『西遊記』から見る神の一念と知恵
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年8月24日】最近、原作に最も近い『西遊記』の連環画(れんかんが)を読んで、とても感銘を受けました。神佛の考え方は人間とは全く異なり、神佛の思考は常人の観念や現実の仮想に縛られることはなく、大いなる智慧を持っているため、大いなる神通力を持ち、人間のこの空間に制約されることはありません。

 孫悟空が花果山で酔っ払った後、ぼんやりと黒白無常に冥府へ連れて行かれた時、寿命が尽きたと告げられます。人間の理屈で考えれば、それは死を意味しますよね?  しかし、彼は自分の状況を理解すると、その言葉を全く受け入れず、そんな概念すら持たずに目を見開いて、「私はすでに三界を出て、五行にも属していない。どうして地獄に拘束されることがあろうか?」と宣言しました。彼は自分に対して非常に強い自信を持っており、冥府も彼には手を出せなかったのです。

 私たち大法弟子は、法を得た後、師父によって地獄の名簿から除名され、三界の管轄外となりました。それならば、私たちは皆、こんなに強い信念と確信を持つことができるのでしょうか? 病業の仮想が激しく襲いかかってくる時や、危機に直面する時、静かに法を学び内に向かって探求する中で、自分は三界の管轄外であり、地獄の管轄外であることを固く信じているでしょうか? 自分が人間界にいる神であり、師を信じ法を信じることに全く揺るぎがないことを信じているでしょうか? もしそのような強い信念を持ち、人間の念を動かさなければ、それがまさにその境地に達していることになります。恐れや疑いの心が生じず、世間の理に縛られることもなくなります。そうなれば、魔難もただの苦しみの中で業を消し、内に修める過程で向上し昇華するためのものに過ぎなくなるのです。

 孫悟空が五荘観で鎮元大仙の人参果の木を倒して大きな災いを引き起こした時、何度も逃げようとしましたが、すべて失敗しました。彼が油鍋に投げ込まれそうになった時、石の獅子を自分の姿に変えて油鍋を壊し、道童に油が飛び散って怪我をさせてしまいました。そのため鎮元大仙は激怒し、唐僧を油で揚げようとします。この時、孫悟空は師父を救うため、すぐに自分の頑固で傲慢な性格を捨て、雲頭から降りて急いで鎮元大仙に謝罪しました(これは自我を捨てる過程です)。そして、人参果の木を治す方法を探すと言いました。

 人間の理で考えれば、人参果が地面に落ちれば消えてしまい、果樹は根こそぎ引き抜かれ、葉は枯れ枝は枯れてしまいますが、どうやって蘇らせることができるのでしょうか? しかし、孫悟空にはそのような思考の障害はなく、多くの人間の観念や制約にもとらわれていませんでした。災いの原因は木にあるのだから、その木を蘇らせればよいと考えました。彼は困難を恐れず、助けを求める中で何度も壁にぶつかりましたが、決してくじけることなく、最後には観音菩薩に出会い、「造化了、造化了」(大きな幸運だ)と言い、ついに観音菩薩の助けを得て果樹を蘇らせることができました。孫悟空はまた鎮元大仙と義兄弟の契りを結び、一つの悪縁を解消しました(この困難は孫悟空の嫉妬心と批判されることを嫌う心から生じたものです)。

 大法弟子の中には、不当に刑を言い渡された後に判決書が届いた人もいます。常人から見れば、この冤罪からは逃れられないように思えるでしょう。しかし、正念が強く、仮想に惑わされず、その迫害を認めず、常人の思考に動かされず、人間の理に縛られない同修たちがいます。そして、そのような人たちは、本当に早く釈放されることがあります。また、冤罪で監獄に送られても、それをただ別の場所で衆生を救う機会と捉え、他者のために心を砕き、慈悲をもって衆生に接し、多くの普段は接することが難しい人々に真相を伝え、彼らを救うことができた同修もいます。そして、邪悪な命令や指示には一切従わず、生死を恐れず、正念で悪を除去する姿は、まるで孫悟空が鉄扇公主の腹に入り込み、邪悪な巣窟をひっくり返して、邪悪を恐れさせて早く解放させたようなものでした。病院で末期癌と診断され、余命数日と言われた同修もいます。常人から見れば、その人はもう終わりだと考えるでしょう。しかし、その同修は正念を持ち、自分を常人だとは考えず、師を信じ法を信じ、これはただの仮想であり、師父が自分の体を清めてくださっているのだと確信し、極限まで行けば良いことになると考え、気にせず、いつも通りに行動し、生死に対する恐れや不安もありませんでした。その結果、何年も経った後も何の問題もありませんでした。彼の正念は三界の理を超越し、三界の生老病死の制約を受けなかったからです。

 大法弟子は人間界に身を置いていますが、思想は常人の理を超越し、正法の理、高い基準、神の念を用いて物事を処理し、人間の思惟や観念から脱却する必要があります。私たちは『常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理』(『精進要旨』〈警告の言葉〉)を取り除き、神の念と神通を束縛する人間の殻を脱ぎ捨てるためには、法をしっかりと学び、法に溶け込むことで智慧が大きく開かれるのです。正念神通を発揮させるためには、神の一面を復活させる必要があり、それによってより良く衆生を救い、邪悪を打ち倒し、誓約を果たすことができるのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/1/29/471470.html)
 
関連文章