行(ぼさつぎょう。訳注:菩薩が行う修行)を修習します。
このような大乗心(だいじょうしん。訳注:大乗佛教の根本的な精神)を基盤として、金剛真言乗(こんごうしんごんじょう。訳注:密教)に入ることができます。清浄な見解を持ち、具相(ぐそう。訳注:すべての徳を備え欠点のない悟りの境地)の上師に依止し、輪廻についての指示を受け、方便と智慧を備えた四大灌頂(しだいかんじょう。訳注:修行者が悟りに至るための四つの段階)を求めます。灌頂の力によって深遠な見解を得、その後、次第に観を修し(訳注:瞑想を通じて心を集中させる)、「共道の人無我観」(きょうどうのじんむがかん。訳注:修行者たちが共に実践する「自己の実体がない」ことを悟るための瞑想法)を精進して修行します。佛陀の教授と理智の思惟によって、何処に自我があるかを探求しても、結局それを得ることができないことを認識し、このようにして人無我理(じんむがり。訳注:「人間というものは本来、自我が存在しないものである」という真理)を証悟(しょうご。訳注:佛の教えを完全に理解すること)します。このようにして無我見(むがけん。訳注:「自分というものは本来存在しない」という理解)によって正定(しょうじょう。訳注:心を完全に集中させる状態)を修し、妄念が断たれ、連続しなくなり、心が無分別(訳注:自分と相手・善悪・清いことと汚いことの三つの分別心をなくすこと)に入り、定に持し(訳注:心を完全に集中させ、その状態を維持する)、座から離れず、年月を経ることができます。このようにして定を得ることができます。
このようにして正念の力を常に保ち、昏沈(こんじん。訳注:精神がはっきりしない状態)と掉挙(じょうこ。訳注:心が落ち着かない状態)に陥らず、次第に明覚(みょうかく。訳注:精神がはっきりしている状態)が増します。様々な物事が現れても物事の実体がなく、明朗(訳注:執着に染まっていない心の状態)でありながら無分別(訳注:対象の本質をありのままに見る)で、赤裸(せきら。訳注:ありのままの状態)で明瞭ですが、これは定相(じょうそう。訳注:修行によって得られる境地)の覚受(かくじゅ。訳注:対象をありのままに認識できるようになること)に過ぎません。多くの人々はこれを勝観(しょうかん。訳注:修行によって得られる高い悟りの境地)と考えています。しかし、凡夫衆生(ぼんぷしゅじょう。訳注:煩悩に迷っている人々)は如量(にょりょう。訳注:ありのままの状態)の勝観を生起させることが難しいのです。初地(しょじ。訳注:大乗佛教における菩薩修行の十段階の第一段階)、歓喜地(かんきじ、行者が初めて聖性を得て無限の歓喜を得るため、歓喜地と呼ばれる)を修行によって悟った後でのみ、真の勝観を実際に見ることができます。ですから、勝観に依って道に入るべきです。他の定境(じょうきょう。訳注:修行によって得られる境地)、たとえば佛像を見るなどは、修行を通じて悟りを追求することのわずかな成果であり、重要な価値はありません。
有相無相の定(うそうむそうのじょう。訳注:具象的な存在に執着することなく無形の真理を体得する修行)を修する前に、慈悲心を発し、すべてを衆生のために行い、清浄な見解で無観行(むかんぎょう。訳注:観念を捨てて無分別の境地に入ること)に入ります。最後に功徳をすべての衆生に回向(訳注:自分が積んだ功徳を他の者に施すこと)します。無分別の中でこれらのことを行うことが、すべての道の中で最も優れたものです。私は今、これらの道理を実際に理解しています。
飢えた人々が食物が飢えを癒すことを知っていても、ただ『知っている』だけでは何の役にも立ちません。飢えの苦しみを解決するためには、実際に食物を食べなければなりません。それと同じように、空性(くうしょう。訳注:すべての存在は空であり自性を持たないという教え)の道理をただ理解するだけでは何の役にも立ちません。空性を実際に証悟しなければなりません。慧観(えかん。訳注:智慧を結集して真理を見極めること)の方便は後得(ごとく。訳注:悟りを開いた後に得られる智慧)の清浄な積み重ねによって増進されるべきです。瑜伽行者が観る空性は、無言で、無分別で、法爾平等(ほうにひょうとう。訳注:清らかで、汚れのない状態の平等)の密宗見(みっしゅうけん。訳注:瑜伽行者が修行によって観る真理のあり方)です。これが私の少しばかりの理解です。この勝解(しょうげ。訳注:真理を深く理解すること)を完全に証する(訳注:真理を体得する)ために、疲労や飢えを忍び、すべての世間的な執着を捨て、死体のように死を恐れず(訳注:死体のように無執着な状態)、無掛礙(むかけい。訳注:執着を捨て清浄な心境で修行すること)で精進して修持すべきです。無比の恩徳を持つ上師父母の前で、私、ミラレパは物質的な供養を持ちません。一生を通じて修行と成就をもって供養し、究極の証解と報身(訳注:仏や菩薩が修行の成果として得た理想的な世界)の荘厳な浄土(訳注:佛によって作り上げられた理想的な境地)をもって供養いたします。
以上の話しを終えると、私はもう一曲歌を歌いました。
上師はそれを聞いて非常に喜び、「息子よ、お前はもうこの境地に達したのか?」と言いました。師母もまた非常に喜んで、「私の息子よ、お前の精進と智慧は本当に素晴らしいものだ」と言いました。そしてまた修行に関する多くの話をしました。その後、私は再び崖の洞窟に戻って修行を続けました。
ある時、上師は衛地(えいち:チベット自治区ラサ市)に弘法に行き、会供を終えた夜に、尊者那諾巴からの教えに理解できない部分があることを思い出しました。空行母も上師に示唆を与えたので、再びインドに行き、那諾巴大師に謁見しようと考えました。
上師が衛地からロツァウ村に戻ってきてから数日後のある夜、私は夢を見ました。その夢の中で、緑色の衣を着た若い女性が現れました。彼女は絹の衣をまとい、骨の装飾品で身を飾り、額と腰には朱色の飾りがありました。彼女は私に「息子よ、お前は長い間修行してきたおかげで、大手印と六法(密宗の六つの成就法、すなわち①拙火[そくか。訳注:呼吸法を用いて肉体と精神を活性化する法]、②化身[けしん。訳注:特定の佛の姿を思い描き、その佛の力を取り込む法]、③夢修[むしゅう。訳注:夢の中で修行することで現実世界では体験できない悟りを得る法]、④光明[こうみょう。訳注:光を思い描くことで悟りの状態へと導く法]、⑤中陰[ちゅういん。訳注:死後の世界である中陰を体験することで輪廻から解脱する法]、⑥転識[てんしき。訳注:意識を他の存在に移すことでより高い精神レベルへと進化する法])の心要を得た。しかし、瞬時に成佛する『奪舍』法(だっしゃほう - 心気の自在を得た行者がこの口訣によって神識を他人の死体や生きている体に転移することができる法)についてはまだ得ていないのですか?」と言いました。
私は心の中で、この女郎(訳注:若い女性)の姿と装いは空行母のようだが、実際には魔障(訳注:修行の妨げとなるもの)なのか、それとも本当に空行母の授記(訳注:師から弟子に対する導き)なのか分からないと思いました。しかし、いずれにせよ、三世の諸佛(さんぜのしょぶつ。訳注:過去・現在・未来の三つの世にわたって存在するすべての佛)が知っている法を、私の上師はすべて知っている。成佛に至る法から、野鼠を降伏させる口訣に至るまで、すべてを知っている。もしこれは空行母の示意(訳注:意図的なメッセージ)であるなら、私は『奪舍』法の口訣を求める決心をしました。それで私は窟門(訳注:洞窟の入口)を打ち破り、崖の洞窟を出て、上師の前に行きました。上師は「息子よ、なぜしっかりと閉関(訳注:瞑想に集中する状態)していないのか? なぜ外に出てきたのか? 一体何のために出関(訳注:閉関している状態から出ること)したのか? 魔障が生じることを気を付けなさい」と言いました。
私は「昨夜、ある女郎が夢に現れ、『奪舍』法を求めるべきだと言いました。これは魔障なのか、それとも空行母の授記なのか分かりません。もし授記であるなら、私は『奪舍』の口訣を求めたいのです」と言いました。上師はしばらく静かにした後に「これは魔障ではなく、空行母の授記だ。私がインドから戻ってきた時、尊者那諾巴が『奪舍』の口訣について話しました。私はその法を求めましたが、那諾巴は私に経書を探すように言いました。結果として、師徒2人で一昼夜かけて探し、多くの『遷移』(訳注:現世から来世へと意識を移し替えること)法の書は見つけたが、『奪舍』の書は見つけられなかった。先日、私は衛地北方にいた時、同じくこの法を求める兆しを夢に見ました。また、口訣について完全には理解できない部分があるので、再びインドに行き、那諾巴上師に謁見(訳注:地位の高い人物に会うこと)する決心をしました!」と言いました。皆はそれを聞いて上師を引き止め、「上師、あなたはもう年を取っているので行かないでください」と言いましたが、上師は聞き入れず、決心して行くことにしました。弟子たちの供養を黄金に換え、それを持ってインドへと旅立ちました。
この時、ちょうど那諾巴尊者は外出して修行をしていました。馬爾巴上師は命を顧みず、様々な方法で那諾巴尊者を探し求めましたが、見つけることができませんでした。しかし、那諾巴上師に会える兆しがあったので、心を尽くして探し続けました。後に、ついに大森林(訳注:厳しい修行を行う場所)の中で出会い、尊者を普来哈慈寺(ふらいかじじ)に招いて「奪舍」法を伝授してもらいました。大梵学者(訳注:梵語の学問に通じた学者)那諾巴は「あなたがこの法を求めてきたのは、自分で思いついたことなのか、それとも諸佛の授記によるものか?」と言いました。
馬爾巴上師は「私自身が思いついたわけでも、空行母の授記によるわけでもありません。私には聞喜(とぱが:ミラレパの幼名)という弟子がおり、空行母から授記を受け、その弟子がこの法を求めてきたので、私はインドに来たのです」と答えました。
那諾巴尊者は驚いて「おお、なんと稀有で貴重なことか! 暗黒の地であるチベットに、このような偉大な人物が生まれるとは、まるで太陽が雪山を照らすようだ」と言って両手を合わせ、恭しく頭の上に置き、歌いました。
「北方の暗黒の中に、雪山に昇る太陽のように。彼の名は聞喜、私は心から敬礼する」
歌い終わると、合掌し目を閉じ、北方に向かって地に伏し、三度敬礼しました。その時、現地の山や林の木々も共に北方に三度身を屈めて敬礼しました。今でも普来哈慈寺地方の山や木々は、チベットに向かって頭を垂れているように見えます。
こうして那諾巴尊者は空行母の口訣と「奪舍」法を完全に馬爾巴上師に伝授しました。
那諾巴尊者は縁起(訳注:すべての現象は原因と結果の関係によって生じ存在しているという概念)を観察するために、虚空壇城(こくうだんじょう。訳注:修行者が自分の心の中に作り出す宇宙全体を表す曼荼羅)を作り出しました。馬爾巴上師はまず壇城本尊に敬礼し、那諾巴上師に先に敬礼しませんでした。それにより、那諾巴上師は兆し(訳注:未来の出来事を予見させる出来事)を得て、馬爾巴の弟子系統(訳注:師弟関係によって繋がっていく一連の人々)の伝承は長く続かないが、彼の事業法統(訳注:直接の弟子系統を超えて広範囲に受け継がれていくこと)の伝承は大河のように尽きることなく、永遠に存続することを知りました。
馬爾巴上師は法を得て、チベットに戻りました。
馬爾巴上師が頂礼(ちょうらい。訳注:佛教における礼拝の形式の一つ)した因縁(訳注:直接的な原因)により、彼の息子・打馬多得(ダルマドダ)が夭逝(ようせい。訳注:若くして亡くなること)しました。彼の死から1年後、弟子たちが集まり、数人の高弟(こうてい。訳注:優秀な弟子)が馬爾巴上師に「三世諸佛(さんぜしょぶつ。訳注:過去・現在・未来の三つの世にわたって存在するすべての佛)と等しく無二の上師よ。私たち衆生に福徳がないために、あなたも衰老(すいろう。訳注:心身の衰え)を示現されました。これから口伝の教えはどのように広まるのでしょうか? 私たち弟子の弘法度生(こうほうどせい。訳注:佛の教えを広め衆生を救うこと)の事業はどうなるのでしょうか? どうか一つ一つ授記をお願いします」と尋ねました。
上師は「私の那諾巴(ナーローパ)の口伝の教えは、夢の兆しや因縁(訳注:予兆)を見ても、必ず広まるであろう。那諾巴尊者自身も良い授記を持っている。皆さん、まずは帰って夢を祈り(訳注:深く瞑想する)、明日その兆しを私に伝えなさい」と答えました。翌日、弟子たちはそれぞれの夢の兆しを報告しました。皆の夢は非常に良いものでしたが、完全に授記と一致するものではありませんでした。
私は上師の前に行き、4本の大柱を夢に見たことを詳しく報告しました。
馬爾巴上師はそれを聞いて大いに喜び、「夢の兆しは素晴らしい! 達媚瑪(ダメーマ)、最良の食事と会供輪を準備してくれ!」と言いました。師母が会供輪と食事を準備した後、弟子たちが集まり会供輪に参加しました。上師は「密勒金剛幢は昨夜このような夢を見た。これは非常に希有(けう。訳注:価値が高い)で貴重なことだ!」と言いました。高弟たちは上師にこの夢の兆しの解釈を求めました。上師は快く承諾し、皆に向かって夢の解釈の歌を歌いました。
馬爾巴上師が歌い終わると、集まった高弟たちは皆、無量の喜びを感じました。
こうして上師は大弟子(訳注:特に優れている弟子)に秘密口訣蔵(ひみつくけつぞう。訳注:師から弟子へ口伝で伝えられる最も奥深い教え)を開き、昼は法を説き、夜は修行させました。皆の意欲は燃え上がり、悟りの体験が増していきました。
ある夜、上師が弟子たちに灌頂儀式をしていた時のことです。上師は「私は弟子たちに、それぞれの時節因縁(じせついんねん。訳注:各弟子のその時の縁に基づいた教え)に応じて法要を授けるべきだ」と思いました。翌朝、上師は曙光(しょこう。訳注:夜明けの光)の中で大弟子たちの一人一人の縁起を観ました。そして、雍地(ようち)の俄頓(がくとん)は喜金剛法要(きこんごうほうよう)を修めるべきであり、多地(たち)の錯頓綱崖(ツォトン・ガンア)は頗哇成就法(はわじょうじゅほう)を修めるべきだと知りました。そして、私は拙火成就法[せっかじょうじゅほう](六法の根本で、心と気を合一[ごういつ。訳注:一つにする]する修法。業識[ごっしき。訳注:業と意識]および業気[ごうき。訳注:過去の業が現在に与える影響]を智慧と光明に転じることができる)を修めるべきであると。また、将来各人がそれぞれ異なる時節因縁と事業を持つこともわかりました。
上師はこのように観察した後、弟子たちに教えを授けました。そして私には、薪から火を起こす如き拙火成就法を授け、梅紀巴[ばいきは:馬爾巴の別名](メジパ)尊者の帽子と那諾巴尊者の衣服を授け、「雪山の峻嶺(しゅんれい。訳注:高くて険しい山)で修行せよ」と言いました。
上師は授記と法の伝授を終え、大勢の喇嘛たちが法供輪に参加し、順に座りました。上師は「私はそれぞれの時節因縁に応じて口訣を伝授しました。皆、それぞれの因縁に従って佛法を広めなさい。将来、あなたたちの伝承によって佛法は必ずや発揚(はつよう。訳注:広める)するでしょう。私の息子・打馬多得はすでに亡くなりました。私は今、父子の伝承の口訣と加持の伝承をすべてあなたたちに授けました。精進し、必ずや広大な利益をもたらす事業を成し遂げるのです!」と言いました。
その後、各大弟子たちはそれぞれの地に戻りました。上師は私に「もう数年私のところに滞在しなさい。さらに灌頂と特別な口訣を伝授するつもりです。あなたの覚受証解(かくじゅしょうげ。訳注:修行者が得られた理解を師に対して表明し確認してもらうこと)も私の面前で確かめる必要があります。早く閉関しなさい!」と言いました。それで私は那諾巴が授記した銅崖(どうがい。訳注:銅の色をした崖)の洞窟にこもって修定(しゅうじょう。訳注:一定の場所に閉じ込もって集中して修行を行うこと)しました。
上師と師母は、自分たちの食物や法供養(ほうくよう。訳注:佛法に対して供物を捧げる行為)の良い物品を常に私に送ってくれ、私に対して本当に慈悲の極みでした。
(続く)