善に対する認識
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年8月2日】7月11日、夕方6時の発正念をする過程で、色んな思いで感慨深くなりました。 6時半近くになったころには私の目からは涙があふれていたので、立ち上がって顔を洗い、その後この過程を記録しました。

 まず私の母について話しましょう。母はもう85歳の高齢ですが、私と同じ1996年に修煉を始めました。さまざまな複雑な原因で、母の目はほとんど見えなくなり、耳もほとんど聞こえなくなったため、修煉することが非常に困難でした。修煉の自信をなくしてしまって、一時期、主意識がよく混乱することもありました。

 母は今は何もできませんが、決して修煉を手放すつもりはないと私は理解しています。母は何年も前に暗記した『洪吟』の詩を今でもよく覚えているからです。

 しかし、私自身がよく修めておらず、母への助けは非常に限られていました。半年ものあいだ、自分が理解できている簡単な法理で、母を励ますことしかできていませんでした。少しでも多く話すと母の脳が耐えられなくなり、それ以上私に話させないのです。私は母のことをとても心配し、母に主意識を強くし、主意識に主導権を握らせるよう、また修煉を諦めてはいけない、師父が母のことを気にしていないなどと思ってはいけないと、時々注意することしかできませんでした。

 「師父はいつも母を見てくださっている」と母に話してきましたが、本当にその通りです。自信を失わないように、「すべてはきっと良くなり、おそらく目と耳は奇跡的に良くなるでしょう」と母を励ましました。師父の加持のもと、母の状態は今良くなってきています。

 今日、6時20分ころまで正念を発していたとき、突然母のことが頭に浮かびました。母に対する私の助けに、「何か足りないのでは」と感じました。「ああ、私は母に対して何の感情も持たず、いろんなことを母のせいにしていたんだ」と思いました。私はかつて、修煉がなければ母とあまり接触したくないと思っていました。他人に対する恨みが溜まりすぎると、それが怨恨に変わり、非情にもなり、時間が経つと悪に変わっていくことに気づきました。

 優しさがないため、私の母への助けも説教のようなもので、当然効果はあまりないのです。しかし、姉は母にとても優しいと思いました。姉の母に対する優しさは、見返りを求めないのでとても貴重です。

 まさにこれが私に欠けているものでした。母に対する自分の優しさは道徳心からのもので、それは条件や代価が伴います。私は、母の行動の中に、非常識なことがあるといつも思っているため、母に対する優しさは、内心からの真の優しさではないのです。母が過去に私にしたことはもう気にするべきではないと思いました。師父は理由なく起こることは何もなく、すべてに因果関係があるとおっしゃっているからです。

 そう思うと少し気持ちが楽になりました。この時、「母親に純善な気持ちをもって接したらいい!」という考えが浮かびました。この考えは私をとても楽にさせました。そして「学法グループの同修の不足に対しても、純粋な優しさで接したい」と思いました。

 また、「学法グループの同修を迫害する警察官や検察官に対しても、純善な心構えで接しなければならない」と思うようになりました。この時、奥深い空間にいる自分が強烈な震撼を受け、師父の偉大さを感じ、思わずこうつぶやきました。「師父、ありがとうございます! 師父が私に善を修め、誰に対しても純善で接するように、教えてくださっていることをはっきりと感じました!」と、もう涙が溢れ、声を出して泣きました。

 これは師父が私を啓発し、ミクロから純善で自分を正し、純善で自分を作り直すよう求めておられることに気づきました。師父、弟子はよく行いたいのです。師父の苦労を減らし、安心していただきたいのです。

 後悔の気持ちでいっぱいの私を救ってくださった師父に感謝いたします。すべての衆生に対する師父の恩恵に感謝いたします。

(編集責任:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/7/19/479815.html)
 
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