神が好きな生命になろう
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文/敬紙

 【明慧日本2012221日】ある時、のような夢を見て目覚めたことがあります。夢の中、私は仕事配分のことでとても強い嫉妬心が引き起こしていました。目覚めてから、ベッドの上に座ると、しばらく喋ることができませんでした。この嫉妬心はすでに、とても長い間私に伴っていて、私も思想の中で絶えず取り除き、排斥し、これは絶対あってはならない執着であると分かっていました。しかし、夢の中で私はそれほど強い嫉妬心を持っていて、私は自分の修煉に対してとても失望しました。いつになったら、これを取り除くことができるか、私は本当にとてもこの心が嫌いでした。

 常人のなかで仕事をする、いつもできない状態からできるようになり、よくわからない状態から熟練の状態になります。新人の時、誰をも尊重することができますが、少しずつできるようになった、私は誇らしくなりはじめ、表面上まだ言いふらすことはありませんが、心の中で既に他人と自分を比較し始め、この人はできる、あの人はできないと考え始めます。時間が長くなるにつれて、自分の仕事がますます順調になり、能力もますます強くなった時、誇らしいと思う心はまた膨らみ始め、人を見下すようにより、他人の意見を聞き入れなかったり、人を尊重しなかったり、他人が自分より少しも強いと、不平がおさまりません。長くなると、取り除きにくい嫉妬心が形成されます。その表れに対して自分さえ苦しく感じますが、ま取り除くことができず、取り除きたいですが、取り除けないの苦しみは本当に苦しいことでした。

 振り返ってみると、私は毎回仕事を変えるたびに、こういう過程を経てきました。謙虚から誇らしい状態へ、そして嫉妬するようになります。数年間ずっとこの悪循環から抜け出すことができず、ひいてはこの思惟を同修との付き合いのところまで持ち込みました。なぜなら、修煉する時間が長くなると、自分が他人より法に対する認識がよく出来ている思い、言葉の中に他人を軽視する口ぶりも入り、場合によって、同修が法理を悟ったことにより、行が変わったのを目にすると、排斥の態度を取りました。実際、これはすでに嫉妬の表れであり、時間が長くなると、ひいては同修と付き合いたくなくなり、保守的で進取の精神がなくなって、向上できないのに、やはり自分がよく修煉できている、高くまで修煉できていると思いました。このような現象は表面的には嫉妬といえますが、実際は自分の心より魔が生じることの現れでした。私はこの問題の厳重性を認識していましたが、取り除くことができず、これこそ私が最も悩んでいたことでした。

 師父最近発表された経文『心より魔が生ずることに注意を』を読み、下記の理が分かるようになりました。神は謙虚な生命がすきであること。イエスは自分を召使いと呼び、時々刻々神を賛美し、恭しく神の按配に従っていました。再び自分の悪循環を見てみると、謙虚な人になることを知らず、常人の中での資格と経歴、才能を人から称賛される基準とみなし、これは嫉妬心が生じる土壌であることに思いつかず、能力をもって人を判断することこそ、間違っていました。

 自分の心の変化過程を振り返ってみると、自分がも知らないは人に対して、善と真心を示し、ひいては批判されても謙虚にそれを受け入れていて、表面的に「真忍」を守っていました。誇らしい心が生じたとき、現した善は偽善でした。表面的には誰かを見下すことはなかったですが、心では自分を他人と比較していて、言葉と心での考えは異なり、言葉は優しかったのですが、心では悪念が生じていました。更に発展していくと、嫉妬心が形成され、善はすでになくなり、言葉はすべて偽りになり、自分の本当の経験を他人と分か合おうとせず、他人と分かち合うのは全て偽の経験であり、そしたら、忍のかけらもなくなり、心では他人の業績に対して嫉妬し、恨みます。これはまさに一歩ずつ「真忍」から離れる過程ではないでしょうか。これこそ少しずつ自分の心より魔が生じることです。私が宇宙の特性から背離したとき、私の生活は不調になり、私は修煉において魔難も多かったです。それは神がすでに私を助けなくなり、私を導いていたのは業力であり、神ではなかったからです。業力がもたらした闘争心、顕示心はますます私を困惑させ、助けをもらえないと思い、ひいては修煉に対して正しい信念を失わせました。これこそ最も恐ろしいことです。

 それでは、どうたらこの悪循環から飛び出すことができるでしょうか。私が見たところ、終始謙虚な状態を保つべきです。師父は「謙虚こそ事をうまく成し遂げさせるのです」(『転法輪(巻二)』「いかに輔導するか」)と説かれました。まず、謙虚は自分を神と同じ側に立たせます。なぜなら、神は謙虚な生命が好きだからです。私は謙虚こそ忍の一層の現れであり、それが順境だろう逆境だろうに関わらず、また位が高いか、卑しいかに関わらず、また能力が高いか、低いかに関わらず、謙虚は私たち「忍」から離れないようにさせます。それから、謙虚は人に良好な心理状態を保たせ、闘争しないようにさせます。『転法輪』の中で「闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです」と説かれています。闘争心こそ、常人のなかで、名利情の執着により引き起こされたのではないでしょうか。名なり、利なり、ひいては情なり、すべて人と争ったり、闘ったりさせ、誰も他人に服せず、これこそ、悪で。これはまさに「天と戦い、地と闘う」党文化ではないでしょうか。全て馬鹿にして、神佛を蔑視します。しかし、私たち謙虚になったとき、誰に対しても謙虚になり、自分が人よりも一段抜きんでていると思う傲慢な態度がなくなり、人に対して自ずと温和で善良になります。また、修煉者は自己に満足することを恐れます。人の容量は限られており、修煉してある境地まで至ると、容量を拡大しない限り向上できません。一旦自己満足の状態になると、心性を向上することができず、境地も昇華できません。なぜなら、自分の不足が見えないからです。もし謙虚になれば、他人に対して、自分に対して、誠意をもって対処することができれば、心性の容量は自ずと昇華し、向上します。

 以上、個人の僅かな認識です。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/2/2/252602.html)     更新日:2012年2月21日
 
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