(明慧日本)黒竜江省肇東(ちょうとう)市の法輪功修煉者・于麗波さん(38)は8年にわたり不当に監禁されて迫害を受けた後、2011年10月31日、無実の罪が晴れないままこの世を去った。于さんは両目を丸くあけていて、口元には血痕があり、口をあけていたが、その苦しい表情は彼女が遭遇したすべてを訴えていた。中共の法輪功に対する迫害がこの家庭にもたらした苦しみは、言葉では語り尽くせない。
于さんの夫も法輪功を修煉しているが、不当に9年の判決を言い渡され、釈放されて約5カ月しか経ってない。于さんの子供はまだ12歳であり、生まれる前から、父親が無実の罪で刑務所に入れられ、1歳に満たないときに、母親も同じく刑務所に入れられたため、ずっと祖父母と一緒に生活していた。しかし、70歳を過ぎた祖父は2009年の夏に亡くなった。当時、母親の于さんはまだ釈放されておらず、数年前に片脚に怪我をした70歳の祖母は、脚からまだ鋼板を取り出していなかったため、怪我した脚で、孫と一緒に、嫁が帰ってくるのを待ち望んでいた。
2011年5月1日に一家はやっと集まることができた。9年間不当に監禁されて迫害を受けた于さんの夫は、帰宅したとき、40歳をすぎたばかりなのに、髪の毛が真っ白になっていた。しかし、一家が集まって数ヵ月後、于さんは無実の罪が晴れないままこの世を去って行った。
于さんは1973年に佳木斯(ジャムス)市近くの集賢県太平鎮の一般の農民家庭で生まれた。ハルビン医学大学を卒業してから、肇東市のある製薬工場で保管員として働いていた。仕事は真面目で、生活はまめに質素で、優秀な才女だった。
于さんは2001年6月に法輪功の資料を配布した際に、悪人に尾行され、奮闘派出所に密告された。現場に着いた警官は于さんを殴ったり蹴ったりし、髪の毛を引っ張ったりした。現場にいた民衆は、警官がこれほど理性を失って、女性を酷く殴っているのを見て、とても憤慨していた。不当に監禁されている間、警官は于さんをトラの椅子に二昼夜座らせ、また鉄棒で太ももを曲げた。不法に尋問するとき警官は交代で于さんを殴っていた。当時、于さんは見ていられないほど悲惨に迫害され、太ももはとてもひどく腫れ、歩くこともできなかった。
于さんは裁判所により不当に8年の刑を言い渡され、2001年年末に黒竜江省女子刑務所に送られて、心身ともに極めて大きく迫害された。2007年8月21日、于さんの舅と息子は女子刑務所に面会に訪れた。法輪功修煉を放棄しないということが理由で、于さんは厳しく管理されていて、面会は一ヶ月に一回しかできなかった。当時、于さんは骨と皮しか残らないほど痩せこけていて、またお腹がふくらんでいた。8歳の息子はすでに母を見分けることができないほど容貌が変わっていた。于さんの舅はこの光景を目にして、刀で心をえぐられるように辛くなった。3日後、于さんの舅と于さんの両親は再び女子刑務所を訪れ、急病のための一時出所手続きを申請しようとした。刑務所側は于さんに会わせないばかりか、「あなたたちはどうやって知ったのか(後になって于さんから聞いて分かったが、当時于さんは大腸が癒着していて、この場合は刑務所の外の病院に行って診断を受けないといけなかったという)」と聞いてきた。于さんの舅はどうしても急病のための一時出所の手続きをしたいと訴えた。しかし、警官は「大丈夫だ、すでに協力してくれて治療したから、命の危険がなくなった」とごまかした。黒竜江省女子刑務所で8年間不当に監禁された後、于さんは2009年6月26日の午後、転々とされやっと帰宅することができた。于さんを迎えに行った家族は肇東の610弁公室、及び裁判所などを訪れ、紹介状の作成を依頼した際、あれこれと非難された。また610弁公室は何人かに指示し、于さんの家族について刑務所にまで行った。6月27日、610弁公室メンバーらと地方の役人は于さんの生活に関心を寄せるという名目で、交替で于さんを監視していた。8年間、于さんの息子と舅、姑は困難な日々を過ごしていた。母が帰宅した時に監視人らがついており、怯えた幼い子供の心に見えない傷を与えた。
于さんは8年間不当に監禁される中で、極めて深刻に迫害され、帰宅してから身体は異常に痩せていて、精神的に極めて恐怖感を覚えていた。しかし、中共の610弁公室の警官らは彼女を手放すことなく、2011年の夏にも嫌がらせに来た。于さんは恐怖と圧力の中で、身体の状況がさらに悪化し、2011年10月31日に無実の罪が晴れないままこの世を去った。享年39歳。