文/米国の大法弟子
【明慧日本2020年11月19日】ここ2、3週間、2回ほど低体温症が起き、同時に息苦しさやめまい、頭痛、腰痛が起き、その痛みは全身に広がり、夜寝るときも影響がありました。また、頭の中に悪い念が生じたり、全体学法の時も何かに遮られているようで、学法しても心に入らなかったり、常人の仕事でも残業が増え、なかなか終わらなかったり、家庭においても、仕事においても、経済的にも良くない状況に陥ってしまいました。
ある日、深夜0時の発正念の後、修煉とは何かを突然考え始めました。しかし、頭の中が真っ白になり、夫が部屋に入ってきて呆然としている私を見て、どうしたのかと尋ねたので、自分の気持ちや考えを簡潔に伝えて、そのまま眠りにつきました。翌朝、煉功している時、ふと師父の「思想の境地がわずかでも高くなったらその分だけ、自分自身の悪いものも取り除かれたことになります。同時に、あなたは少しでも苦しみに耐え、難儀を忍ぶことによって、自分自身の業力を少しでも滅しなければなりません。こうすればあなたは少し昇華して上がって来られるのです。言い換えれば、あなたに対する宇宙の特性の制約力が弱くなるということです」[1]という説法を思い出しました。
煉功の後、なぜこの説法を思い出したのかを考えました。自分はどの思想を変えるべきでしょうか? 何年か前に、何回か病の関を乗り越えましたが、自分の心性と業力により魔難が生じたとずっと思い込んでいました。修煉に対する認識がぼんやりしており、旧勢力と法を正す関係についてあまり理解できませんでした。しかし、次の出来事を通じて新たなことを悟ったのです。
仕事を終えると、夫が「昨日、君は修煉とは何かを考えていたね。僕が思うに、修煉とは自我を放下するということではないかな?」と言いました。他にもいろいろと言ってくれましたが、夫のこの言葉だけを今でもはっきりと覚えています。私も自我を放下することを知っています。しかし、認識できていなければどのように放下すればいいのでしょうか?
翌日の午後、夫が友人と電話している横を通ったとき、ちょうど夫が友人に話している言葉が耳に入りました。「ずっと上から目線で、他人の言うことに耳を傾けないようでは、どうやって人とコミュニケーションをとると言うのだ?」。この言葉を聞いた瞬間、まるで雷に打たれたかのように、ハッと驚きました。夫は私に向けて話しているわけではありませんが、師父が夫の口を借りて私に伝えておられると確かに感じたのです。その後、別の出来事を通じて、自分自身を変えようと決心しました。
ある日、ネットでオンライン授業を終えた後、「さっきの男の子(つい先ほど教えていた男子生徒)は台湾人? きっと優しい子だね。話し方から良い子って感じがする」と夫が聞いてきたので、「そう? 私はくどいと思うけど」と何も考えずに答えました。後に、なぜ自分と夫との考えがこれほど離れているのかと疑問に思いました。異なる観念は、異なる結果を生み出します。ちょうどそのころ、その男子生徒の母親から、私の教え方を少し改善すれば、もっと良くなるという手紙が、学校を通じて私に送られてきました。その提案を見て、少し無理難題ではないかと悩みましたが、仕方がないとも思いました。すべての出来事に偶然は存在しないと悟ったので、すぐに教科書の内容だけを教えるのではなく、面白い話や普段の生活にかかわるような話などを授業に取り入れました。
その後、自らの思想の源を探しました。一体何の心理によりこれらの観念が形成されたのでしょうか? 急がす心、効率を求める心、嫉妬心、他人を見下す心、他人を尊重しなかったり、他人の立場になっていなかったりなど様々な人心が見つかりました。その後、自分の思考内容を気にして、できる限り自ら正すようにしました。怨恨や焦燥を放下し、できるだけ謙虚で、平和で、落ち着いた人間になるよう努力し始めました。しかし、内に向けて探せば探すほど自分の問題点に気づき、却ってマイナスやネガティブな思考が溢れ出てきて、その上、現状を変えたくない、今のままで良いと言う安逸心も現れました。
さらに掘り下げてみたところ、法理で自分を律しなければ、すぐに旧宇宙の生命の考え方になってしまうことに気づいたのです。何を話しても間違いを起こすので、いつの間にか話したくなくなりました。
師父は「しかし、彼らはそれほど悪いものでもありません。彼らは前回の宇宙の特性に従って動いているに過ぎません。これが人々の言う天魔なのです。しかし彼らは常人を脅かすわけでもなく、人にはまったく危害を与えず、ただ自分の理に従って行動しているだけです」[1]、「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」[1]と説かれました。この時、思惟が形成した私もまた同じ時間、同じ場所の別空間に存在していることが分かりました。
様々な魔難に遭っているとき、病の業力により苦痛を感じているとき、プレッシャーを感じているとき、情に囚われているとき、トラブルに遭遇しているときなど、常人社会の様々な環境の中で、人の思惟は一体どこからきているのでしょうか? 心が動いたとき、念が働いたとき、その動機や目的は何でしょうか? このような複雑な環境や感じ方の中で、理性をもって自らの思惟の源を探れる人は非常に少ないでしょう。人心や観念により、また、高次元の旧宇宙の生命による妨害の中で、本当の自分、そして、自分の本性を見つけ出せる人も多くはありません。恐らくこれこそ人間が流れに身を任せてそのまま堕落していく原因なのかもしれません。大法は謎や迷いを破ることができます。大法弟子の思考が法に基づいていないときは、正しくない思考や人心、観念などが良くない生命を招き入れるでしょう。環境は心境によって変わります。ですから、良くない要素が積もれば積もるほど、私たちの本体と大法の間に出来た隔たりもどんどん厚くなっていくのです。
師父は「人間は現実の生活の中で形成された観念とそれらの良くないものをすぐに取り除きにくく、習慣になったものに関しては、その習慣を改めなければなりません。考え方がすでにそのようになっていれば、考え方からそれを正して、はじめて再び問題にならないのです。すでにきれいに取り除いたと言うのですが、確かに正念を発するとき、空間場まで光っていますが、終わるとすぐに常人の考えになってしまい、考えたこと、行なったことはまた元の基点に戻り、良くないものがまた生じます。場合によっては、正念を発するときの念も落ち着いておらず、正念を発して良くないものを取り除きながら、良くないものがまた同時に生じています。修めることはすなわち、自らを修めることで、実はこういうことです」[2]と説かれました。
起きた出来事を通じて、高次元の法理を悟ることができました。そして、法を悟るには、まず、人心を変えなければならないということも分かりました。
ある日、晩御飯を終えた後、修煉とは何かという話題について夫と話しました。「修煉とは、常人社会の中で人心を取り除く過程だ」という私の言葉に対し、夫はすぐには答えず、しばらくして、「修煉とは圓満成就することだよ」と言いました。その時、夫の言葉を聞いて、「私は圓満成就します」と心の中で師父に伝えましたが、後に、この言葉を聞いたこと自体偶然ではないことに気づきました。以前の私は圓満成就のことなど全く考えていなかったので、そろそろ思想を変え、心性を高めなければなりません。
ある日、学法の時、師父は「人体科学の研究において、現在の科学者は人間の脳から発せられた思惟が物質であると認識するに至っています。思惟は精神的なものではなかったのでしょうか? それが物質的存在であるならば、精神と物質は同一のものではありませんか?」[1]、「なぜあなたの向上を許さないのでしょうか? あなたの心性が上がっていないからです。どの次元にも異なる基準があり、上の次元へ上がろうとすれば、持っていた良くない考えや汚いものを捨てて、その次元の基準に同化しなければなりません。そうしてはじめて上がって来られるのです」[1]と説かれました。
長年、修煉してきましたが、一体どれだけ理解し、そして、どれだけ信じてきたのでしょうか? 今日、自分が自らの感覚やいわゆる現実的な物事をより信じていることにようやく気付きました。圓満成就することは私にとって遥か遠いことであると潜在意識の中で思っていたのです。この時、ようやく自分が圓満成就するにはどうすれば良いのか、どうすれば高次元に達するのかを真剣に考え始めました。もちろん、大法弟子一人一人の悟りは異なるので、自分が悟った最高の法理で自分を律していけば良いと思います。
修煉者の難や苦痛の程度は、旧勢力による按排や迫害を破ることとは直接的な関係はないことに気づきました。肝心なのは、大法弟子自身と旧宇宙の生命との関係を間違ってはいけないことです。大法弟子と旧宇宙の生命は済度する側と済度される関係であり、迫害と迫害される関係ではありません。初めから自分たちが迫害される側と位置付けし、普段、自らの思想を厳しく律せず、また、様々な人心により妨害を取り除かないでいると、時間が経つにつれて、旧勢力が按排した道を歩むことになります。これは精進せず、高い基準で律しない自分自身が招いた難なのです。
師父は「本当に修煉しようと思えば、われわれの言う心性基準に基づいて自らを律し、本当に心性を高めなければならず、それこそが本当の修煉です。 ただ動作だけをやっても、心性は向上せず、一切を加持する強いエネルギーがなければ、それは修煉とは言えず、われわれもあなたを法輪大法の弟子として認めるわけにはいきません」[1]と説かれました。
これらのことをはっきり認識することで、自分の身に起きたことや周りの環境が変わり始めました。悩んでいた問題はいつの間にか解決され、腰痛や低体温症もなくなり、学法も心に入るようになりました。この交流文章を書こうと決めた日の朝、煉功の時、第五式の功法の途中で、ふと目の前に巨大な身体が現れ、その身体は坐禅していました。私はその身体の下にいるのです。今でもその身体の正体が誰なのかは分かりませんが、それでも、その時に感じた厳粛さや神聖さは今でもはっきりと覚えています。
その後、非常に美しい光景が見えました。高い場所から一覧する大自然、小鳥のさえずりや鮮やかな花畑、木々の間から入り込む暖かな太陽の光、とても穏やかで、温かみのある光景でした。自分はまるで別空間にいるようで、意識ははっきりとしていますが、心の中は非常に平和で穏やかで、とても不思議な体験でした。
学法の時もこれまでにない不思議なことが起こりました。ある日、学法しようとして本を開いた瞬間、白くて淡い光が現れ、私の声に沿って一行一行に白い光が入っていき、師父の説法はすべて心に刻み込まれ、そして、次から次へと法理が現れてきました。
自分のこの気持ちをなんと言い表せば良いのか分かりません。師父のご恩に感謝するのみです。師父の慈悲なる済度に感謝いたします! まだこれくらいしか悟っていない私に大法の素晴らしさを体験させてくださった師父に心から感謝いたします!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」