文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年6月26日】夕方、薄暗くなった頃、私は90部以上の大法の資料をバックに入れて、自転車に乗って配りに出かけました。高級マンション付近の駐車場と両側の道路沿いの自転車道路には、自家用車がたくさん停まっていました。私は資料を車の隙間から入れたり、ワイパーの下に置いたりして配りました。車ごとに資料を置くのではなく、フロントガラスがきれいで、毎日走るような車を選んで配りました。こうすれば、資料を無駄にしないと思っていました。
最後に十数部残ったところで、私はマンションの反対側の道路に回って配りました。私は自転車を広い空き地に置いて、バスで南に向かって行き配りました。資料があと3部になった時、ふと後ろを振り返ると、自転車を置いたすぐ近くに、私が最初に資料を置いた車のドアが開きました。車の中に人がいたのに、私は気づかなかったのです。私の頭の中に「この人は私のことを派出所に通報するかも知れない」という考えが浮かびました。
私はすぐに「私は大法弟子であり、神の使者であり、人類の末劫の時に人を救いに来た」と自分に言い聞かせ、先ほどの良くない一念を否定しました。人は皆この大法のためにこの世に来たのです。人は皆分かっている一面があります。私たちが彼らを助けているので、彼らは皆私たちに感謝すべきです。どうして私を通報するのでしょうか? これも悪の迫害から20年余り、日増しに形成されてきたマイナス思考です。私たちは普段それを見逃してしまい、随時に取り除かなかったために生じたものです。
師父は『轉法輪』の中で、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」と説かれました。
20数年来、多くの同修が迫害されたのは、この「一念の差」によるものではないでしょうか。はっきり言って、自分自身が求めてきたものです。師父は「この宇宙には『自ら求めるものには、誰も干渉できない』という理があります。あなた自身が求め、希求していれば、誰も干渉できません。わたしの法身はあなたを止めたり、悟らせたりはしますが、いつまでもそんな状態にいると見れば、無理やり修煉させるわけにはいかず、あきらめざるを得ません。無理やり、強制的に修煉させることはできないのです。理も法もはっきり教えてあげましたが、それでも自分自身を向上させようとする意欲が湧いてこないのだとすると、誰を恨むことができますか? あなた自身が欲しがっているから、法輪(ファールン)もわたしの法身も干渉しません。これは絶対です」と語られました。(『轉法輪』)
このことを考えると、「この気づきにくい一念が、私たちの修煉にどれほどの妨害と迫害をもたらしたか」と、私は驚きました。しかし、この不正な一念は、旧勢力が私たちに押しつけたものであることに気づかなかったのです。私たちがこの一念を受け入れる時、旧勢力は私たちを迫害し、私たちに試練を与え、彼らが不合格と思った同修を淘汰する口実を持っています。このマイナス思考のために、多くの同修は受けるべきでない迫害を受け、大法に多くの損失をもたらしました。教訓はとても重いです。私はすぐに、このマイナス思考と私の空間のすべての不正な邪悪な要素を取り除くことに気づきました。
最後の資料を配り終えると、カップルが並んで来たので、私は空になったバッグを持って、彼らの後を歩いて、私の自転車に向かいました。
そして最初に資料を置いた乗用車の前に着いて、車内を見ると、もう誰もいなく、車のフロントガラスに置いていた資料は持ち去っていていました。
(責任編集者:文謙)