【明慧日本2024年9月15日】大法弟子は神の道を歩む人であり、修煉の過程において、常に人間の考え方を変え、観念を取り除き、特に物事の表面から見る習慣や観念を取り除いています。
同修のAさんは旧勢力の迫害のため、家庭が貧しく、家賃を滞納することが多く、食費もないのです。しかし、彼女の夫は用事のたびにタクシーに乗るので、Aさんは反対し、そのことで夫とよく喧嘩しました。彼女は誰がどう判断しようと自分が正しいと思っていました。しかし夫は彼女の理屈を全く聞かず、依然として好きなようにやり続けました。彼女はバスに乗っても夫が乗ったタクシーに乗らないので、夫は彼女の髪の毛を掴んで車に引きずり込み、蹴ったり罵ったりしました。彼女は車の中で泣きながら夫を恨みましたが、怒りの声を出す勇気がなく、ずっと我慢し苦しんでいました。
ある時、彼らはまた用事で出かけようとした時に、過去に何度も演じたシーンがまた起きました。タクシーを降りる時、夫はバッグを忘れてしまいました。幸運にも運転手に電話をし、運転手はバッグを返してくれました。夫は運転手にお礼として、100元を渡しました。このことはAさんの心を強く揺さぶりました。彼女は苦しい生活を送り、節約していたのに、100元を失ってしまいました。一見、夫が悪いように見えますが、実は彼女自身が間違ったのかもしれません。
彼女は改めてこの事件を考え、師父の説法を思い出しました。「われわれは次のようなことも見てきました。人が生まれた時、ある特定の空間に、その人の一生涯の存在形式があります。つまり、その人の生命のどの時点で、何をすべきなのかは、すべてそこにあるのです。誰がその人の一生を段取りしたのでしょうか? いうまでもなく、もっと高い次元の生命体がそれを行なっているのです。例えば、常人社会において、彼が生まれたあと、家にも学校にも、あるいは大人になれば職場にも、みな彼の存在があり、彼の働きを通じて社会各方面とのつながりが結ばれます。つまり社会全体の構成はすべてこのように配置されているのです」(『轉法輪』)と説かれました。
彼女は「それなら夫の一生も段取りされていたのではないでしょうか。どの家庭に、どのタクシーに彼の存在がいるのか、家にお金がなくても神は夫がタクシーに乗るようにしてくださったのだから、きっとタクシー代を手配してくださるでしょうし、そのタクシー代を貯めて別のことに使うのなら、神も認めてくださるでしょう。だから、私は殴られ、叱られ、100元を失うことになる」と悟りました。当初の観念から一歩踏み出したことで、起きた物事の背後にある理由と感覚が変わりました。それ以来、夫がタクシーに乗った時、彼女はもう夫に腹を立てることなく、喜んでタクシーに乗りました。
ここで、この事件でAさんの修煉過程を振り返ってみましょう。彼女は「お金がないので節約しないといけない」という考え方に影響され、どこでも質素に暮らしていました。その考え方にそぐわないことに遭遇すると憤慨するようになり、多くの人心が生まれました。法に沿って物事を見ると、物事の因縁関係や神の按排が分かり、その時は人心や観念に執着しなくなります。
修煉は、人心を取り除く際は人心の中で人心を取り除くことに限定してはいけないことに気づきました。例えば今回のAさんの件で利益心、闘争心、怨恨心等多くの人心が現れ、これらの人心を表面的に取り除き続けても、なかなか取り除くことは難しいのです。また正念を発して滅するだけでは不可能です。人の観念にとらわれず、もっと高次元から物事を見なければなりません。私たちは法で執着心を取り除き、根本的に人から抜け出します。
神の領域で問題を見れば人心は生まれず、見えるのは佛理であり、宇宙の真相です。同時に旧勢力が按排した魔難で人心を取り除くという個人修煉を否定することです。師父が按排されたのは法を実証する中で人心を取り除き、旧勢力の按排を否定することなのです。