文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月17日】時が経つのは早いもので、あっという間に新しい年になりました。法輪大法は性命双修の功法であるため、今でも私は若い姿を維持しています。大学の授業では、よく大学生と間違われることがあります。授業が終わると、不思議そうに私のところに寄ってきて、「先生、どうしてそんなに若いのですか? 私たちと同じくらいの年齢ですか?」と聞く学生が多くいます。
私は二度、重度のうつ病に陥りましたが、法輪大法の恵みを受ける中でうつ病の泥沼から抜け出し、清らかな生活を送り、心が穏やかになって経済的にも自立することができました。
私が法輪大法を修煉し始めたのは1997年で、まだ9歳の時でした。1999年7月、中国共産党の江沢民集団が法輪大法と大法弟子への迫害を開始した当時、まだ独立して修煉をしていなかった私と家族は、徐々に大法から離れていきました。中学に入ってからは、ずっと学校の下宿生活を過ごしていたので、「大法の師父は素晴らしい」、「法輪大法は素晴らしい」ということを心の中で覚えている以外は、ほとんど大法に触れることはありませんでした。
法を勉強していなかった数年の間、毎日授業の勉強で頭を悩ませ、成績を上げるためプレッシャーを抱えながら忙しく頑張らなければと(思い)、時には健康上の問題もありました。幼い頃、母が法を読んで自分が静かに聞いていた日々を思い出すたび、その時の心はどんなに穏やかで落ち着いていただろうと懐かしく感じました。
幸いなことに、師父は私を見捨てられませんでした。私は音楽を専攻し、2011年にスムーズに大学院に進学しました。大学院の仲間が私を修煉の道に引き戻してくれました。大法に戻ってきた時の喜びを今でもはっきりと覚えています。最初に坐禅した時、単盤だけでも非常に痛かったこと、初めて学生の保護者に迫害の真相を伝えた時、党員だったその保護者が脱退したこと、芸術試験を受ける全クラスの学生を共産党の組織から脱退させたこと等など、すべて覚えています。
残念ながら、学法は子供の頃から親を頼りにしていたので、戻ってからも、人心や執着が多く、どのように修めるか分かりませんでした。そのため、数年間ずっと緊張感がなく、のんびりしたままで、修煉において精進していないなかった私は、二度うつ病を経験し、人生の谷に陥ってしまいました。
一、師父は私をうつ病から救って下さった
2015年の夏、初めての彼氏と付き合いました。彼は修煉者ではありません。 しっかりとした個人修煉ができていないため、旧勢力に隙に乗じられ、うつ病になってしまいました。ある日、煉功をしていたのですが、法輪を抱える時に、腕が重くて持ち上げることができませんでした。自分が相当長い間きちんと煉功と学法をしていないことに気がつきました。そして、悲観して落ち込んでしまい、煉功さえできなくなって、どうやって修煉するのだろうかと思いました。
しかし、煉功が上手く出来なかったその日、慈悲深い師父は私を励まして下さり、買ってきたぶどうに優曇華の花を見せて下さいました。ぶどうを洗っても優曇華の花は落ちなかったことで不思議に思いました。師父が希望を捨てないようにと励まして下さったのが、心の中で分かりました。優曇華の花が咲いているぶどうを小さい箱に入れて保存していたら、ぶどうが腐ることなくレーズンになり、その上に咲いている白い優曇華の花は、その姿を変えることなく、今日まで私の手元に残っています。
その後、慈悲深い師父は同年代の数人の同修と同じ部屋を借りるように按排して下さり、修煉と生活の両方で大きな支えを与えて下さいました。苦しくて諦めようとした時、「絶対に大法に泥を塗ってはいけない」という一念を守り続けました。その後、常人の彼氏との連絡を断固として断ち切り、1年間、絡み合って苦しく引きずっていた恋の情を取り除きました。そうして、私は初めての鬱の泥沼から抜け出したのです!
しかし、どう着実に修煉するか分からないために、また甲状腺機能亢進症の症状が現れ、二度目の鬱病になってしまいました。借りた業力の返済があり、自分の修煉ができていない原因もあってこんな苦境に陥っているのだと分かりました。師父は私を見捨てられず、同修たちを私のところに来させ、私を上に引っ張っていくように手配して下さいました。リレーバトンのように次から次へと私のそばに来ました。
年老いても元気なおばさんがいて、非常に優しい顔つきで、知り合いではなかったのですが、私がうつ病で薬を飲んでいると聞いて、とても心配し、私のところに来て一緒に学法するようになり、とても助かりました。年配者の同修や他の同修たちは毎日来て、私と一緒に法を勉強したり交流したりしてくれました。
すぐに私の思惟が開き、修煉に戻る前に師父が悟らせて下さったことを思い出し、夢の中で師父を見ました。巻き毛のような青い髪、黄色い袈裟を纏われた師父は、蓮花座の上に立っておられて空中に佇(たたず)まれ、私を憐れみの目で見ておられました。空は、回転する法輪と卍符で埋め尽くされ、空全体が師父の光輪と回転する法輪と卍符に照らされ、比類ないほどの無限の光の炎に包まれていました。
私は修煉に戻ってきた頃の精進の日々を思い出しました。バスの中でも授業の中でも、いつも積極的に大法の真相を衆生に伝えていたことや、家族を再び修煉させるように一所懸命に助けたこと、毎回良く行った後に美しい夢を見たことを思い出しました。そう言えば、自分もよくできている時があり、かつて自分も真修の大法弟子でしたが、すっかり忘れていただけでした。
私の主意識はますます強くなり、体のむくみもなくなり、顔も清々しく精進していた頃に戻ってきました。
その日から、私はすべての薬を飲まなくなりました。その時に医者の警告が頭に浮かんできて、それが思想業力だと分かりました。私は心の奥底から強大な正念を発しました。これから、すべての落ち込み、消極的なもの、マイナスな物質と生命は、私と何の関係もなく、私は大法弟子であり、すべて常人の理に制約されません。 思想業力の妨害を強力に否定したのは、2年ぶりのことでした。
その後、学法の日々で、師父が話された法の一文一文がとても心に響き、すべて頭の中に入りました。身体も浄化され、嘔吐、下痢、頭が重く感じる症状が出て、水を飲むことすらできなくなりましたが、心の中ではとてもうれしくなり、数人の同修と学法を続けました。
よく覚えているのは、身体浄化の症状が現れた翌日に、たまたま『轉法輪』の第二講を勉強した日のことです。法を読む順番になった時、「苦しければ苦しいほど、物事が極まれば必ず逆の方向へ転化するので、身体全体が浄化されようとしており、浄化されなければならないことを苦しさそのものが物語っています。病根はすでに取り除かれており、残りはほんの少しの黒い気で、それを外に発散させるので、あなたにほんの少しだけ難を与え、ちょっとした苦しみを嘗めさせることになります。 あなたが全然苦しみを嘗めないわけにはいかないのです」[1]というところを読んだ瞬間、涙が出てきて、これは師父が私を励まし、心配しないようにと教えて下さっているのだと分かりました。3日後には嘔吐と下痢がすべて消えました。
二、師父のご加護の下 正念で黒い巣から出てきた
2017年9月末、中秋節と10月の連休を利用し、同修のHさんから一緒に故郷に帰ろうと誘われたので、行くことにしました。彼女が一緒に電車の切符を予約してくれて、9月29日に2人で電車に乗って出発しました。
しかし、電車が30分ほど走った時、私が電子書籍で学法をしていたところ、乗務警官が寄ってきて、「○○は誰?」と私の名前を呼んでいました。私は答えた後、乗務警官室まで来るようにと言われました。彼は私のカバンの中から身分証、USBメモリーカードと煉功音楽が入ったメモリーカードを取り出し、電子書籍を開くと、「この内容は何だ?」と怒鳴りつけ、それをポケットに入れました。
その後、また上司室の車両に連れて行かれました。40代に見えた上司は「何か活動に参加しているのか?」と聞き、「いいえ」と答えました。「じゃあ、なぜ狙われたのか?」と聞き、 私は「知りません」と答えました。その上司は「こんな若いのに、いつ煉り始めたのか?」と聞き、私は「9歳の時です。その時、大通りや地域の大勢の人たちが煉っていました。その後(中国共産党に)迫害され、ずっと学校で下宿したから、一時的に離れていました。そのあと……」
私は穏やかに話し、再び修煉し始めたことや、重度の鬱病から抜け出したことを話しました。 私は誠実に「もし法輪大法に救ってもらわなければ、私は今どうしているかわかりませんし、その前にこの世から消えていたでしょう。今日、ここであなたと雑談することもできなかったでしょう」と言いました。すると、上司は乗務警官に向かって「向こうに電話して、捜査したが何の問題もないと言っておいて、電子書籍を返しなさい」と指示しました。そして、その乗務警官は「何も見つからなかった」と電話をかけました。
雑談の中で、私が音楽の修士課程を取得し、良い仕事に就職していると知ったとき、かなり感心していました。言葉の中に、大法弟子を尊敬する気持ちも込められていました。
しばらくすると、若い男女2人が入ってきて、大学を卒業したばかりの同級生で、人生についてかなり戸惑っていて、私と話をしたいと言って隣に座りました。男性は「何を信じればいいのかな?」と質問しました。私は「一般の人は、良心を信じれば結構ですが、真・善・忍に基づいて行動すれば、間違なく一番いいです」と言いました。そして、会話が続いているうちに、その上司も、当局が法輪功学習者(以下、学習者)を生きたまま臓器を収奪していることが事実かどうかについてなど、いくつかの質問を私に尋ねました。私はすべての事実を伝え、彼らも理解を示してくれました。
やがて午後6時になり、そろそろ駅に着く頃、身分証やUSBメモリーカードなどが返却されていないことに気づいたので、乗務警官に尋ねたところ、「心配しないで、電車を降りるときに全部返却するから、あなたのものは押収しない」と答えました。駅に到着しましたが、それでも荷物を返してくれませんでした。 電車を降りると、駅まで迎えに来た2人の男(私服警官)と一緒に行くようにと言われました。私は同修のHさんを巻き込まないように、「先に行って下さい」と言って、2人の男について行きました。
もうすっかり暗くなり、彼らについて取調室に行きました。若い警官は私のカバンの中から真相紙幣を取り出し、「これは何?」と不機嫌そうに尋ねながら数えていました。「どこで手に入れたのか?」と聞かれたので、「これは自分で集めました」と答えました。「集めた? 法輪功のファンか?」というので、「そうです。これが私の信仰です!」と答えました。その瞬間、彼は電気に打たれたかのように凍りついて、一瞬私とどう向き合えばいいのか分からないような状態になっていました。
そして、車の中でどのように法輪功を拡散したのか、自白しなさいと、署名の協力を求められました。私は「真相を知りたいなら話しますが、供述書に署名することは絶対に無理です。私は犯人でもないし、罪を犯していません」と言うと、「何も言わなければ、こっちがどうにもならないと思っているのか? ここは外国だと思っているのか? こっちには証人と証言があり、電車でどうやって乗客に法輪功を宣伝したのかを知っている。これらのものさえあれば、十分に判決を下すことができる!」と言いました。
私は心を動じず、彼らの言葉を無視しました。その時、車に乗っていた2人の若い男女が偽証をしに来たと分かりました。
夜になると狭い部屋に入れられ、ずっと眠れない状態が続きました。旅の出来事を振り返って、一つ一つの人心を探しました。車内ではその上司に気持ちよくしてもらい、電子書籍を返してもらった時には、何とも言えない感激の気持ちがありました。そこで、発正念をしてこれらの人心や人間の情というものを取り除きました。
探し続けていくと、恨む心も見つかりました。同修のHさんと一緒に帰省しなければ、このような事に遭遇しなかったのではないかと考えました。これは潜在意識の中にある恨みという物質だと知っていたので、すぐにそれを排除しました。これは、自分が向き合わなければならないことであり、ここで遭わなければ、いずれ何処かで遭うはずだと思いました。もっと明らかな恨みは、電車に乗っていた2人の若者と、表面上とても親切そうな上司に対する恨みでした。裏で私を陥れようとしているなんて、しかし、これが怨恨心だと気付き、すぐに自分の考えを修正しました。それに伴い、ある慈悲が湧き上がってきて、すぐに恨む心を取り除きました。
また「一番放下できないものは何か」と自問自答しました。その頃は、多くの学生を教えていたので、仕事の面において絶好調の時期でした。金銭や職業は私を遮ることができず、唯一放下できないのは父親への情だけでした。「心を動ぜずにいられますか? 」と自分に言い聞かせました。「できます!」と、決心して家族への情を乗り越えようとした時、放下しました。
こうして一晩中、内に向けて探し、師父の法を暗唱し、心の中はとても広くなりました。うつ病の時期と比べて、黒い巣の中に閉じ込められているとはいえ、内心は明るく、落ち着いて怖くなったりすることはありませんでした。
翌日の昼頃になり、「健康診断」に連れて行くと言われました。初めてこのようなことを経験し、明慧ネットの迫害に関する記事をほとんど読んだことがなく、臓器摘出の時に血液検査が必要であることだけを知っていて、その時は「もしかして……」と思いました。「なぜ血液検査が必要ですか? 検査は受けません!」と言うと、「みんな検査を受けている!」と返事が来ました。そして、公安病院で血圧と血液検査を受けました。結果が出た時、警官は「15日間拘束する」と言いました。その時、自分のすべてを師父にお任せしようと考えました。
誰に知らせるのかと聞かれた時、母も修煉者で、父には知られてはいけない、他の同修と連絡が取れないので、誰にも知らせる必要はないと答えました。留置場に向かう途中で、道に大きな穴があったため、通行できない状態になりました。運転手は「そんなはずはない!」と言いました。彼はここを通ったばかりだそうです。回り道をして留置場に着き、玄関から中の鉄の扉を見ても、私は動揺しませんでした。
その時、警官の携帯が鳴り、私を解放する指示があったと言いました。そして、「運転手にお礼を言わなければならない、彼が道を間違って遅らせたから、もし、早く着けば、入所手続きを済ませると、どうにもならないのだ」と警官が話した時に、私の心の中で、「師父が私を守って下さったのだ」と分かりました。
師父の慈悲深いご加護のもと、私は正念で黒い巣窟から出てきました。師父が説かれているように、「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[2]でした。
後で知ったのですが、同修のHさんは母親や他の同修と連絡し、みんなが発正念をして協力してくれました。同修に感謝します!
三、大法の恩沢
その後、新しい環境に移住し、新しい修煉生活が始まりました。知らないうちに、修煉状態はますます良くなり、学生も増えました。それから、立地、間取り、住環境などで最適な家を購入しました。
ある日、鬱の時に辞めた芸術学校の校長先生が訪ねてきて、学校のトップクラスの理論課程と専門技能の授業をして欲しいと、給料を上げる条件を出してくれました。そして、私は芸術学校で唯一、理論と専門の授業を指導する教師になり、一番高い給料をもらう教師でした。
それと同時に、私が在籍していた大学の学部長から連絡があり、面接の手続きをする必要がなく、関係する資格書類を持って来ればいい、大学での授業をして欲しいと言われました。通常、大学の教員になるのは、学歴など各方面で厳しく要求されていますが、私は心の準備もなく、神話のように省内のトップレベルの大学に勤務することになりました。
便利のために車を購入しました。以前の鬱状態では、歩いてもすぐにつまずいて転んでしまうし、外出しても道に迷って家が見つからないし、地下鉄に乗っても方向を間違えてしまうほどの私は、ベテランのドライバーのように運転することができました。師父は私の知恵を開いて下さったのだと思いました。
大学の授業では、学生に正統なルールを決めました。授業中、意識的に良い人間になるための道理を教え、明快かつ簡潔な授業を行い、宿題をチェックする時に励ましの言葉を書きます。学生たちは私の授業の中に、長い間失われていた学習への熱意を見出したかのようで、「先生の授業が楽しい」という声が多くありました。
今までを振り返って、師父の広大な佛恩に深く感銘を受け、法輪大法を修めることは幸福をもたらすことだと体得しました。どうやってお金を稼ごうか、どうやって社会生活を営もうかと考えたことはありませんが、すべてが清らかで、平和で、自分を律するという自然でシンプルな状態にあります。
修煉の道には魔難がありますが、私の心はいつも光に満ちています。その光は内心の最も固い信念です。慈悲深く救ってくださった師父を思い出すたびに、いつも思わず涙で目を潤ませています。「師父、お疲れ様でした!」と言いたいです。弟子は師父のご加護に感謝します!
注:
[1] 李洪志師父の著書:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」