しっかり行わないと主役を務められない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年9月8日】法を正すことはすでに今日のところまでやってきました。私たちは前へ一歩、一歩と前進し、衆生済度をしっかりと行い、自らの一念、一言、一動に気を付け、法に背かぬようにしなければいけません。法に従って真に修煉してこそ、やっと主役を務めることができ、正しい道を歩むことができます。しかし、多くの場合、私たちは大法の仕事をすることを修煉そのものだと勘違いし、普段の生活や職場で、あるいは大法の仕事をするとき、自身の修煉を緩めてしまい、常人のようになり、内に向けて探さなくなります。その結果、いままでやってきたプロジェクトが思うように進まなくなり、これまで作り上げた環境も破壊されてしまいました。

 この間、私の地元で多くの同修が強制連行され、裁判に掛けられそうになり、私たちは弁護士数人を雇い、それらの同修を救おうとしました。弁護士は、始めのうちは法廷で無罪弁護していましたが、後に、裁判そのこと自体を解体させることができたのです。その過程で、私たちは出発点をあくまでも衆生を救い済度することにしたのですが、法理上において認識を高めることが必要なところもありました。例えば…

 一、 全体で向上し、正念を持って参加することがとても重要

 始めは、多くの同修が人を救い済度することを出発点に置きました。正義感の強い弁護士を雇うことは師父に認められており、主導権を握り弁護士が補う立場なのは大法弟子であるという認識で皆が一致しました。同修たちはこの件をとても重視しており、強い正念を持っていました。この時は、一定の効果を得られ、裁判に掛けられた同修の家族までも、「法輪大法は素晴らしい」と叫び、弁護士の見事な弁護を称賛したのです。

  しかしその後、一部の同修が少しずつ緩め始めました。裁判のことに没頭するあまり、学法が疎かになり、着実に修煉しなくなりました。それらの同修の心性は向上できません。その上、法理を十分に理解していないため、法に沿っていない行いが多く見られました。これらを目にしたとき、ある同修は、助け合い、共に高め合い、あるいは何にも言わずに不足を補い慈悲心を持って対処するのではなく、このプロジェクトに参加しなくなってしまいました。またある同修は裏で他の同修の不足点を絶えず指摘し、またある同修は発正念で援助することさえしなくなったのです。その結果、このプロジェクトに参加し続ける同修は最後には2,3人だけになりました。この2,3人の同修だけで弁護士とのやりとりや、公安部門への真相伝えなどの全てをこなさなければならず、他の同修の助けがとても必要だったのですが、助けてくれる同修はいませんでした。

 個人の認識ですが、裁判に掛けられそうになった同修を助けることはすなわち、警察、検察、司法部門の人々と現地の人達を救い済度することです。手紙を送り、電話を掛け、進展状況に応じて絶えず報道したり、また弁護士と一緒に関係部門に釈放を求めたり、被害者の家族に真相を伝えたりすることで、中国共産党に騙された人々を救い済度できます。しかし、これらのことは多くの同修が協調し合って行う必要があります。もし参加する同修が数人しかいないのであれば、当事者はどれほど忙しいでしょうか。彼らは仕事に追われる毎日をおくるようになり、学法と個人の修煉も追いつかず、常人が大法の仕事を行う状態に陥ってしまいました。当然ながら効果は良いわけがありません。結局その時、この弁護士数人は法廷で1回無罪弁護しただけで、他の数件の弁護は形式的なやり方で済ませました。当然ながら同修は釈放されることもなく、警察、検察、司法部門の人々を救い済度することもできませんでした。

 後に学法を通じて、私たちの目的は無罪弁護するためではなく、人を救い済度するためにあり、この迫害を認めてはいけません。根本から旧勢力のすべての按排を否定すべきだということで皆の認識が一致しました。

 もし、私たちが一体にならなければ、大法弟子が主役であるという役目を果たすことができないだけでなく、邪悪に隙を乗じられ、弁護士は形式に走り、責任を全うしなくなってしまいます。このようにして大法の資源は無駄になり、忘れがたい教訓だけが残されました。

 二、 協調し合うことがよくできなければ、損失が甚大

 学法と同修との交流を通じて、私たちは裁判を通して迫害を解体すべきで、大法弟子の修煉は、師父以外に、その生命の面倒を見る権利がないという認識で一致しました。それで、私たちは邪悪に協力せず、大法弟子の利益を保護することができる勇気のある人権弁護士を雇いました。

 あるとき、私たちはある弁護士に開廷に協力しないようにと要求すると、弁護士は開廷する際、裁判官に検察官などの関係者が回避するよう求め、即座に休廷しました。しかし当時、一体となっていなかった私たちは迫害の暴露に力が不足で、形式に流され、衆生を救い済度する効果を得られませんでした。その弁護士が一回だけ訪れ、同修は結局秘密裡に判決を言い渡されました。

 またあるとき、ある地区の同修数人が強制連行されました。交流した結果、現地の同修は弁護士3人を雇いました。弁護士は法廷でこの違法行為に異議を唱えると、法廷で殴られました。しかし、同修達はこの出来事から法理を悟らず、助け合おうとする人がとても少なく、法廷で弁護士を加持する人すらいなかったのです。自分たちが雇った弁護士が法廷で乱暴に殴られたのに、関心を持つ同修すらいませんでした。その上、このことを世間に暴露することもありませんでした。邪悪を震撼させることもできず、人々も救い済度されることもなく、被害者の家族(常人)も自信を無くしました。私たちは私心と恐怖心を取り除かなかったため、やるべきこともしっかりと行うこともできず、弁護士を孤立させてしまいました。彼は殴られ、私たちは彼をがっかりさせてしまいました。

 私たちが恐怖心、依頼心などの執着を取り除かず、心性を向上することもなく、やり方も法に沿っていないままであれば、正義感のある弁護士を雇うことができたとしても、主導権を弁護士に渡し、単に常人である弁護士にやらせてしまうのであれば、弁護士がいくら努力しても良い結果が得られません。それどころか、中共当局にも迫害されやすいのです。

 私達は個人の修煉をしっかりと行えば、慈悲の力はこの迫害を解体することができ、旧勢力の按排を取り除くことができます。私たちは弁護士との関係を正しく認識する必要があります。弁護士は私たちに協調する立場にあるのに、私たちは往々に弁護士を主役にし、弁護士を頼りにしがちです。大法弟子の全体の力が発揮できないため、邪悪に隙に乗じられます。この過程で私たちは法において共に心性を向上する必要があり、直接に関わっていない同修でも正念を持って見守るべきです。こうすれば、裁判を通しての迫害は全員の正念の力によって解体されることができ、多くの衆生を救い済度することもでき、良い環境を作り出すこともできます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/7/22/312783.html)
 
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