修煉は甘い味がする
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2016年11月22日】

 一、「自我」という執着心を修める

 昨年のある時期から、突然「根本的な執着心を取り除くと皆言いますが、私の根本的な執着は一体何なのか?」という疑問が頭の中に浮かび上がりました。

 修煉を始めたばかりの頃、家にいる時は、母がよく私に法を読み聞かせてくれました。大法が素晴らしいということは知っているし、奇跡が起きることも信じています。大法が誹謗中傷されている時期ではありましたが、私はわずかな抵抗も感じませんでした。しかしながら、やはり「遊びたい」という心理を抑えることはできませんでした。

 初めて座禅した時すでに30分続けることができましたが、初めて『轉法輪』を読んだときは、大法を信じないという念が出てきたのです。「これは良くない考えなのか? 認めない方がいいのか?」と母に尋ねたところ、「悟性がいいね」と褒められました。しかし、私は、悟ることはできたのに、実際、行動に移すことができないほうがもっと最低なことではないかと思いました。

 2004年に偶然起きたことにより、私は本格的に修煉の道に入りました。あのころを思い返せば、修煉することに対して自分は何かを求めたり、何かの見返りが欲しいなどとは思ったことは一度もありません。それでは、私の根本的な執着心とは一体何でしょうか。

 これまでの修煉の道のりを振り返ってみれば、絶えず執着心を取り除いてはいるものの、その度にまた現れてきて、時には、なかなか取り除くことのできない頑固な執着心も襲いかかってきました。これらの事を考えれば考えるほど「このままでは圓満成就できるのか」 「しっかり修煉できるのか」と、どんどん怖くなってきました。

 深く隠蔽された根本的な執着心があることに気づいた時、早く見つけられるよう師父が按排してくださいました。明慧文章を読むと、よく自我や利己心に関する文章を目にします。また、生活の中でも自我が強く、自分を守るという利益の心や他人に言われたくないという心が現れてきます。

 自分自身にこれほど多くの「私」(し)があることを知った時、ふと「これは後天的に形成された偽の自分だ。心を静めて真・善・忍の法理でしっかりと分別しなければならない」ということに気づきました。自らを明白に認識したところ、この利己心だらけの私は本当の自分ではないということを認識しました。

 真に次元を高めるには、私利私欲の心を取り除かなければなりません。私は新宇宙の生命なのに、旧宇宙最大の執着を持っていては圓満成就できるはずがありません! 師父と共に家に帰るどころか、衆生を救うこともできないでしょう。

 師父の教えにより、はっきりと新宇宙の基準を認識することができ、また、自分の修煉が遅く、いつまでも根本的な執着心を取り除くことができない原因が、まさに「私」であると悟りました。それは常に奥深く隠れながら私をどんどん下へと引きずっていき、少し取り除いたと思えば、まだぶり返してきました。もちろん、これには執着心を1層ずつ取り除くという要因もありますが、ただし、根本的な原因を見つけてそれを取り除かない限りは何の解決にもならないのです。

 また、いつまで経っても取り除いていないこの「私」が観念にも影響し、気づけばよく常人の視点で物事を見ていました。修煉者としては、しっかり修煉していて、正念も強い同修を羨ましく思うべきなのに、私がよく耳にするのは、誰々の能力が強かったり、誰々が家を買ったり、誰々が経済的に恵まれたり、その他にも、ビザが下りたり、政府の保護を受けられたりといった様な事ばかりです。これでは、口先では自分の事を修煉者と言っているものの、実際はまだ常人の名誉や利益、情を羨ましがっているのではないでしょうか。

 師父はこのように説かれました。「常人の心があまりにも重い大法弟子よ、私が皆さんを導き歩んでいるのは神の道ですが、一部の学習者はどうしても常人の観念を固守しています」[1]。また、「常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です」[2]とも説かれました。「常人の心」を放下できなければ、この偽の自分を修めることができず、圓満成就もできません。そして、「私」を取り除かなければ、新宇宙は私を受け入れてはくれないのです。なぜなら、24カラットの純金に自分が入ると汚染されるからです。

 今のままではいけません。あまりにも危険すぎます! ここまで悟ると、思想が一気に軽くなったと感じました。無意識に自らの損得を図るような雑念がなくなり、名誉や利益、そして、情に対する執着も薄くなったのが分かります。まるで、それらと真の自分の間を透明な何かに隔離されているような気がして、それを見ることはできるけれど、心を動かされることはなくなりました。

 普段、朝の5時ごろには新聞配達の仕事をしており、冷たい風が顔に当たって痛みさえ感じましたが、今では、冷たい風がまるで私の頬を軽くなでているようで、痛みどころか、気持ちがよいとさえ感じました。また、知らない人にも親切にできます。

 自らの根本的な執着に気づかせてくださり、この「私」という物質を取り除いてくださった師父に感謝します! 今では、修煉により常に心が幸せに満ち溢れています。

 二、常人の情から抜け出す

 名誉、利益、そして、情の三つの中で私が最も執着するものは情です。常人社会の中で、名誉に対しては比較的重視しておらず、自分は自らの人生を生きていて、他人の言葉に左右されてはいけないと思っています。人は誰かに褒めてもらいたいために生きているのではないので、名誉の為だけに生きるのはあまりにも辛すぎると思います。この一時の爽快さや良い気分に勝るものはありません。

 当時、北京に帰るかどうかについて悩んでいる時、ある年配の同修に相談しました。「私は北京に帰った方が良いですか。それとも、このままアメリカに残った方がいいですか」と。すると、彼女は「アメリカも、北京も、どこがあなたの修煉の役に立つかを考えなさい」と助言してくれました。もちろん、考えるまでもありませんので、私はアメリカに残ることにしました。

 しかしながら、この「情」というものは最も捨てがたいのです。家庭生活がうまくいかないことで多くの時間と精神を消耗し、いつまでも心をそちらに取られていて、三つのこともしっかりできず、今までの修煉の中で最も大きな障碍とも言えます。常にこれらの問題に悩まされて、いつの間にか「怨恨心」まで生じ、「なぜ私ばかりこのような目に遭うのか」 「なぜこうも運が悪いのか」と不満さえ感じました。

 修煉の道に偶然な出来事はないと分かっており、執着心は取り除かなければならないとも理解しています。しかし、それでも、完璧に、明白に悟っているわけではないような気がしてなりませんでした。

 心の底からこの執着を取り除きたいのを見られた師父は、ある日、私に教えてくださいました。名誉や利益、情などをこれほど強く思っていては、どうして修煉できるでしょうか。放下せずに圓満成就できるでしょうか。あなたを挫折させている理由はなんでしょうか。この挫折の中で修煉し、悟らせるためではないでしょうか。

 この情という執着を取り除かせるために、師父は私の性格に基づいて、物事を順調に運ばせなかったり、挫折させたり、もしくは、何かを求める心理を満足させることなど、いっぱい与えてくださって、すぐに「飽きた」 「つまらない」などと感じさせたりと様々なことを按排なさいました。これらすべては私に、根本的にこの情を放下させるためだったのではないでしょうか。

 ようやく理解しました。今まで思っていた「ついてない」も「運が悪い」も全ては執着心を取り除くため、実修して精進するための準備だったのです。自らの業力を取り除くと同時にこの大きな執着心も取り除いているのです。

 師父はこのように説かれました。「常人の中で捨てられないような心を、全部あなたに捨てさせなければなりません。どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」[3]

 まるで家を建てるような感じで、真面目にレンガを積み重ねていけば、家を建て終えた時に今までの努力を振り返ってみれば、辛さも不平も感じないでしょう。家はこのように少しずつ建てるものであり、執着心も同じように少しずつ取り除くもので、修煉とはこのような形式をとっているのです。

 ここまで悟ると、ひとかけらの怨恨も不平もなくなりました。却って、自分の性格を利用して巧妙にこの大きな執着心を取り除くため一連のことを按排してくださった師父に感謝しています。少しの苦を嘗めただけで乗り越えられた私は本当に幸運です。師父が弟子たちに按排してくださった道は全て最高のもので、まさに人と神の一念の差によってすべてが変わると、改めて認識しました。

 また、家庭環境も厳粛な修煉の場です。同修でもある家族と一緒に生活して最も起こりやすいのは、相手の執着心に執着して、自らの執着心を見逃すことです。

 昔、ある同修の交流文章を読んだことがあります。彼は情を水に例え、人は皆魚のように水の中で気持ち良く泳いでおり、水を優しいものだと思っています。しかしながら、鳥がこれを見てなんと思うでしょうか。「なんと窮屈な場所にいるのでしょう。水から離れたら生きていけない魚は、なんとかわいそうでしょう!」と思うかもしれません。

 この魚はまさに情に生死を握られている常人なのです。私は羽ばたく鳥であり、決して魚ではないと自分自身に言い聞かせました。理性を持って家族との関係を保ち、彼らは自分がこの世に降りてきた時に結んだ縁でここにいるのです。

 我々は因果関係を利用して修煉の中で業力を返し、情を放下して圓満成就まで修めていくのです。それなのに、この情に左右されていいのでしょうか。魚のように水の中で是非に拘り、恩や怨恨、情、仇などに執着していいのでしょうか。これが私がずっと目指してきたものでしょうか。

 ここまで自分自身に問いかけたところ、家族を変えたいなどと言った考えが直ちに淡くなりました。修煉の最終目的は「私」という情を完全に放下し、その代わり、無私の慈悲を修めることなのです。

 このことを悟ったので、師父もこの執着を取り除いてくださいました。頭も心も軽くなり、まさに「修は己にありて、功は師にあり」[3]なのです。師父に感謝いたします!

 三、子ども弟子と共に精進する

 私の性格は比較的自由奔放で、束縛を好まず、遊ぶことが大好きです。ですので、私にとって子供は重荷であり、好き勝手ができず、どこにいても「小さな荷物」を背負っているようなものでした。

 しかしながら、これは自分自身に与えられた責任なので、同修である家族と共に精進することは必要不可欠なのです。この関係のデメリットは何かが起きた時、避けるに避けられないという点であり、同時に避けようがないというメリットでもあります。

 子供の休暇がもうすぐ終わり、ある日、私は子供にこのように伝えました。「天生くん、もうすぐ学校が始まるけど、学法煉功もさぼっちゃだめだよ。毎日の学法の量が足りないから、計画を立てて、それに従おう」。これを聞いた子供は何も言わず、仕方なく同意してくれました。

 そして、私は計画を立て、毎日学校が終わり、帰宅して宿題を終えるとすぐに『轉法輪』を二講勉強することにしました。このように、毎日継続していき、中断したことは一度もありません。用事があって、帰りが遅くなっても、夜には必ず勉強しています。こうして時間が経つにつれて、子どもの心も落ち着いてきて、例え何があろうと毎日の二講は決して変更しないと理解してくれました。

 しかしながら、この間、子どもとのトラブルも少なくはありませんでした。子供は皆動きたがるので、私が法を読んでいる時、彼はいつも横でうろうろしたり、あたりをきょろきょろしたりして、時には口を挟んでくるので、法を読んでいる私も集中できなくなります。叱りたいところですが、学法に対して子供に反感を持ってほしくないし、自分も修煉者なので我慢しました。

 初めは子供を連れて車でどこか静かな場所に行って法を勉強したり、車の中で勉強したりしていました。学法の間、「トイレに行きたい」や、「喉が渇いた」 「何か食べたい」などと言った言い訳をさせないためです。

 子どもは子供で何度か勉強したくない時があり、また、流暢に読めないと苛立つことがありました。普通はすぐに機嫌を直して学法を再開しますが、一度だけ、落ち着いてくれないどころか、ますます悪化して私の声を覆い被さるくらいの大声で喚きだしたのです

 こういう時こそ心性を守らなければなりません。この子が騒ぐのは全て上辺の事で、私の心が動揺するかどうかを見ているのです。このように自分自身に言い聞かせ、子どもが騒ぐのを無視することにしました。すると、直ちに、子供が静かになり、まるで何事もなかったように私と一緒に法を読み始めたのです。しかも、普段よりすらすらと読めて、表情も真剣になりました。

 学法を終えて「なぜ急に静かになったの?」と聞いたところ、「こんな風に勉強しちゃいけない。僕が悪かった。それに、こうして勉強するのも悪くない」と答えてくれて、それ以降、一度も騒いたり、嫌がったりしたことがありません。

 毎朝新聞の配達をしなければならず、子どもも学校があるため、同修のアドバイスにより、夜間の集団煉功に参加することにしました。毎晩8時から10時まで公園にて皆で煉功をします。

 学法と煉功を怠らなかったことにより、子どもの心性も高まりました。以前は遊びたがりで、宿題も適当に済ませ、授業も積極的に参加しなかった子が、今学期で、先生が始めたある発言ポイント積立ゲームで、何週間も連続でトップ5に入っていたのです。それから、「学校での態度は非常に良く、発言する回数も多くて、風紀もきちんとなっています」という電話もありました。

 今では、心を静めて学法することができ、そして、これまで子供とのことを通じ、例え外界がどれほど騒がしくても、法が心に入るようになりました。今は、息子との交流が一番多く、法理に基づいて交流して悟ったことや、お互いの執着に気づいた時は相手に注意しています。例えば、同修でもある2人の母に対してすぐ言い訳をしてしまうところや、家事をやらないところ、怠惰なところなどがあり、このようなときは互いに注意し合うことを息子と約束し、2、3日経ったら改善しているるかどうかを聞くことにしました。

 息子を見ていると、自分に足りないところがたくさんあると気づきました。彼は生まれつき包容力があり、言葉も柔らかで相手を傷つけず、嫌なことはすぐに忘れます。遊びたがりではありますが、他の事は一切気にしていないという良いところは、すべて修煉のために師父が与えてくださったのでしょう。そして、同時に、常人の心や観念が多い私が見習わなければならないものでもあるのです。

 息子が過ちを犯してしまい、皆彼の事を咎める時、彼が心の中でも賛同しているのかどうかはわかりませんが、表でも何も言い返さないし、後になっても相手とトラブルになったり、隔たりができたりすることもなく、変わらないように接しています。この点は私にはとてもできず、息子に見習わなければならないのです。

 これまでの間、私と息子は親子の情を取り除き、代わりに同修の縁を修めました。そして、息子こそ、私に精進させるために按排されたのであり、常に忍を心がけ、怠ってはならないと自分自身に言い聞かせて、しっかりと修煉していくことで息子を変えることができるのです。今では、息子はもう「小さな荷物」ではなく、常に私を励まし、促す「ミニエンジン」なのです。この小さな同修に感謝します。師父の按排にも感謝いたします!

 四、終わりに

 多くの執着心を取り除いたことにより、大法も心に入るようになりました。法をたくさん勉強すれば、トラブルに遭った時は順調に乗り越えることができます。そして、心が定まれば、煉功する時も静かになり、師父も私に卵の中にいるようなすばらしい感覚を味わわせてくださいます。

 現在の修煉状態はは甘い味です。トラブルや苦難に遭ったり、業力を除去したりする時、心の中は非常に穏やかでいい気分です。問題に遭う時、心性を守り次元を高めることができれば、これ以上にうれしいことはありません。常人に真相を伝え三退を同意してくれた時、また一つの生命が助かったという幸福感は最高のものです。

 修煉に近道はありません。しっかりと、確実に心性を修めるしか方法はないのです。けれども、修煉には近道があるのです。ただ常に心性を修めていけば良いのです。

 自分にはまだたくさんの執着心があり、法の要求と比べればまだほど遠く、真相を伝えることもしっかりできていません。発正念も時々抜けていたり、『論語』も流暢に暗記できていません。毎日の2時間の煉功も確保していないし、まだ取り除いていない人心も精進することを妨害しています。また、交流文章を書く時も面倒がる心理や時間を無駄にしたくない、しっかり修煉していなくて同修に笑われるのを恐れる心理、怠惰などが現れてきました。けれども、師父は一度も私を見放すことなく、私も与えられた使命に恥じないよう、きちんと自らの使命を果たしていきたいと思います!

 最後に、師父の『洪吟』の「道中」という詩で締めたいと思います。

 「心在らざれば、世と争うこと無し、視ても見ざれば、迷わず惑わず、聴いても聞かざれば、其の心乱れ難し、食しても味わざれば、口その執着を断つ、做して求めざれば、常に道中に居る、静にして思わざれば、玄妙を見る可し」[4]

 師父に感謝いたします! 同修の皆さんに感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「真修」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/2/337086.html)
 
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