袁江さんの母親が語る息子の苦難(二)
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 【明慧日本2021年1月13日】(前文に続く)

 当時、当局は法輪功学習者(以下、学習者)が北京に陳情に行くのを防ぐため、多くの学習者の身分証が警官に押収されていた。警官が列車などで身分証をチェックするのは、実は学習者を連行するための主な手段である。20年の間、数え切れないほどの学習者がブラックリストに載せられ、乗車や切符を購入する際に嫌がらせを受け、連行された。

 2001年8月30日、甘粛省敦煌市のバスの中で、警官は身分証をチェックし始めた。放浪生活の袁江さんは身分証を持っていなかったため、ブラックリストを手にした警官らに連行された。

 袁江さんが連行された後、甘粛省公安部は直ちに対策チームを設置した。彼らは袁江さんの事件を重大な案件として、より多くの学習者を連行して業績をあげ、昇格しようと考えた。ある蘭州市法輪功迫害の責任者によると、袁江さんは敦煌で吊るし上げられ、袁さん本人だと分からない状態になるまで滅多打ちにされたという。

 袁江さんの母親は次のように話した。「私たちはあちこちへ息子の居場所を探し回りました。最初は寺児溝留置場に行き、その職員は袁江さんがそこで拘束されていることを認めませんでした。私はまた西果園留置場に行きましたが、息子を見つけることができませんでした。それから、再び寺児溝留置場に戻り、事務室のスタッフが調べてくれたので、息子が4大隊に拘禁されていることが分かりました。その時は10月中旬でした」

 「私は留置場の職員に『寒くなりましたので、息子はまだ一枚の夏服だけなので、服を送りたいのです』と申し出た後、その人は電話で聞いてみると言い、電話の向こうの人員に誰かと聞かれたようで、母親だと言ってくれました。その時、向こうの人員は同意しました。3、4回服と食べ物を送ったことがありますが、息子には直接会ったことがありません」

 対策チームは、袁江さんの意志が固く、留置場では対応できないと判断した。そこで公安局は、袁江さんの上司部門である省郵政管理局に「適切な場所」を探すよう圧力をかけた。

 甘粛省郵政管理局は公安局の要請を受けて、黄河北岸の緑の拠点である鴻雁山荘を提供した。

 鴻雁山荘は市内から5キロ離れたところに位置し、森と山に囲まれた高級別荘地で、郵政業の高官たちのリゾート場所となっている。その頃は天候も悪く寒いので、誰も利用しない時期である。情報筋によると、彼らが速やかに行動し、拷問の刑具だけで2台のトラックで満車になったという。

 鴻雁山荘では、すべての拷問刑具を袁江さんに使い、袁江さんは苦しみを嘗め尽くした。彼らは袁江さんに手錠と足かせをかけて、「大」の形に固定したり、袁江さんの両手に手錠をかけパイプに固定して、しゃがむことも立ち上がることもできず、一般人には想像できないほどの苦痛を与える拷問が行われた。

酷刑演示:吊挂毒打

拷問の再現:吊るし上げられ滅多打ちにされる

酷刑演示:半蹲反铐背挂(就是站不起来也蹲不下)

拷問の再現:手錠をかけた両手をパイプに固定して座ることも立つこともできない

 8)奇跡の脱走と全市の大捜査

 2001年10月29日の早朝、袁江さんは他の人が熟睡している間に手錠を外し、魔法のように幾つもの扉をくぐって中庭まで出てきた。ジャンプして塀を乗り越えたが、塀の外側は高さが予想以上あって足を骨折した。歩けなくなった袁江さんは、這いつくばって山窯に向かって擦り寄った。

 重度の外傷と内傷を負った袁江さんは、長い間断食して迫害に抗議していたため、自分の体をほとんど支えることができず、昏睡状態に陥ったが、道を歩いたり話したりする音や、遠くで鳴るパトカーのサイレン音が聞こえた。

 当時、甘粛省蘭州市では、2000~3000人の警官が出動し、全市で大捜査をし、主要な交通道路や車や船、および学習者の家をすべて捜索した。

 その後、捜索は周辺の県や市にまで及んだ。上から「たとえ地面を3尺掘り起こしてでも、袁江を掘り起こせ!」という命令が出された。

 9)療養と死亡

 「息子が鴻雁山荘から脱出した後、市公安局の路志斌は最も早いスピードで私の家に駆けつけ、ただ家の中を見て回るだけで目的を言いませんでした。夫が息子の最近の状況を尋ねた時、警官たちは何も答えませんでした。これらの警官たちが去った後、私は買い物に出かけようとすると、1階に居た警官たちがパトカーから降りて、何をしに行くかと聞き、『遠くに行くな、急いで戻って来い』と言いました」と袁江さんの母親は語った。

 袁江さんは3日の間山窯にいた。空腹を満たすため、夜に農家の畑に行き大根を引き抜いて食べた。西北部の晩秋は、朝晩は非常に冷え込み、場所によって凍結するほどの寒さであった。しかし、激痩せした袁江さんが身につけているのは一枚のシャツだけで、 飢えに寒さが加わり、激痛が伴い、時には目を覚まし時には意識を失ったりしていた。

 11月3日には、山窯の外には音が聞こえなくなった。4日目の早朝、袁江さんは驚くほどの忍耐力で山窯から這い出て、木の枝を杖にした。親切なタクシーの運転手が袁江さんを、学習者の王志君さんの家まで乗せて行ってくれた。

 王さんはドアを開けて驚いた。目の前の男は髪が乱れて顔が垢まみれで腫れ上がり、口と鼻から血が流れ出て、ボロボロのシャツのポケットから残りの大根の葉が見え、破れたズボンからは骨ばった足が見えていてた。膝の下は黒紫色で、ふくらはぎと足には皮膚も肉もないところがあり、骨が露出していた。

 王さんは「私は袁江です」と聞いたとき、ショックから我に返り涙が止まらなかった。目の前の男性は、あの優秀なカッコいい袁江さんだと想像もできなかったという。

 王さんは、すぐ于進芳さん(男性)たちを呼んで、袁江さんの療養について話し合った。大捜査中のため、入院することもできず、于さんの娘の家に移し、慎重に世話をしていた。

 袁江さんは内傷と外傷がひどく、口と鼻から時々出血して意識がはっきりする時もあれば、昏睡状態に陥る時もあった。

 2001年11月8日午後、袁江さんの足の腫れが急におさまり、9日午前1時、頭を斜めにしたまま寝付いた。その場にいた人たちは、寝ている袁江さんの邪魔をしたくないと思い、部屋を出た。

 袁江さんは静かに眠り、痛みで一晩中眠れなかった時とは違い、長時間静かに寝ていた。見舞いに来た同修が、袁江さんが亡くなっていることに気づいた。

 二、迫害による永遠の傷

 1)父親、母親、姉

 袁江さんの母親は「11月8日(2001年)午後9時過ぎ、駅まで三女を迎えに行きました。9日の朝、同修から電話がかかってきたときは、婿の電話だと思い、気にしませんでした。再び着信があって、そっちに行くようにと言われました」と当時の状況を話した。

 「同修の真剣で厳粛な表情を見て、きっと何かが起きていると思いました。そして、息子が寝ている部屋に連れて行ってくれ、その場で、私は気絶しそうになりました。日夜恋しく思っていた息子ではなく、骨と皮ばかりに痩せて、顔もすっかり変わり、両目はわずかに開き、口と鼻から血が流れ出ており、まったく動かずに横たわっていました」

 「私は頭が真っ白になり、涙が泉のように溢れ止めることができなくなり、心にナイフを刺されたような悲痛を押さえ、息子の少し開いた目を手で閉じました。息子の額に触れた時は、すでに冷たくなっていました。そして、息子の少し硬くなった手を少し動かし、足を見た途端、気絶しそうになりました。息子の右足の膝から下は驚くほど黒くなり、ふくらはぎには手の大きさくらいの範囲が皮膚も肉も無くなってしまい、足の右側にも一カ所の欠損があり、足全体が枯れ枝のようになっていました。目の前は記憶の中にある息子ではありませんでした」

 袁江さんの母親は激痛に耐えながら、家に帰って袁江さんの父親に悲報を伝えた。

 父親はそれに耐えられなくなり、悲しみに暮れた。

 袁江さんの3番目の姉は海外から帰ってきたばかりだったので、両親は娘にショックを受けてほしくなく、身を固くして痛みに耐え、弟の死を末娘に伝える勇気もなかった。

 その後、3番目の姉が海外に戻って、明慧ネットで弟が迫害のため死亡した記事を読んで、唖然とした。彼女はそのような残酷な事実を受け入れることができず、その痛みは今も続いているという。

 袁江さんの父親は、息子は自分の「最愛」の精神的な支えであったという。袁江さんが亡くなった後、父親は人との接触を嫌がり話すことも少なくなり、家で1人で泣いていることもあった。この状態が数年続き、2011年1月袁江さんの父親はこの世を去った。

 警官が袁江さんの居場所を探すことを口実に、自分と他人に絶え間なく嫌がらせをさせないために、袁江さんの母親は、袁江さんの勤務先に電話をし、袁江さんの居場所を伝えた。その後、袁江さんの勤務先と蘭州市公安局の関係者は、袁江さんの遺体を運び出した。

 袁江さんの母親が持って行ったセーターやジャケットなどの服は、袁江さんは着ることがなく、ずっとパンツ一枚と薄手のシャツだけを着ていたという。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/18/415789.html)
 
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