口を修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年12月25日】修煉する前、常人から見れば私は口が達者で、他人に教えたがる人間でした。しかし、修煉を始めてからも、口を修めることが全くできていないことに気付きました。それは具体的に、余計なことを言わずにはいられないという形で表れました。修煉を始めて26年が経ちますが、今なお口をしっかりと修めていません。

 最近、『轉法輪』を暗記する中で、師父が説かれた「口を修める」に関する教えを思い返しながら、深く反省しました。そして、自分が師父が求められる「口を修めること」の基準に達していないことを痛感しました。同修との間で無駄話をしたり、特に執着心に操られて他人に教えたがったり、自分をひけらかしたりすることが目立ちました。また、時には意識的に、あるいは無意識に噂話を広めたり、常人の是非を陰で話したりしてしまうこともありました。

 師父は『轉法輪』の「口を修める」という節で「一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません。人と人とのトラブルは非常に複雑なので、知らないうちに業を造ってしまったかも知れません」と説かれました。

 以前、この師父の教えを理解できず、「誰を対象に言ったわけでもなく、他人の悪口を言ったわけでもない。ただ『自分はこれをする』とか『この事はこうすべきだ』と言っただけで、無意識に人を傷つけることがあるのか?」と疑問に思っていました。そのため、師父の教えを重視せず、話す際にも言葉を慎むことができないままでした。特に普段から修煉に注意を払わず、言葉や行動が法に合っていないことが頻繁にありました。普段の私は自分の話術に自信を持ち、どこに行っても上手くやれると思っていましたが、修煉においてはその反対の結果を招いていました。この「話が上手」という特徴が修煉の中で多くの問題を引き起こし、同修たちを傷つけてしまったのです。

 自分が口が達者だと思っているためか、つい同修を指摘したがります。同修についてあれこれ評価するのが好きでした。まるで常人社会で見られる悪い習慣のように、誰かを批判し、その人もまた他人を批判する、といった具合です。表面上は修煉の話をしているようでも、実際には同修を本当に助けたいという思いではなく、感情を発散しているだけでした。これでは、大法弟子としての姿からかけ離れています。そんな見せびらかす心や人に教えたがる心を抱えて他人を論じれば、相手を傷つけないわけがありません。

 内に向かって自分を見つめ直すと、私にはまだ党文化が根深く残っていることに気付きました。特に、他人の陰口を叩くことがそうです。自分の修煉が他人より進んでいると思い込み、まるで自分だけが他人の問題を見抜けるかのように振る舞っていました。しかし、実際にはそうではありません。修煉者の本当の状態は、師父を除いて誰も見通すことはできません。仮に同修の執着が見えたとしても、それは師父の按排によるもので、双方が共に向上するためのものです。

 もし本当に同修を助けたいなら、誠意を持って直接本人に指摘すべきです。それが同修を助ける本当の方法です。他の同修と一緒になって陰口を叩くのは善ではなく、魔性が働いている証拠であり、口業を積む原因にもなります。同修の執着が目に入ったとしても、それはしばしば自分の執着を映し出しているにすぎません。それを認識して内に向かい、自分を修めれば、自分も向上できます。しかし、私は自分を修めず、そのような多くの向上の機会を逃してきました。

 ある日、娘と世間話をしているときのことです。娘が仕事について話し、上司についてどうこうと言ったのですが、本来なら修煉者としてその話にコメントすべきではありませんでした。ところが、自分が修煉者であることを忘れ、無意識に議論に加わってしまいました。陰で他人を論じるのは、修煉者として「口を修めていない」ことの表れです。修煉者は他人の陰口を叩くべきではありません。

 その日の夜、夕食後に左下の歯が激しく痛み始めました。我慢しながら心を静め、内に向かって原因を探してみると、昼間娘との会話で陰口を叩き、口を修められず、口を慎めなかった自分を見つけました。そのときちょうど発正念の時間になりました。発正念の中で、私は師父に心から謝罪し、同時に自分の空間場に存在する旧勢力のあらゆる邪悪な要素を徹底的に取り除く一念を発しました。すると、歯の痛みがすぐに消えました。

 しかし、前回の教訓が終わった後も、私は自分を厳しく律することができず、口を修められない原因を深く考えませんでした。その結果、また同じ失敗を繰り返してしまいました。最近、口を慎むことができず、再び左下の2本の歯が痛み始め、歯根から膿のようなものが出る状態になりました。これは自分がまた口を修めることを怠り、旧勢力に隙を与えてしまったからだと気付きました。

 自分を振り返ってみると、最近家に帰った際に、娘と話す中で、ある老人が家族とうまくいっていないとか、冷たい態度を取っていることについてあれこれ話題にしたことが原因だと分かりました。さらに、自分が「私はもっと寛容だ」と見せびらかしたり、娘の子どもの振る舞いについて指摘したり、婿が孫に与えた飲み物の量について口を出したりしていました。これこそ他人の陰口を叩いている行為そのものでした。

 口を修めることについては、師父が『轉法輪』でとても分かりやすく教えてくださっていますが、私は今でもそれを実践できていません。このことを思うと、師父に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 これからは、自分の口を修めることを心に決め、同時に党文化も修めていきます。最近は毎日明慧ネットで発表された記事の音声を聴き、党文化を修める方法を学んでいます。自分の心を内に向け、修めることに集中することで、初めて本当の向上が得られるのだと気付かされました。他人の陰口を叩くのを止め、口を修めることを怠ることがどれだけ自分や他人に害を与えるか、深く理解しました。

 口を修めることを実践するためには、まず「人の話をよく聴くこと」から始めるべきだと思います。真の修煉者であるなら、常に誠実で謙虚な態度で人に接し、他人の言葉に耳を傾けることが大切です。人の話を聴けない者に、口を修めることはできません。そして、口を修めないことで多くの業力を作り出してしまうのです。

 ある同修が「口を修めないということは、自分の修煉の道に穴を掘るようなものです。いずれ自分がその穴に落ちてしまいます」と言っていました。この言葉を聞いて、修煉がいかに厳粛なものであるかを改めて思いました。修煉とは、自分自身を修めること。私はこれから必ず口を修めていきます。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/20/486273.html
 
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