【明慧日本2021年1月13日】(明慧記者)2001年8月30日、甘粛省敦煌市付近のバスの中で、立派な青年が警官に連行された。彼は清華大学の卒業生で、甘粛の法輪功輔導拠点のボランティア担当者でもある袁江さんであった。2カ月間拷問された袁江さんは奇跡的に魔窟から脱出したが、重傷を負ったため、2001年11月9日、29歳の若さで亡くなった。
袁江さんの母親の任燦如さんは当時の様子を語った。「私は心にナイフを刺されたような悲痛を押さえ、息子の少し開いた目を手で閉じました。息子の額に触れた時、すでに冷たくなっていました。そして、息子の少し硬くなった手を少し動かし、足を見た途端、気絶しそうになりました。息子の右足の膝は驚くほど黒くなり、ふくらはぎは手の大きさくらいが皮膚も肉も無くなってしまい、右側にも一カ所の欠損があり、足全体が枯れ枝のようになっていました。目の前にあるのは記憶の中にある息子の姿ではありませんでした」
袁江さん |
1)学者の家庭で育ち、清華大学に合格
袁江さんは1972年8月24日に、内モンゴルのある学者の家庭に生まれた。父親の袁助国さんは西北師範大学の教授で、学部長を務めていた。母親の任燦如さんは西北師範大学付属小学校の教師であった。袁江さんは一族の末っ子で、上に3人の姉がいる。
袁江さんは幼い頃から身体が弱く、高校2年の時に喉頭炎と心筋炎を患って1年間停学した。復学した後、1989年の第6回全国中学生物理競技大会に出場し、甘粛地区で第5位に入賞した。1990年、袁江さんは清華大学電子工学科に合格し、学業に優れていたが、体調不良が続き、喫煙と飲酒という良くない習慣を身につけてしまった。
2)超常の科学を発見
1993年、袁江さんは李洪志先生が大連で開催された法輪功講習会に参加し、法輪功のすばらしさを目にした。間もなく、袁江さんは他の法輪功学習者(以下、学習者)と同じようにタバコと酒をやめ、病気が消え生まれ変わったように溌剌とした状態になった。
袁江さんは、法輪功の教えである「真・善・忍」が人々を善に導く正しい道であり、超常の科学であることを知り、5回連続して李洪志先生の対面講習会に参加した。
法輪功を勉強したおかげで知恵が開き、道徳心を向上させた袁江さんは、法輪功の良さを皆に伝え、清華大学の多くの人たちが法輪功を学び始めるきっかけになった。
ある清華大学の学習者は当時の様子を振り返った。「1994年8月、清華大学のある教授がハルビンで開催された法輪功講習会に参加した後、積極的に清華大学で煉功拠点を設立しました。袁江さんは最初に勉強した数人の学生の中の1人でした。毎朝、清華キャンパス、講堂前、無人島、西南聯合大学の記念碑の前で彼らの煉功する姿をよく見かけました。毎晩、清華の工字庁(学長室のある場所)で、私たちは師父の説法ビデオを見たり、録音を聴いたりしました」
3)蘭州電信局の技術中核
1995年7月、袁江さんは清華大学を卒業し、蘭州電信局に就職した。仕事の能力と卓越した業績があるため、袁江さんはすぐに同僚に認められ、技術的なバックボーンになった。
当時、勤務先の同僚たちがコンピュータ技術についての質問があると、みな袁江さんに聞いていた。当時はまだ電話が普及しておらず、ポケベルが使われていた。 昼夜を問わず、袁江さんは呼ばれるたび、すぐ公衆電話を探して丁寧に詳しく答えていた。
1999年前半、蘭州電信局は蘭州飛天網景情報産業有限会社を設立し、副社長と技術責任者を袁江さんに任せた。
4)西北師範大学の1万人規模の煉功拠点
袁江さんは蘭州に戻ってから、毎朝、西北師範大学の運動場で煉功を始めた。 最初は1人だったが、間もなく人が増え、蘭州市では1万人もの人が法輪功を学び始めた。
当時、すべての公園や広場で学習者の煉功する姿があった。毎朝、輝く太陽の下で、法輪功の美しい煉功音楽と優雅な動きは、蘭州市の壮観な風景になった。
袁江さんは勤務時間外で、蘭州市法輪功輔導拠点のほか、青海省西寧輔導拠点、寧夏銀川輔導拠点を含めて西北三省の輔導拠点のボランティア担当者になった。 袁江さんは自費で本を購入したり、功法の動作を教えたり、講習会の場所を借りたりして、社会奉仕の精神で法輪功を広めていた。当時、高収入の袁江さんは、非常に質素な生活を送り、皆のために黙々と貢献した。
5)両親も法輪功の煉功に参加
袁江さんの母親の任燦如さんは、息子の心身の変化を目の当たりにし、法輪功が良い功法であることを知った。任さんは重度の心臓病と腎盂腎炎を患い、2回の手術を受けたが、毎年、冬には発作を起こし、入院する時もあった。法輪功を学んだ後、任さんの病気はすべて消えた。
父親の袁助国さんは重度の肝硬変を患っており、漢方薬や西洋薬を服用していたが、一向に改善しなかった。法輪大法を実践した後、袁助国さんの健康状態は以前と大きく変わって、別人のように元気になった。
6)嵐雲が急激に変化、迫害が始まる
1998年7月、『甘粛日報』に法輪功を誹謗中傷する記事が掲載されたため、当時、多くの学習者が新聞社に出向いて事実をはっきりと説明した。袁江さんも新聞社の担当者に自らの体験を話した。新聞社の関係者たちは学習者の善良と誠意に感化され、公に過ちを認め、学習者宛にお詫びの手紙を書いた。
1999年7月20日、中国共産党(以下、中共)の江沢民集団が国内全土の学習者への迫害を開始し、全国各地の法輪功輔導拠点のボランティア担当者を一斉に連行した。当日の早朝、袁江さんを含めて8人の学習者(主に甘粛蘭州地区の輔導拠点の担当者)が連行され、蘭州市人民ホテルと蘭州紅土地ホテルで6カ月間拘禁された。
7月11日に袁江さんは敦煌市に出張し、7 月 21 日になっても戻って来なかった。家族が勤務先に尋ねたところ、「彼は用事で、また別の所に行った」との返事が返ってきた。実際は、7月20日の早朝、蘭州市公安局の警官らに連行されていた。
袁江さんたち学習者は、蘭州人民ホテルの個室フロアで1人1部屋に監禁され、半年あまり洗脳による迫害を続けた後、2000年1月20日に保釈された。 その後も週に一度、蘭州公安局に6カ月以上強制的に召喚されていた。
2001年1月、袁江さんの勤務先の610弁公室と蘭州市公安局は、袁江さんの仕事を停止し、袁江さんを洗脳班に送ろうとした。このような状況下で、袁江さんは放浪生活をし、全国に指名手配された。
7)連行され拷問を受ける
放浪中の袁江さんは一流の電子技術を使ってお金を稼ぐのではなく、苦しい生活を過ごしながらも全力を注いで、中共による迫害を暴き出し法輪功の無実を人々に伝え続けた。
(続く)