『九評』を読んで「怨恨」と「恐れ」を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年12月11日】今年は『共産党についての九つの論評』(『九評』)の発表から20周年という節目の年です。この約100年の間、中国では多くの人々が共産党の支配下で迫害を受け、命を落とし、苦しめられてきました。一般市民も生きる希望や信念を奪われるほどの弾圧にさらされてきました。『九評』の発表は、まさに共産主義を象徴する邪悪な勢力にとどめを刺すものです。それ以降、大紀元はさらにこの勢力の本質や陰謀、そしてその最終的な目的を明らかにするために、多くの書籍や評論記事を通じて情報を発信し続けています。これらは、私たちがその本質を見極めるための重要な指針となっています。

 『九評』に対する認識の変化

 法輪功を修煉し始めた当初、私は体に抱えていた病気がすべて消え、生命の本当の意味を理解しました。修煉する前の苦しみは言葉では言い尽くせませんが、修煉後の感謝と喜びは、どんな言葉を使っても表現できません。

 その頃、『九評』が発表されたばかりで、多くの人々が「あの本は共産党に反対するものだ」と言っていました。私はその時こう考えました。「反対なら反対でいい。師父が私を救ってくださったのだから、師父が認められたことは私がやるべきことだ」と。そして、いくつかの『九評』の本や資料を配布しました。

 後に、邪悪が私を違法に取り調べた際、「お前は反共産党の資料を配布している、つまり反党だ」と言われました。私はこう答えました。「私は『共産党についての九つの論評』を配ったのであって、『共産党に反する九つの論評』を配ったのではありません!」。なぜなら、『九評』はあくまで理性的な評論であり、闘争や対立を煽るものではないからです。私はこの書籍を読むことも広めることも、堂々とした正義の行いだと感じています。

 しかし、当時の私は、自分自身の中にも深刻な党文化の影響が残っていることに気付いていませんでした。

 『九評』を再読して得た啓発

 『九評』を再び読み進める中で、邪党の「九つの遺伝子」を改めて知り、驚かされました。もし『九評』を読んでいなければ、私たちは邪悪な勢力がさまざまな手法を使って私たちを欺き、騙し、操り、陥れ、恐怖を与えてきたことに気付かなかったでしょう。そして、それにより自分たちの思考までもが知らず知らずのうちに歪められてしまっていたのです。

 日常生活の中では、次のような形で表れています。言うこととやることが矛盾していたり、話を大げさにしたり、事実をねじ曲げたり、他人を責めることが多かったり、焦りやすく忍耐力が欠けていたり、自分に甘く、他人には厳しい態度を取り、小さな派閥を作ったり、人を妬んだり、自分の気に入らないものには必要以上に怒りを抱えたりします。さらに、子どもを教育する時でさえ命令口調で叱りつけ、感情的になることもありました。しかし、よく考えてみると、これは「恨み」という感情を通じて「愛」を表現するという矛盾をはらんでいます。

 私たちの子どもたちがこのような環境で育つと、親から受けた「恨み」をそのまま他の人々に伝え、同じように党文化に満ちた思考や行動を採るようになるのです。

 『九評』を読む中で、私が最も深く考えさせられたのは、自分の中にある「怨恨」と「恐れ」の感情でした。思い返すと、子どもの頃に親と口論になった時、「いっそのことお互い消えてしまえばいい」とまで考えたことがありました。しかし、しばらくすると何事もなかったように親が愛おしく感じられるのです。結婚後も夫との関係は基本的に良好でしたが、けんかになると「もう徹底的にやり合おう」というような、極端な考えが浮かびました。幸い、お互い修煉者で、常に法理で自分たちを律しているため、無分別な争いには発展しませんでしたが、普段は感情のわだかまりがない夫婦なのに、どうしてあそこまで「極端な考え」に至るのかと冷静に考えると怖くなります。

 修煉を始めてからも、同修や家族が精進していないと感じたり、何かを指摘する際には、慈悲深く穏やかに話すのではなく、きつく非難するような態度をとっていました。修煉しているにも関わらず、怨恨の感情を抑えきれないどころか、むしろ強くなっているように感じることさえありました。さらに滑稽だったのは、ある人に対する怒りを、別の何も関係のない人にぶつけてしまうことです。機嫌が悪いと、周囲の人たちは皆、私の感情のはけ口にされてしまいました。家族も例外ではなく、子どもまでもがその犠牲者でした。

 同じような行動が親しい同修たちの中にも見て取れました。そのたびに私は彼らを指摘し、時には責めましたが、彼らの行動はあまり変わらず、少し改善したかと思えばすぐに元に戻ってしまいます。彼らがどうしてこんなにも「怨恨」に振り回され、理性的になれないのか、法を学んでいるはずなのに、と不思議に思っていました。しかし、『九評』を読んでようやくその原因がわかりました。

 私は幼い頃から臆病で、さまざまなものに恐れを抱き、同時にそれらに対する怨恨の気持ちも抱いていました。恐れるものに対して憎む気持ちが湧いてきたのです。邪悪に迫害された後は、「もう恐れなんてない」と感じていましたが、自分自身を深く掘り下げてみると、まだ「恐れ」が心の奥に残っていることに気付きました。それは、邪悪による再度の迫害を恐れたり、家族や生活環境を失うことへの不安が邪党や司法機関への怨恨に繋がっていることに気付きました。

 この「恐れから来る憎しみ」や「憎しみから来る恐れ」、さらには「愛から来る憎しみ」という感情は、すべて邪党が私たちに植え付けた歪んだ思想です。邪党はこれまでのさまざまな迫害運動や批判闘争、群衆を扇動する手段を通じて、私たちの中に「憎しみ」を注ぎ込みました。その結果、ちょっとしたことでも感情を爆発させ、激しく憎むような性格が形成されてしまったのです。

 今回、『九評』発表20周年を迎えるにあたり、自分をさらに深く掘り下げた結果、自分がこれまで「恐れ」と「憎しみ」という二つの感情を軽視していたことに気付きました。『九評』を読むことで、これらの感情についての理解がさらに深まり、今後これらにもっと注意を払う必要があると強く感じました。

 そのため、『九評』を読んだ後は、自分が得た気づきや収穫を言葉にして表現し、他の人々に伝えるべきだと考えます。邪悪の手口を明らかにし、その「憎しみ」と「恐れ」の根源を解体し、自分の思想に残る毒素を取り除くことが重要です。それによって、自分自身から邪党の影響を完全に取り除き、さらに多くの人々が邪党の本質を理解し、救われる手助けができるのです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/29/485498.html
 
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