「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年10月12日】「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」これは大法を修める私たち修煉者にとっての基本的な要求です。私は大法を修煉してから数年経ちましたが、私はこれは難しいことではなく、真の修煉者なら誰でも成し遂げることができると、ずっと思い込んでいました。最近になって気がついたのですが、自分で簡単だと思っていたのは、常人の基点で物事を見ていたため、それは上っ面の認識でしか過ぎなかったのです。

 師父は「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」と説かれましたが、それは法であり、私たちの修煉を導くことができます。常人が知っていることと全く同じではありません。もちろん、常人が知っている「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」というのも、人間の最低次元での法の現れです。

 大法は無限の内包があります。最近、法の勉強をして、法の意味合いが少しだけわかってきました。この内包を理解すると、自分は「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」ということを本当はやり遂げていなかったことに気づいて冷や汗をかき、非常に恥ずかしく思いました。それらを書いて同修と交流したいと思います。

 朝、私は『轉法輪』の中で「一つ例を挙げてみましょう。ある人が職場に行ったら、同僚の二人がそこで自分の悪口を言っているのが聞こえました。あまりにもひどいことを言われたので、ついかっとなりました。しかし、すでにお話ししたように、煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、常に高い基準で自分を律しなければなりません」と読んだところで、私の心が急に晴れ、気がつきました。二人がその人を殴ったり罵っていたわけではなく、ただ悪口を言っていただけだったのです。ここで師父は「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」という法について説かれています。常人の理屈では、そのひとは「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」の殴ったり罵ったりしてはいないのです。しかし、修煉者は修煉の中で、このようなことに遭遇した時、師父は「煉功者としては、絶対に言い返したり怒鳴ったりしてはいけません」と要求されたのです。

 私がわかったことですが、つまり、不公平に遭遇した時、いわれのない不当な扱いを受けた時、傷つけられた時、もし私が冷静になれず相手と言い争うと「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」の基準に達していないのです。人が私を叩いたり罵倒したりしているとは限らないです。

 それと同じことで、自分の間違っている所を同修に言われたとき、同修に見られたことや言われたことが正しいか間違っているかに関わらず、本当に内に向かって探さず相手を非難したり、自分を守るために相手のあら探しをしたりすると「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」ということをやり遂げていなかったのです。

 次元が違えば認識も違います。自分の間違っているところは同修に言われた時、私は自分が間違っていないと思い、同修の指摘を受け入れないばかりではなく、甚だしい場合、同修と喧嘩してしまったことがありました。仕方がなく同修がまた他の同修に頼んで、私のことを指摘してもらいました。私はそれでも受け入れないで、自分も不満の気持ちを持って他の修煉者のところに行って文句を言いました。他の同修からの同情や支持をもらい、そして自分が正しいことを認めてもらいます。その時の私は師父の説法の中で「奴に後ろ盾がいるなら、こっちにも後ろ盾がいる。徹底的にやろうぜ」とはどこが違うのでしょうか? それは闘争心の表れではないでしょうか?

 師父が挙げられた例は非常にシンプルに見えますが、その意味合いは非常に深く、すべて私たち修煉者への指導の指針となっています。もし私たちが心を静めずに法を学ぶなら、あるいは執着心や求める心を持って大法を学ぶなら、どのようにして一層一層の大法の内包を理解することができるのでしょうか? 自分の修煉状態がよくない時、私はまた「私は法を学んでいる時、確かに心が静かではないのですが、しかし、法の表面の意味を知っていて、何を読んでいるのかを知っています」と思ったことがあります。確かにそうですが、ただ法の表面の意味しか知らないし、そうやって法を学ぶというのは、表面の文字に慣れ親しんで記憶しているだけで、大法を深く理解しているという意味ではないのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/2/4/66540.html)
 
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