ミラレパ佛の修煉物語(二)
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 【明慧日本2024年7月11日】ヒマラヤ山脈は古来、修煉する者が多く集まる場所であり、人々は質素な生活を送り、歌や踊りを楽しむと同時に、佛法を崇拝していました。その中で、ミラレパ(密勒日巴)という修煉者がいました。佛、菩薩たちは多生曠劫(たしょうこうごう:繰り返し輪廻する長い時間)の修煉によって成就するものですが、ミラレパは一生の中でこれらの佛、菩薩と同等の功徳を成就し、後にチベット密教の始祖となりました。

 (ミラレパ佛の修煉物語(一)に続く)

 ミラレパは微笑しながら言いました。

 よろしい、お話ししましょう。

 私が7歳の時、父が重病にかかり、医者たちはお手上げでした。占い師も、父の病は治る見込みがないと言いました。親族や友人たちは、父がもう回復しないことを知っていました。父自身も自分の病が危篤だと分かっていたので、亡くなる前に私たち家族と財産の処分について決めることにしました。

 父は伯父や伯母、近隣の親友たち、そして近所の人々を家に集め、事前に用意していた遺言を皆の前で読み上げました。

 遺言には、全ての財産を長男(訳注:ミラレパ)が相続するようにと詳細に記されていました。

 遺言を読み終えると、父はゆっくりと話し始めました。

 「今回の病気はもう治らないだろう。私の子供たちはまだ幼いので、伯父や伯母、そして親戚や友人たちに世話をお願いしなければならない。私は大富豪ではないが、かなりの財産がある。牧場には牛、羊、馬が揃っている。農地の中で主要なのはこの俄馬三角田(がばさんかくでん。訳注:三角形の形状を持つ非常に肥沃な土地)で、他の小さな田も数えきれないほどある。家の一階には馬小屋があり、牛や羊、ロバがいる。2階には家具や金銀製の古美術品、宝石やラピスラズリ(訳注:困難な状況の中でも希望を失わずに進む力をもたらすと信じられている青金石)、絹の服、穀物の倉庫もある。つまり、私の財産は非常に豊かで、他人に頼る必要はない。私が死んだ後は、この財産の一部を使って私の葬儀を行い、残りの財産全てを白荘厳母(はくそうげんぼ:ミラレパの母親)とその子供たちのために管理してほしい。聞喜(とぱが:ミラレパの幼名)が成人し、妻を迎える時には、すでに決まっている結賽(けっさい)という娘を迎えてほしい。結婚費用も私たちの身分にふさわしいものでなければならない。その時には、財産は聞喜が管理することになる。彼ら母子3人の生活については、特に関心を持って伯父や伯母(訳注:父方)に世話をお願いしたい。皆さんも関心を持ち、彼らが苦しむことのないようにしてほしい。私が死んだ後も、棺の隙間から彼らを見守ることになるだろう!」

 そう言い終えると、父は私たちを残して逝ってしまいました。

 私たちが父を埋葬した後、皆で相談し、一致して全ての財産を母が管理することに決めました。しかし伯父と伯母は断固として母に言いました。「あなたは確かに至親(訳注:血縁関係が非常に近い親族)ですが、私たちはもっと親しい間柄です。私たちは決してあなた方母子が苦しむことを望みません。だから遺言に従って全ての財産を私たちが管理します!」。私の母方の叔父と結賽の父がどれだけ母が管理するべきだと説得しても、彼らは全く聞き入れませんでした。それで男の子(訳注:ミラレパ)の財産は伯父が、女の子(訳注:琵達[びたつ]:ミラレパの妹)の財産は伯母が管理し、その他の財産も伯父と伯母が半分ずつ分けました。

 彼らはまた、私たち母子3人に「これからは私たちがあなた方をしっかりと世話します!」と言いました。しかし、その言葉が終わった後、私たち母子3人の財産は全て失われてしまいました。

 そこで、酷暑の時期には伯父が私たちに田を耕させ、厳冬の時期には伯母が羊毛を織らせました。食べ物は犬の餌のようなもので、仕事は牛馬のようなものでした。衣服はぼろぼろで、腰帯は草の紐を何本も繋いで作ったものでした。朝から晩まで、一切の休みはなく、過度な労働で手足はひび割れ、皮膚の裂け目から血が流れ出しました……。衣服は暖かくなく、食べ物は満足に食べられず、皮膚の色は灰白色に変わり、体は骨と皮だけになりました。以前は頭の辮髪(べんぱつ。訳注:かつて中国で男性が頭髪を編んで作った髪型)に金や松耳石(まつじせき。訳注:装飾品として用いられる青色の鉱石)の装飾品がありましたが、それらは次第になくなり、最後には灰黒色の紐だけが残りました。頭はシラミでいっぱいになり、シラミの卵が乱れた髪の中に巣を作っていました。私たちの様子を見た人々は、伯父と伯母の冷酷さを激しく非難しましたが、伯父と伯母は厚顔無恥で、牛皮のように全く恥じることなく、そのような非難を全く気にしませんでした。そこで母は、伯母のことを鬼母老虎(鬼のように残酷で虎のように凶暴な母親)と呼び、瓊察巴正(けいさつばせい)とは呼ばなくなりました。この鬼母老虎という名前は村人たちの間で広まりました。その時、村人たちは皆「他人の財産を奪い取った挙げ句に、元の持ち主を番犬のように扱うとは、こんな不公平なことがあるのか!」と言っていました。

 私の父が生きていた頃は、お金があるかどうかに関係なく、多くの人が私たちの家に媚びて交流しに来ていました。今では伯父と伯母が金持ちになり、王侯(訳注:権力と富を持つ高貴な人物)のような生活を送っているので、それらの人々(訳注:ミラレパの父と交流していた人たち)は皆、伯父と伯母のところに行ってしまいました。さらに、多くの人々が私の母を批判して「ことわざに、上質の毛料は細い毛から作られる、夫が金持ちであれば、その妻も賢明になると言うが、まったくその通りだ! 見てみろ! 以前、白荘厳母の夫が生きていた頃は、彼女は本当に寛大で施し好きな女性だった。今では彼女に頼れるものがなくなり、こんなに貧相になってしまった」と言いました。

 チベットには、「人が一度不運に見舞われると、四方八方から悪口を言われる」ということわざがあります。私たちの状況が悪く、運命が困難になると、人々の同情は増えるどころか、逆にどんどん薄れていき、噂話や嘲笑がますます増えていきました。

 私の不幸を哀れんで、結賽の両親は時折、私に衣服や靴を送ってくれました。そして、彼らはとても親切に私を慰めて『聞喜! 世界の財産は永遠に続くものではないことを知っておきなさい。世の中の財物は朝露のように無常なものだ。お金がないことを悲しんではいけない。あなたの祖父も最初は貧乏だったではないか? 将来、あなたもお金を稼いで成功することができるよ!』と言いました。

 私は、彼らに心から感謝しました。

 私の母には、嫁入り道具として、「鉄波銭瓊」(てっぱせんけい。訳注:鉄のように硬く美しい玉のように価値のある田)と呼ばれる田んぼがあります。この田んぼは、とても良い耕地で、収穫もかなりありました。この田んぼは私の母方の叔父が耕していて、毎年収穫した穀物を蓄えて利益を生み出し、何年もかけて本利(訳注:元本に加えて生じる収益)ともにかなりの額が貯まりました。苦しい日々が続く中、私が15歳になった時、母はその田んぼの半分を売り、穀物の利息を加えたお金で大量の肉や青稞(せいあく。訳注:チベット高原で栽培されるイネの一種)を買い、糌巴(ツァンパ。訳注:青稞を粗挽きにした粉)を作り、多くの黒麦(訳注:酒の原料)を使って酒を作りました。母のこの行動は村の人々を非常に驚かせ、「白荘厳母が正式に家産を取り戻すために宴会を開くのではないか」と皆が推測しました。母と母方の叔父が全ての準備を整えた後、自宅の「四柱八梁屋」(しちゅうはちりょうおく)の大広間に、借りてきた敷物を一列に並べ、伯父と伯母を主賓として招待し、親戚や友人、近隣の住民、特に父の遺言の際に立ち会った人々を全員招待しました。母は最上の肉と料理を伯父と伯母の前に置き、他の客人の前にも豊富な食べ物を並べ、一人一人の前に大きな碗で酒を用意し、本当に盛大な宴会を開きました。

 「みなさん、今日は少しばかりの粗酒粗菜で皆さんをお招きしましたが、これは私のささやかな気持ちを表すものです」。客人たちが席に着くと、母は皆の前に立ち、丁重に話し始めました。

 「今日は子どもの誕生日とはいえ、実際にはそれは名目に過ぎません。皆さんにお話ししたいことがあります。先夫の密勒蔣採(みらしょうさい:ミラレパの父親)が遺言を残した時、皆さんや伯父や伯母もその場にいらっしゃいましたので、よくご存知のことと思います。今、改めて皆さんにその遺言をお聞きいただきたいと思います」

 こうして母方の叔父が立ち上がり、皆の前で父の遺言を大声で読み上げました。すべての客人は黙ったままでした。

 母は続けて言いました。「現在、聞喜は成人し、結婚する年齢になりました。夫である密勒蔣採の遺言に従い、私たちの身分にふさわしい礼をもって結婚式を挙げて結賽を迎える時です。聞喜も遺言に従い、私たちの財産を管理するべきです。先ほど読まれた遺言は、密勒蔣採が危篤の時に皆さんがご自身の耳でお聞きになられたものであり、繰り返す必要はありません。今日、伯父や伯母に預けた財産を返していただきたいのです。この長い間、伯父や伯母、そして親友の皆様にお世話になり、心から感謝しています!」

 「えっ! お前たちにはまだ財産があるのか!」伯父と伯母は口を揃えて叫びました。「お前たちの財産はどこにあるんだ?」

 普段、伯父と伯母は何事にも意見が合わないのですが、他人の財産を奪う時には一致団結します。彼らは口を揃えて言いました。「えっ! お前たちにはまだ財産があるのか? お前たちの財産はどこにあるんだ? 密勒蔣採は若い時、私たちから多くの田地、金、松耳石、馬、牛、羊を借りたんだ! 彼が死んだ今、それらは当然私たちに返すべきだ。お前たちには、一粒の金、ひと束の麦、一両(訳注:約37.5グラム)の酥油(そゆ。訳注:バターに似た乳製品)、一着の破れた衣服、一匹の年老いた家畜さえ見当たらない! 今さらこんな夢物語を話すとは! お前たちの遺言書は誰が書いたんだ? お前たち母子をここまで養ってやっただけでも十分だ! 俗に言う『恩を仇で返す』とはまさにお前たちのことだ!」

 そう言いながら、怒りで息を荒げ、歯をガチガチ鳴らし、席から飛び上がり、地面を強く踏み鳴らして大声で叫びました。

 「おい! 分かったか? この家は私たちのものだ。さっさと出て行け!」

 一方で、伯父は馬鞭を持ってきて母を打ち、袖で私と妹の琵達を叩きました。母は地面に倒れ、大声で泣き叫びました。

 「密勒蔣採よ! あなたは私たち母子3人を見ていますか? あなたは棺の隙間から見に来ると言いましたが、今見ているのですか?」

 私と妹は母に抱きつき、3人で泣き叫びました。母方の叔父は伯父が多くの人を味方にしているのを見て、声を潜めて怒りを隠すしかありませんでした。一部の客人たちは「あぁ、彼ら母子は本当に可哀想だ」と言い、私たちの不幸を嘆いて涙を流しましたが、ただ静かにため息をつくしかありませんでした。

 伯父と伯母はまだ怒りが収まらず、恥をかかされた怒りから、私たち母子3人に対してさらに狂ったように罵りました。

 「お前たちは財産を返してほしいのか? そうだ、財産はお前たちのものだ。でも返してやらない。お前たちにそれを取り戻す方法があるのか? 俺たちがその財産を使って酒を飲み、客を招待するのが気に入らないのか?」

 伯父と伯母は私たちを粗野に嘲笑い、「もしできるならもっと多くの人を連れてきて戦って財産を取り戻してみろ! それができないなら、お前たちは咒(のろい)を唱えるしかないだろう!」と言い終わると、彼らは友人たちを連れて無視して去っていきました。

 極度の悲しみの中、可哀想な母はすすり泣き続けました。四柱八梁屋の広間には、私たち母子3人と私たちを同情する親友たちが寂しく残されました。結賽と彼女の両親は親切に私たちを慰めてくれ、皆が貧しい私たちを救済するために何かを送ろうとしていました。母方の叔父は私に何か手に職をつけさせ、母と妹は叔父が田を耕すのを手伝うべきだと提案しました。さらに彼は、あなたたち密勒蔣採の家族は決して無能ではなく、侮れないことを伯父や伯母に対して示すべきだと強く主張しました。

 母は無限の悲しみを抑え、涙を拭いて悲憤に満ちた決意を込めて言いました。

 「私は自分の財産を取り戻す力がない以上、他人の施しで息子を養うことは絶対にしない。今、もし伯父や伯母が私たちに一部の財産を返してくれるとしても、私は決してそれを受け取らない。しかし、聞喜にはどうしても手に職をつけさせなければならない。私たち母娘は、伯父や伯母の恩返しをする前に、人の家でメイドや使用人になることも甘んじて受け入れるつもりだ。私たちは彼らに見せてやる!」

 母はまた、母方の叔父に言いました。

 「私たちはあなたのために田を耕します!」

 皆、母の意志が固いのを見て、他に言うべきこともなく、母の意向に従ってそうすることにしました。

 寧察(ニンツァ)の無上広(ウショングワン)という場所に、八龍法(訳注:チベット佛教ニンマ派の秘法の一つ)を修行しているニンマ派(チベット最初期の佛教、ニンマ派は本来「旧教」と訳されるべきだが、ラマが赤い服を着ているので俗に「紅教」と呼ばれる)のラマがおり、地元の村人たちから非常に信仰されており、法事が非常に忙しかった。母は私をこの紅教のラマの元に送り、学ばせることにしました。家を離れる際、2、3人の親戚が私を見送ってくれました。

 この期間中、結賽の両親はしばしば結賽に食べ物や燃料用の薪や油などを私の勉強している場所に届けさせました。母と妹が仕事を見つけられない時には、母方の叔父も少し食べ物を提供してくれました。彼は母が物乞いをしないように、どこでも仕事を探し、母を助けようとしました。できる限りの力を尽くして、私たち母子3人を助けてくれました。妹は時々人の使い走りをしたり、太鼓を叩いたり、工場を掃除したりして、どうにかして衣食を得ようとしました。しかし、食べるものは依然として乏しく、着るものもみすぼらしく、悲しみ以外には何の喜びもありませんでした。

 ミラレパ尊者がここまで話した時、聞いている者たちは皆感傷し、涙を流し、世の中への嫌悪感を抱きました。説法を聞いている弟子たちは全員、静かにすすり泣きながら深く沈み込んでいました。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2000/12/22/5700.html)
 
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