文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月5日】ここ数年、私はよく娘の家で生活するようになりました。娘は修煉をしておらず、常人のため、ここの環境は自分の家よりずっと複雑です。しかし、この複雑な環境は私の多くの人心を露呈させ、特に、家では気づかなかった自身の党文化の要素を見せてくれました。娘は本当に私の修煉を向上させてくれる存在だと感じています。
ある日、娘が携帯にメッセージを送ってきて、子供をあまりしつけすぎないようにと頼んできました。私は「そんなにしていない」と返信しましたが、娘はどうしても私がしすぎだと主張し、「いつも他人に干渉するということは、他人をしつけたいということ、それが『支配』だ」と言いました。私は娘の言葉に衝撃を受けました。これは悪い共産主義の九つの遺伝子の「支配」ではないでしょうか? これは明らかに私への師父からの啓示です。
この時点で、私は明慧ネットの同修の記事で、この問題について言及されていたことを思い出しました。その記事では、学習者の間に存在する党文化の「支配」の要素について語られていました。記事を読んだとき、自分も同じ問題を抱えていると感じましたが、それ以上修めませんでした。現在、師父は娘を通して、この悪い習慣をやめるべき時であることを、私に注意されました。こう考えた後、娘にすぐ「はい、ちょっと考えさせて、自分を振り返る必要があるかも」と返事をしました。娘は嬉しそうに「ママ、これができたら中国の高齢者の99%に勝てるよ」と返信しました。私はすぐにこの賞賛が試練であることに気づき、娘にこう返事しました。「修煉とは自分の言葉や行いを正すことであり、他人を正したり支配したりすることではありません」
自分自身を振り返ってみると、私はいつも自分の基準で他人の正誤や、どのように行動すべきかを判断するのを好んでいました。これは自分の視野の狭さの表れだと思います。なぜなら、人は皆、問題を異なる視点から見ているため、問題に対する理解も異なるからです。私は問題を自分の視点からしか見ておらず、全体的な視点、特に因縁関係から見ていないため、誰が正しいか間違っているか、誰が優れているか劣っているかを簡単に断言することはできません。しかし、頭の中では、しばしば他人の欠点が反映されます。自分の考えが正しいと主張し、他人を変えたいという強い願望を持っています。私はいつも他人が自分の考えに従い物事を行ってくれることを望み、それが他人のためであり、その人に対し責任があると考えていました。しかし、それは真に党文化の「支配」の現れであることに気づいていなかったのです。
特に同修の間で、この「支配」は極めて深刻です。他人に自分が正しいと思う観点に従い、物事を行わせようと躍起になっているため、勝手に他人の話をさえぎり、自分の意見を強調するために甲高い声で話し、強い態度でのぞみ、他人を圧倒したいという心の状態を表しています。これを思うと、本当に恥ずかしくなります。自分自身に対し嫌悪感さえ覚えます。どうして私はこういう人間なのか。これに気づいてから、私はこの党文化が本当にくだらないものであり、宇宙の真理に反するものだと感じ、心の底からそれを望まず、完全に排除したいと思いました。
それ以来、私の目にはそれほど多く他人の欠点が見えなくなり、他人のことで口を出す必要もなくなりました。自分の周りのすべてが平常で自然になり、心はとても平和になりました。ああ、今、分かりました。以前問題を引き起こしていたのは悪霊でした。それらの考えは私自身のものではなく、すべて悪霊によってもたらされ、脳に反映し私を妨害してきました。それは私がとても無教養で品位のない行動をとる原因になっていたのです。心の底からそういうものを望まないとき、自然と崩壊し、もう他人のことを口に出すことすら思いつかないのです。
また別の時ですが、娘と一緒にいたとき、4歳の孫に起こった面白い出来事を思い出しました。心から孫はとても賢くてかわいいと感じたので、孫の前でこの面白い出来事を娘に話しました。話が弾んできたときに、孫が口を尖らせて「ふん、おばあちゃんがぼくをからかっている」と訴えました。私は愕然とし、「おばあちゃんはあなたがかわいいと思っているのに、どうしてからかっていると言うの?」と聞きました。娘が私の気持ちを理解してくれることを願っていましたが、予想外に「ママは人を馬鹿にしているわよ」と言われました。その瞬間、バケツ一杯の冷水を浴びせられたような気分になりました。先ほどまでの楽しい気持ちが一気に冷めてしまい、とても恥ずかしくなりました。私は少し黙り、気持ちを整理しました。この時、やっと自分も人をからかっていることに気づきました。私は落ち着いて、内に向けて非を探しました。これが自分の普段よくある状態です。日々の会話、冗談の中に、どれほど無礼な言葉が混じっているでしょうか? 自分の発言によってどれほどの業力を生み出してきたか、心底気づいていませんでした。
そのあと、私は自分の部屋に戻り、法に照らし合わせて気づきました。師父が、私たちを俗世から切り離さず、常人社会での修煉を按排して下さったことを深く理解しました。これはまさに私たちが矛盾の中で自分を修めさせるためです。地に足を着け着実に修め、出会うすべての人との縁を大切にしなければなりません。
私もこのことから、人前であろうとなかろうと、他人の噂をし、からかってはいけないのです。それは党文化の「憎悪の増強」、「人間関係の分断」です。人々の関係をより矛盾に複雑にさせ、互いを疎遠にさせてしまうため、これを必ず修め、取り除かなければならないと悟りました。特に同修と一緒にいるときは、なおさらこの面をもっと重視し、互いの縁を大切にすべきです。ただ一緒にいて心地良く、あるいはよく修めている人と好んで一緒にいたいという理由ではいけません。それは修煉者の正念ではありません。人を救う必要性と法を実証する必要性により、学習と修煉において、すべての同修と比べられる部分があると思います。残されたわずかな時間で、自分をよく修めるために全力を尽くします。
上記はあくまでも個人的な体験です、不足があればご指摘ください。