文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月4日】明慧ネットでの交流記事「再び同修と殺生について交流する」を読んで、私は数年前のあることを思い出しました。
私たちの地域のある協調人は、体に非常に深刻な問題が発生し、激しい胃の痛みがありました。その痛みがどれだけ続いたか覚えていませんが、当時、私たちは順番にこの同修の家に行って正念を発しました。私が行った時、同修は激痛に苦しんで、眼光が弱々しく、あんなに気丈な人が胃を押さえて、深く低い声でうめいていました。
私は他の同修と一緒に座って正念を発しましたが、天目で見た光景に驚愕しました。数人の無表情な人がその胃の痛む同修に刑罰を科しているのです。私は彼らに向かって「やめてください」と言いましたが、彼らは私を無視して続けました。
後でこのことを誰かに話しましたが、自分でもなぜ別の空間の数人が同修に対して刑罰を科したのか理解できませんでした。同修は何か悪いことをしたのでしょうか? しばらくしてから、私はその同修がレストランで常人に食事をごちそうして、生きている海鮮を注文し、ビールを飲んだことを聞き、本当に驚きました。彼は本当に度胸があり過ぎました。人を招待する機会を利用して自分の欲を解き放つなんて、師父の教えをわざと曲解する行為は、本当にひどいです。しかも、このようなことは一度や二度ではないので、そのためにこのような懲罰を受けたのです。善良な同修が、どうして冷酷に生きたままのものを食べるのでしょうか? その生命の苦しみを想像できないのでしょうか? 箸を使って生きたままのものを食べることがどうしてできたのでしょうか?
二年前、私はある同修とレストランに食事に行きましたが、その同修は生きている貝類を注文しました。私は止めることができませんでしたが、彼女はほとんどそれを食べず、焼いて私に食べさせました。私は「あなたがそれを食べないのに、なぜ注文したのでしょうか? 修煉者であるあなたは、どうしてこんなことが平気でできるのですか?」と言うと、「レストランのものは人々に食べさせるものではないのか」とその同修は言いました。その同修はそんなことをするのはこれが初めてではありませんでした。私は非常に無力感を感じ、今後この同修と一緒に食事はしないと決めました。
師父は『轉法輪』の中で「殺生というのは非常に微妙な問題で、煉功者へのわれわれの要求もかなり厳しく、煉功者は決して殺生してはいけないのです」と説かれました。
師父の説法はこんなに率直です。ではなぜ私たちは勝手に、何度も師父の教えに逆らうのでしょうか? 師父は衆生に慈悲深のですが、私たちは自分の口と腹の欲を満たすために簡単に殺生しています。あなたは「師父」と呼んでいますが、本当に師父の説法を修煉の指導として受け入れていますか? それとも師父の無限の法力を自分の欲望を満たすためや自分の安全を守るための頼みとしていますか?
殺生は大きな問題であり、どうやって償うか、償わないかと考えるのではなく、本当に自分を修煉者として見なしていますか? 私たちは本当に修煉していますか?
ちょっとした個人的な浅い悟りですが、不適切な言葉があったら、お許しください。