文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年1月3日】師父は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[1]と説かれました。では、どうすれば修煉者の忍を身につけることができるでしょうか。私は法輪大法を20年以上修煉して来ましたが、いつも涙で忍耐する状態で、修煉者としての忍をできませんでした。この原因は何でしょうか。
最近、身体の不調が出て来て、それは修煉を怠ったことが原因だと思い、自分の執着心を探し、多くの執着心を見つけましたが、やはり根本的な問題は解決しませんでした。そして、20年以上修煉して来て、人の念でなく、悪の念でなく、毎日神の念を動かすべきであると思いました。では神の念とは何か、人の念とは何か、悪の念とは何かは、20年も修煉してきたのに何も分かっていません。これでは神を修煉することはできません。
一、神の念についての理解
考えて「神の念は慈悲、寛容、寛大ではないか」と悟りました。宏大な寛容、全ての生命に対する慈悲、全ての出来事に寛大に対処することが神の念ではないでしょうか。師父は「天上に多くの王がいます。ご存知のように、釈迦牟尼は如来佛がガンジス川の砂のように多いと説いたのですが、インドのガンジス川にどれくらいの砂があるのでしょうか? それだけにとどまらず、これは釈迦牟尼がそれを形容するためのたとえ話です。それぞれの如来佛は皆一人の法王ですが、佛家だけではなく、佛家はただ普通であって非常に多い神の一種です。どれくらいの神がいるのでしょうか? このような王がどれくらいいるのでしょうか? もし全ての王が何かが起きる時に皆、皆さんのように対処していれば、それでは大変なことになります」[2]、「彼らには、このような自分のいる次元の状態に相応しくない論争はありません。もちろん、彼らには真理が見え、どのようにすればベストなのかが見えます。しかし、往々にして認識上にある程度の差異がある場合、彼らは論争しません。それは一種の洪大な寛容であり、生命に対する慈悲であり、全てに対して善意をもって理解するという状態なのです。人間の言葉で表現すると、相手のことを理解することができるということです。ですから、時には強い常人の心をもって一途に思い込んで、なかなか抜け出せず、考えれば考えるほど執着し、考えれば考えるほど心が沸き立ち、考えれば考えるほど魔があなたを利用しています」[2]と説かれました。
師父の説法を読んで悟りました。「広大な寛容、生命に対する慈悲、全てに対して善意を持って対処するのは神です。私たち修煉者の心の中に生じる他人を許すという気持ちは神の念であり、全ての生命に対する慈悲の気持ちは神の念であり、起こる全てのことに寛大に対処することも神の念を動かしたことになります。そう思うと、多くの同修や常人に対する長年の怨み、涙で忍耐することで生じた様々な不満や怒りを放下すると、身体の症状も良くなり、師父が私の悪いものを取り除いてくださいました。
二、人の念とは何か
神の念を理解できましたが、では人の念とは何でしょうか。人間の本性は私(し)であり、利己的な考えに沿っているのは人の念であり、トラブルが発生した時、他人に対して寛容の心がなければ、これはあなたの間違いであるとしか考えておらず、なぜこのように私を扱うのか、私は間違っていない、間違っているのはあなたです、または自分の利益が他人に侵害されているという考えや、他人に騙されてはいけないという考えなど、様々な悪い考えがありますが、これらは全て人の念だと思います。
これらの考えは語られていませんが、人の念を動かしました。自分は修煉者なので、涙で忍耐するしかないのです。しかし、心の中では怒っていると、その心が胸にたまり、胸の痛みや、更に身体に間違った状態を引き起こします。これは神の念がなく、人の念だけが長い間続いている時に起こった身体の間違った状態です。
ここでもう一度話したいのは、病気の関を乗り越える同修を助ける時に、同修ばかりを責めて、あれもこれもできていないとすぐ非難し、同修が執着心を見つけるのを助けているように感じています。実際には、同修を助けるどころか、魔難を悪化させていたのです。同修を非難している過程で神の念を動かしているわけではなく、人の念を動かしていたのです。
同修は口にはしていませんが、心の中では怒っています。表では涙で耐えるしかないのです。私たちが同修を助ける時、全ての恨みを取り除くように彼らを励ます必要があり、彼らにより寛大で、全てのものを寛容にして神の念を動かすようにします。同修が全ての物に寛大に対処すれば、きっと早く難を乗り越えられると思います。私の知っている病気の関に直面した同修が何人かいますが、心の中では他人への恨みを持っている人が沢山います。それを長い間取り除かず、病気の関をなかなか乗り越えられず、中には病魔によって肉体をひきずられてしまう人もいます。
その多くは、神の念がなく、人の念だけが原因であることに気づきました。従って、宏大な寛容、物事に対する寛大さ、生命に対する慈悲は修煉者が持つべき神の念であり、人の念を排斥する最良の方法です。
三、悪の念とは何か
人の念が生じ、自分をコントロールできず、人の念によりかんしゃくを起こす時は魔に利用されていることになり、魔性を引き起こしてしまうと気づきました。そして、その時は人の念は悪の念に変わります。
人は悪の念に支配されていると、理不尽に怒ったり、口喧嘩をしたり、更に殴り合ったりするようになります。したがって、修煉者としては悪の念があってはいけません。普段同修を助ける時、ただ非難するだけでは、実は無意識のうちに人の念を動かしており、この人の念は悪魔に利用され、同修に多くの魔難を引き起こすことになります。他人の気分を悪くさせ、動揺させる言葉を口にする限り、それらの言葉を発したのは悪の念だと気づきました。
このことを思うと、私はなるべく人の念を排斥するようにしましたが、そこに座りながら、頭の中には人の念がこみ上げて来て、私に悪い態度をした人には話しかけたくないとか、私の悪口を言っている人にどうやって接するとか、昨日の買い物は騙されたのではないか、またいつも私に怒っている人の事を思うと、心の中で耐えることができません。そんな人の念で頭がいっぱいになり、心が動じてしまい、なかなか落ち着きません。この時、大法の本を読むと良くなりますが、本読みを止めるとまたあらゆることが浮かんで来ます。
そこで私は「自分を高め、神の念を発揮しないといけない」と悟りました。その瞬間心の中は宏大な寛容が生じてきて、私に酷いことをした全ての人や物事を許しました。一切の人や物事への恨みを放下した後、大法の本や明慧交流体験を読み、大法の法理で心を満たしました。ふと胸元から汚い気が出て来るのを感じると、すぐに体が解れて、数日間身体の悪い症状がなくなり、食欲も出てきました。
現在は涙で忍耐するのではなく、不平に思わない忍ができたのです。これは一念によって良し悪しが定められるのです。
以上は私が悟った、神の念とは何か、人の念とは何か、悪の念とは何か、ということについての理解です。不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」