文/一言
【明慧日本2024年5月30日】毎回の法輪大法デーに際し、明慧ネットが発表する数万枚の祝賀カードや祝辞は、送り主の師父と大法への深い感謝を伝えています。「慶祝5.13」の文章にも同様に作者の多くの敬意、思考、時間が注がれています。
中に「真に修煉することは魔難から抜け出す唯一の方法だと信じている」という文章があって、修煉の観点から見ると、作者の悟りに問題がありますが、しかし彼は、大法からウマイ汁を吸えていなかったからといって修煉を止めたわけではありません。中国本土で法輪功が迫害される環境で育った若者として、たくさん考えた後も修煉を続けていきたい決心をして、そして師父の恩に応えるために真相を伝えることを行動に移すべきだと認識しました。「自分の目と心臓のように機縁も大切に扱う」、「真に修煉することは魔難から抜け出す唯一の方法だと信じている」、これこそ彼の考え方の貴いところです。
修煉について話すと、おそらく最初から、その若い作者の周りに健康を求めて法輪功を始めた人が多くいたため、彼は無意識のうちに「大法は病気を治して健康を保つ」ことに執着を持ってしまいました。しかし、「病気を治して健康を保つ」ことは、心性が向上した後の「副産物」であり、弟子が大法に対して正しい念を持った時、修煉を続けられるように師父は弟子の身体を浄化した結果であることを、彼は分かっていませんでした。
実際、「大法の修煉」と「気功による治療」を同一視している人は多く、その中には多くの現代科学を学んだと自負する海外の修煉者もいます。しかし、ただ本を読むことは修煉には等しくなく、単に煉功動作を行うのも心性の向上に等しくなく、修煉とは言えません。かと言って現実の中、大法の本を読んで煉功動作をしただけで健康を実現し大法に恵まれることを「当然の結果」と考える人が多いのです。特に、病気で苦しんでこの道に入ったものの、初期の理解に留まっている人です。これが、長期間修煉しても状況改善できず、または一時的に病気が治ったと思われたが再発し、どんなに願っても改善されない主な理由です。大法はそもそも病気を治すためのものではなく、病気の治療は常人レベルの話です。
25年間にわたる迫害のもと、彼(前記の若い作者)の周りには大法の恩恵を受けながらもそれを証明するために出てこない人がたくさんいるかもしれません。彼は、「その素晴らしい出来事を他人に伝えるのは当然だ」と思っています。また、自分自身に対して「大法を修煉しているにもかかわらず『病気』が治らないため、説得力が弱いと感じ、なかなか外へ出て、大法を広めることができません」と思っています。実は、病気が治ったなどの経験がなくても、彼には言えることがあると思います。つまり、自分がなぜ修煉するのか、大法はいったいどんなものなのかについての理解です。それは、大法修煉者の人生の目的、大法弟子の存在の意義に対する理性的な考えとしてそれなりの価値があります。もちろん、常人に説明する場合は、相手の理解力に合わせて簡潔に説明する必要があります。
これまでに明慧ネットで読んだ多くの記事は病気が治った、健康を向上させた、子供を授かった、家族関係が改善した、などのような幸運を得た事例を通じて法輪大法の素晴らしさを証明するものです。これらの事例は、常人にとって理解しやすく、感情移入しやすいものですが、私たち修煉者は大法を誤解してはならず、常人生活の幸せを求めるために修煉してはならず、また名、利、情を追求するために修煉してはならず、修煉の本質が肉眼で見えるこれらのものだと誤解するのもなおさらいけません。
この話をすると、聖書の一節を思い出しました。登場人物のヨブという男性は「正直で、神を敬う、悪事から遠ざかる」、彼には7人の息子と3人の娘がおり、7000頭の羊、3000頭のラクダ、500組の牛、500頭の雌ロバと多数の使用人を持っています。ある日、神はサタンに「世の中にヨブのように正直で、神を敬う、悪事から遠ざかる人はいない」と言いいました。しかしサタンは「彼が持つ財産は全部、あなたが下賜したものだ。さあ、手を伸ばして彼のすべてを破壊してごらん、そうすれば、彼はきっとあなたを見限るだろう」と反論しました。そこで、神はサタンに「彼の持ち物は全てあなたの手に委ねる。ただし、彼自身には害を加えるな」と言いました。そこで、サタンはヨブから財産、子供、そして健康など人が最も価値があると思うものを奪いました。
それでもヨブは揺るぎない信仰を示しました。サタンは今度、ヨブにひどい皮膚病にかからせ、妻には神を呪って死んだ方がましだとさえ言われても、ヨブは忠誠を保ち続けました。ヨブは、彼を慰めに来た3人の友人と苦難について長い議論をしました。結局、ヨブは3人の提案を拒否し、どんなに苦しんでいても神に対して不敬な言葉を言いませんでした。
こうして、幾多の魔難を遭遇して、ヨブは忠誠を保った事が証明されました。彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名は褒め称えられよ」と語りました。最後に彼の病は治され、神によって以前の2倍の財産を与えられ、子供たちにも恵まれ、幸せな後半生を送り、140歳まで生きました。
修煉することによって恩恵を受けるのは「当たり前」だと思い、恩恵をもらえなかったら修煉を止めてしまうのは、真の信仰ではありません。人類の文化の中には、数えきれないほどの例があります。また聖書の中の物語を挙げましょう。神が信者であるアブラハムの信仰を試すために、彼に自分の長男を殺して犠牲にするよう命じました。時代や国を問わず、これは人間の感情に合致するでしょうか、これが人々が望む恩恵でしょうか。しかし、アブラハムが神への信仰と忠誠を自分自身に向けて確かめてから、息子を犠牲にしようとした瞬間、神は天使を送り、息子を羊と交換しました。人間の心では、神の計画を正しく理解することはできません。小さな人間が最高の神を理解することは不可能です。
神の前で自分の卑小さを理解できない人は、神を信じていないということです。大法の前で、ただ何かを得ようとするだけの人は、無知であり、大法が何であるかを理解していません。どの法門でも修煉の目的は、家族に栄光をもたらすことや、富や名声を得ることではありません。法輪大法の弟子は、さらに大きな衆生を救い済度する使命を担っています。
何のために存在するのかという問いは、大きなテーマです。ここに述べた感想を同修と共有したいと思います。一緒に精進しましょう。