修煉する中で妻に対する怨恨心を無くす
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年11月13日】高校3年の息子と母親の諍いのあと、2015年10月、息子は突然不登校になりました。大学入試直前まで夕食しか摂らず、昼間は寝て、夜はゲーム漬けの毎日でした。表向きの理由は母親にあるようでした。息子を起こす時間を逃した母が怒鳴りつけた日、母親は息子の担任の教師に、「息子は私と喧嘩して機嫌を損ね、休みます」と連絡しました。担任の教師がクラスの生徒全員の前で息子が大事なときに、母親と喧嘩し学校を休んではいけないと批判したことをクラスの友人がQQアプリを通じて、息子に告げました。息子は自分のメンツがまる潰れになったと思いました。これは表向きの理由でしたが、実際は長い間、私自身の怨恨の心が取り除かれていなかったのです。師父はこう説かれました。「実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません」[1]

 私の妻(常人)はとても気が強く、家で互いの意見が違うとき、必ず妻が上位に立ちます。絶対自分の非を認めません。口を開けば、すぐ他人のミスを指摘し、反抗期の子供にとっては強すぎました。昔、妻は私の実家にとても冷たくしていました。彼女は自分の実家としか付き合いたくなかったのです。私の親や兄弟が家に来ても、冷ややかな態度を取っていました。私の父が脳出血で入院したとき彼女は無関心でした。それどころか、私が父を看護する時間をとりすぎ、彼女と子供のことにそっぽを向くと文句を言い、挙句の果てに旅行に出かけ、結局父の最期に間に合いませんでした。妻の母が肝臓がんで手術をし、私の家で4カ月近く休養した間、私は心を尽くして面倒を見ました。病院で私は姑の最期をそばで見守りました。妻の兄弟の子供はよく夏休みに泊まりに来ます。私は子供達に水泳を教えたり、バスケットボールを一緒にしましたが、私の(実家の)姪や甥たちは妻が仕事で地方に行った時しか家に来ることが出来ず、こっそり一日遊びに来ました。

 私は大法修煉を決意したことで、中共の迫害を受け、やむを得ず軍隊から離れ、地方に転職することになりました。人に羨まれる仕事を失ない、妻は外でよく私の修煉のことを悪く言い、トラブルが発生したときに手を出すこともあり、もっと酷いこともありました。妻がこれらのことを並べ立て、言いたい放題で争い、特に叩かれたときや罵られたとき、彼女のさまざまな良くないところを思い出します。彼女を恨めば恨むほど問題が起きて、最後には、やがて子供が休学することになりました。

 師父は「佛教では、人間が生きていることは絶え間なく連続する業の報いを受けていることにほかならないと言っています。つまり、人に借りが出来たら、返済を求められますが、返しすぎたら、今度は相手があなたに返します。子が親不孝をすれば、やがては立場が逆転されます。このように、業はぐるぐるめぐります」[2]と説かれ、私に因果を分からせて下さいました。人に親切にしてもらえなくなったのは、自分の以前の借りであり、人に返さなければならないのです。私は修煉者で、大法弟子であり、人に親切にするのは当たり前のことです。私が大法の要求に基づいていれば上手く対応できたかもしれません。しかし、怨恨の心を徹底的に取り除くことが出来ていないため、心性を向上できませんでした。

 この数年の修煉で、師父は私の怨恨の心を概ね取り除いてくださいました。今は恨む心がたまに現れてきますが、幸いそれを抑制することができます。家庭環境が大幅に改善され、母と子の関係も良くなりました。息子は1年浪人しましたが、最終的に大学受験に合格しました。

 私は怨恨の心は孤立して存在しないことを体験しました。恨む心は他の執着心と繋がり、他の執着心を引き起こし易いのです。怨恨の心が強いとき、大体怒りやすく、イライラして、落ち着かなくなるのです。私はこんなに良くしているのに、なぜ私をあんな目にあわせるのかと、相手に対し、心のバランスが取れなくなるのは嫉妬心の現れです。怨む心が出ると、相手と言い争いになり、それは闘争心、野心の現れです。相手と争うとき、他人や相手のミスを指摘し、自分が如何に正しいか主張するのは顕示心や自我を実証することの現れです。

 私の怨恨の心を取り除くには、まず「忍」を成し遂げるべきです。師父は「忍とは心性を高める鍵です」[3]と説かれています。怨恨の心が出るとき、耐えるべきで、抑制しなければならないのです。喋らず、行動せず、平静にした方が良いのですが、そうでなければ、怒りやイライラなどの情緒に動かされてしまい、挙句に嫉妬心や闘争心、顕示心、自分を実証する心まで現れて来ます。

 うちに向けて探す習慣を身につければ、怨恨の心を有効に抑制することも可能です。怨恨の心に左右されると外に目を向けることになります。ずっと他人の欠点や不足を気にすることも外に向けて非を探しており、それも怨恨の心の現れです。

 師父は「恨みの心ですが、つまり褒められたい心、良いことがあれば嬉しいという心が養われたのです。さもなければ、恨んでしまいます。皆さん、考えてみてください。これではいけません。このように修煉してはいけません」[4]と言われました。怨恨の心を完全に無くすためには、「褒められたい、良いことがあれば嬉しい」という常人の概念を取り除かなければいけません。嫌なことがあっても、嫌な話を聞いても、それを良いことと見做せば、これこそ修煉者の観念に相応しているのです。そうすると、怨恨の心さえなくなります。

 ある物語があります。和尚が金持ちの家に布施を請いに行きました。しかし、何も得られず、門の外に追い払われ、一夜雨に打たれました。金持ちの妾がこの和尚の寺に参拝に行きました。妾は寺の柱の上に、自分の旦那さんの名前を見て、復讐されたと思い込み、ビックリしました。そのとき和尚は「布施を請えなかったのは、(私に)きっと前世で旦那さんに借りがあったからで、旦那さんのために祈り、自分の過ちを補うためです」と説明しました。金持ちの旦那さんは話をきいて、とても感動しました。それから寺の今後の生活を担うと誓いました。

 大法弟子は嫌なことがあっても、嫌な話を聞いても、恨まず、逆に人に感謝すべきです。

 『共産主義の究極の目的』では「共産主義の本質は『邪霊』で、『恨み』と低層の宇宙の中の悪い物によって構成されている、人類を恨んで、そして消滅しようとしている」と書かれ、中共の「恨み」にも嫉妬と闘争心が含まれていると私は理解しています。それが理由で、中共は地主、金持ちの農家、資本家を殺し、彼らの財産を奪い取るのです。中国人も小さい頃から強制的に共産党文化の恨みの教育を受け、洗脳されました。個人的に、中国でそういう教育を受けた人は怨恨の心が特に強いのです。大法弟子もそうなります。我々の怨恨の心が強烈に表われ、長期に取り除かないとき、その思想が共産邪霊に符合すると、旧勢力に隙に乗じられ、迫害されやすくなるのです。

 我々は旧勢力を全般的に否定しています。旧勢力を認めません。しかし、師父によって法で正されていない空間では、旧勢力がまだ存在しています。彼らは大法弟子を睨んでいます。我々は完全に怨恨の心やそのほかの執着心を無くし、法を実証し、より多くの人を救いたいと願っています。

 妥当でないところは同修の指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDCでの説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/10/26/414216.html)
 
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