文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年9月30日】日々の生活の中で、特に家庭生活においては、家族との小さな衝突や些細な揉め事、物事に対処する際に、自分の言動、一念が「他人のためか、それとも自分のためか?」と考えてみると、一見すると日常的で何気ないものに思えますが、実はすべてがテストの一部なのです。神々は私たちの言動を注意深く見守り、真剣に記録し、評価しています。なぜなら、これが私たちの修煉過程だからです。
息子家族が帰省してきました。人が増えると、やる事も増えます。やる事が増えると、修煉者に対する試練も多くなります。試練が多くなると、果たしてどれだけうまく対応できているのか? 気にしなければ何も感じませんが、いざ意識してみると、自分の修煉が本当にめちゃくちゃであることに気づきました。この10数日間の些事(さじ:取るに足らないつまらないこと)を振り返るだけで、生活と修煉がまだまだかけ離れていること、自分の答えがほとんど0点であることに気づきました。痛感しつつ、今後の日常生活で精進し、内にむけて探す習慣を身につけ、一念一行において本当の修煉者になれるように、最近の些細な出来事を書き留めて、内に向けて探し、自己を奮い立たせたいと思います。
例一:一念の中にある恨みの心と顕示心
妻(同修)と一緒に、別の同修の家に行きました。同修は2台の扇風機をつけてくれました。彼女たちのために1台、そして私があるプロジェクトを進めていたため、私専用にもう1台をつけてくれました。正念を発する時間が近づき、彼女たちは先に立ち去りました。私は少し遅れてから出ようとしたのですが、彼女たちが扇風機を消さずに出て行ったことに気付き「どうしてこんなに慌てているんだ、扇風機も消さずに行ってしまった」と思いながら扇風機を消しました。そして「今度会った時に彼女たちに言おう」と考えました。しかしすぐに、彼女たちに言おうとする背後には恨みの心が隠れており、さらに自分を誇示しようとする心があることに気付きました。修煉者であれば、黙って平静を保つべきであり、ただ消せばそれで済むことだと悟ったのです。
例二:小さな出来事から見える「自分を誇示する心」
ある日、別の用事を済ませるついでに、新しい同修に本を届けに行きました。その際「もっと法を学び、よく読んでください」と簡単に交流しようと思っていました。しかし彼の家に行くと、ソファやテーブルの上に電気ポットが置かれており、彼がそれを修理していました。「どうしたの?」と聞くと、「スイッチが壊れたんです」とのこと。大法のプロジェクトで私はよく修理を担当しており、日常生活でも手先が器用で、彼の家のものも何度か修理したことがあります。私もいくつかの電気ポットを分解した経験があったので「それなら簡単だ」と言って、手を出しました。しかし、分解は簡単でも、元に戻すのは難しく、長い時間かけても直せませんでした。他の用事もあったため、妻が何度も促してきて、結局、修理もできずにその場を後にしました。さらに、本来伝えるべきだったことも言えませんでした。後になって「彼は自分で修理していたのに、私は勝手に手を出してしまった。これは自分を誇示しているのではないか? 自分ができることを見せつけ、裏にはいい評価を得たいという思いがあったのだ」と反省しました。
例三:物事を自分の視点で考える「自我」
妻はよく私のことを「自我が強すぎる」と言います。私はそれに納得がいかず「そんなレッテルを貼るな、例を挙げてくれ」と反論しました。すると妻は「何事もあなたの言う通りにしなければならない。私と相談しているように見えても、あなたの思い通りにならないと、延々と文句を言って、最終的にはあなたの思い通りにするじゃない?」と言いました。
その日、孫を連れて川辺の公園に行った時のことです。妻は「芝生の駐車スペースではなく、その手前で降ろして」と言いましたが、私は車を芝生の上に停めて彼女たちを降ろしました。妻は「芝生は汚いし、虫もいるから嫌だって言ってるのに」と言いました。
私はその時のことを振り返り、「確かにそうだ」と思いました。私は「駐車スペースから降りるのにたった2分のアイドリングが無駄だし、芝生の駐車スペースからほんの一歩で済む」と考えて、自分の都合で芝生の上に停めてしまいました。物事を自分の視点だけで考え、他人の立場に立って考えようとしない――これこそが「自我」ではないでしょうか。自我は自己中心的であり、師父は私たちに「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」。(『精進要旨』〈佛性に漏れなし〉)と教えています。このような小さな出来事こそが、私の心の中の「自我」の真実を映し出しているのです。実際に修煉を行わなければ、修煉者とは言えませんよね。
例四:人に指摘されることを嫌う心
妻が家事をしている間、私はキッチンで料理をしていました。料理をテーブルに運び、箸を取りに行こうとしたところ、妻が「箸を用意してないの?」と言いました。私はその瞬間、イライラして「一度に全部できるわけないだろう!」と怒ってしまいました。妻は「怒ってるの?」とすぐに気づきました。後で内に向けて探してみると、妻は特に何も悪いことを言っていないのに、なぜ怒ったのだろうと考えました。自分を振り返ると「自分はちゃんとやっているのに、なぜ他人が文句を言うのか」と感じていたことに気づきました。実際には、他人に指摘されることを嫌い、ただ認められたいという心があったのです。常人は完璧を求めますが、修煉者は円満を目指します。他人に指摘されることを恐れていては、どうやって物事をうまくこなせるでしょうか? これは大きな執着心ではないでしょうか?
例五:他人を静かに補い、調和させる心
妻が洗濯を終えた後、私が服を干す時に「服を振ってから干して。ポケットにティッシュが残っていたから、服にティッシュのかけらがついているのよ」と妻が言いました。私は不満を感じ「子供たちにポケットのティッシュをちゃんと出すように言ってよ。洗濯機がめちゃくちゃになるじゃないか」と文句を言いました。すると妻は穏やかに「彼らはわかっているわよ。私がポケットを確認し忘れたの。黙ってバランスをとればいいんじゃないの?」と言いました。「ちゃんとできなかったことは、ただ整えて自分で補えばいい。人に言ったり、責めたりするのは、自分が善ではない心と、目立ちたがりの心を持っているからなのよ」と教えてくれました。
例六:内省し、自分を変え、人のせいにしない
ここ10数日間、毎晩孫はパパやママにお風呂に入れてもらい、その後、彼らの部屋に連れて行かれていました。しかし、息子家族が帰る日の夜に、孫がお風呂から上がった後で、突然私たちの部屋に入って来て「おじいちゃん、おばあちゃんを探しているの」と言いました。しかし、息子夫婦は出発時間の10時を過ぎても孫を迎えに来ず、私は腹を立て「こんなに遅くなっても迎えに来ないなんて、私たちは夜12時に正念を発し、朝3時には煉功があるのに」と、怒りながら孫を抱き上げ、彼らの部屋に連れて行こうとしました。すると妻がすぐにドアの前に立ちはだかり「あなたのその怒りっぽい性格をどうにかできないの? 最後の夜なんだから、少しぐらい我慢できないの? それに、自分を内に向けて探さずにいつも他人のせいにしているわ。あなたがいつも孫をからかうから、孫が興奮してしまうんでしょう。孫をからかわずに、静かにさせていれば、つまらなくなってパパとママを探しに行くはずよ」と言いました。実際に、私たちが孫と遊ばなかったところ、2分も経たないうちに「ママを探す」と言いながら私たちの部屋を出て行きました。
日常生活のささいなことにも注意を払い、これらはすべてが修煉の道なので欠かしてはいけないのです。一歩一歩着実に向上するための階段なのです。それを試験と捉え、軽々しく試験を放棄したり、白紙の答案を出したりしてはいけません。毎回うまく試験に合格することを望むのではなく、修煉者として可能な限り一つ一つの試験を逃さないことを目指しています。
このことを実現するため、ささいな出来事を通して心を磨くためのメモを残し、修煉の過程をしっかり記録しています。どんな時も、自分が修煉者であることを忘れないよう、常に自分を奮い立たせていきたいと思います。