間違った道を歩んでからの考えと認識
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 明慧日本2年前、修煉を緩め人心を放任したため、男女の関係で大きな間違いを犯してしまいました。目覚めてから、自分が犯した間違いを告白しようと思いましたが、悔い改めようという決心を固めることができず、どこから書いたらよいかも分からず、今まで躊躇して書きませんでした。しかし今日書き出すことを決め、決心を固めました。それから、私は今までこの問題に正念で対処していなかったことが分かりました。振り返ってみると修煉の中で精進していた時期もありましたが、ここまで落ちたのは突然というわけではありません。

 教訓の一つは集団学法は非常に重要だということです。最近師父も集団学法に参加するよう悟らせてくださいました。集団で学法する環境が整っていれば、集団学法に参加することについて厳しく要求すべきです。一日欠席しても別に気にしなければ、二回も三回も欠席することが続いて、後は無神経になり、参加しなくなります。

 教訓の二つは、学法の前に自分の身体を正した方が良いということです。以前学法をするときいつも心を静めて学ぶことができませんでした。パソコン関係の仕事をしているためパソコンで学法をすることが多いのですが、学法する中で、執着に動かされマウスでほかの内容をクリックしたり、学法するとき眠くなることも結構ありました。このように師を敬わず法を敬わないことで、学法も心に届かず、毎日の学法が単なる形式なってしまい、しかも良い作用を果たすことができませんでした。

 教訓の三つは自分の一つ一つの念に注意すべきだということです。振り返ってみると自分は一つ一つの念をしっかり抑えず、次第に執着を拡大させていました。日ごろ法の上で問題を考えず、同修がよく行なってないという交流体験を聞いて、自分は同修よりよく行なっていると思ったりしました。この念はすでに法の上になく、非常に危険でした。正念が満ちるとき悪い念は大脳の中で居場所がなく、すぐ消えるものですが、自分に対する要求を緩めたため、思想の中で執着の居場所を拡大させてしまいました。

 もうひとつは、決まった時間に発正念をしなかったことです。夜12時の発正念は夜遅くて妻に迷惑かけないように気をつけ、彼女が嫌がるときは発正念をしなかったことが多かったのです。ほかの時間帯ではまたほかの事で見逃し、邪悪に乗じられる隙を提供してしまいました。

 自分を緩めた原因、間違いを犯した原因をに向て探す中で、これは単なる色欲の問題だけではないことがわかりました。私は生命の中の私の観念を修めきれませんでした。自分は大法の修煉をやっているから、保険に加入したように何の心配もないと、自分に対する要求を緩めました。私の一念は必ず修めるべきのもので、この問題に十分気をつけるべきです。間違った道を歩んだら引き返すことは本当に難しく、大き間違いであれば、なおさら難しいのです。本当に難しく圧力が大きいと感じているとき、師父は法を多くしっかり学ぶよう悟らせてくださいました。

 教訓は悲痛なことで、修煉の機会は一回しかありません少しでも自分を緩めれば、明日は正念を失うかもしれず、自分の誓った誓約を果たせなくなるかもしれません。師父の要求のとおりに行わず、無量の救うべき衆生を台無しにしてしまったら、永遠に補うことができない大間違いを犯すことになります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/23/249733.html)     更新日:2011年11月26日
 
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