文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月18日】私は、長い間ずっと思っていた病業に関する考え方について、同修と交流してみたいと思います。
「師父はなぜこのように仰ったのでしょうか?」と私は考えてみました。大法弟子の修煉は、初めから師父が学習者の身体を乳白体状態になるまで浄化されるのです。大法の修煉は初めから非常に高い次元で修め始めるからです。ゆえに、私達は非常に高い次元から物事を理解しなければなりません。つまり、大法弟子には病気は存在しません。しかし、病業状態が身体に現れることがあります。人間は六道輪廻の中で業を作ったので、業を消去する為です。しかし、それは病気ではありません。
それでは、病気は存在しないのに、なぜ病業の関に遭遇するのでしょうか? 病業の関に遭遇することに言及すれば、常人の病気に対する習慣的思惟を病業状態の表われに連想させるのでしょう。 それでは病業状態の表われに対する執着を生じさせてしまうのではないでしょうか? そして、この病業状態から脱出するために上辺の努力と精進をするでしょう。実質上、その精進はただ、急いで身体に現れた病業状態を改善したいだけのものです。第一に考えたのは「これは心性の関だ。心を静めて内に向けて探さず、長い間、自分に放下できなかった執着があるのだろうか? 常に心性を着実に修めていなかったからなのか? 旧勢力が大法弟子の心性に漏れがあることを迫害と妨害を口実にして、隙に乗じられたのだろうか? 常人の観念が多すぎて、自分の正念が埋もれていたのだろうか?」等のことではありません。正念を強めて、心性を高めることが出来ず、従って、第一に考えるべき正念もありません。
大法弟子の頭の中から「病」の観念を投げ出さなければならないと思います。大法弟子の頭の中には「病」という文字があってはなりません。病気ではないので「病」の文字に触れてはなりません。なぜならば、その文字は一つの表現に過ぎません。私達は徐々にこの文字が大脳の中で刻まれた印象を薄れさせなければなりません。むしろ、私達の生命においてはこの文字は存在しなかったと言えるでしょう。
往々にして身体に病業が現れた時に、習慣的な考えはまず「私はまた何か病気を患っただろうか? 私は認めません、私は大法を修めているので、病気などはありません」と考えるのです。表から見てこれはまるで正念のようですが、実は既に病気を心配している表われなのです。なぜならば、人間は病気に関する認識は「病気は苦痛の代名詞」なのですから。病気に対する考えは「排斥する」ことが間違いないのです。誰も苦痛を味わいたくないからです。
自分の身体に深刻で不正確な状態が顕れた時に、ようやく緊迫感を感じ、ようやく内に向けて探し始めます。そして、たくさんの執着心を見つけて、努力して法を多く学び、功を多く煉ります。上辺はこれらの執着心を取り除くために大変努力して精進しているように見えますが、実は自分の病状を考えているばかりで、清浄心を保つことが出来ません。ゆえに、身体は短い期間で著しい変化を得ることができません
「自分の病状が早く改善されるように」と言う思いは、自分自信がまだ気付いてない或いはまだ認識できていない執着心が残っています。はっきり言いますと、精進の目的は不純であります。自分は業力に耐えたくない表われです。また、安逸を求めている考えが潜在意識にあり、病業のような状態は速く消えて欲しいという考えがあるかもしれません。そして、非常に焦り、非常に精進しているように見えます。しかし、身体の状態に対する執着を放下できていません、その精進は有為であり、病を取り除くために、身体が楽でいられるためのものでもあります。ですので、このような状態は長引くと思います。
同修たちの力強い助けの下で、徐々に状態が改善される可能性はあります。そして、自ら見つけ出した執着のことを考えなくなり、前のように精進しなくなるでしょう。なぜなら、身体が楽になったからです。しかし、心性はこの病業の関を通じて高めることが出来ませんでした、見つけ出した多くの執着心も取り除かれませんでした。ただ少しばかりの苦痛に耐えただけなのでした。それでは今回の心性の関は本当に乗り越えられたのでしょうか?
人を見て法を説くように、このような執着心を持っているので、その執着心を取り除くための心性の関が現れるのです。長期にわたり、執着心が取り除かれない、時々刻々内に向けて心性を修めることが出来ず、真に心性を高めず、法の中で昇華することが出来ないため、その執着が助長されるのです。心性の関と魔難は徐々にたまっていくのです。
ある同修は病気の虚像と病業の関をとても恐れています。しかし、修煉者は修煉の過程で遭遇する全ての難、全ての関はどれもが心性を高めるためのものではないでしょうか? 心性を高めるためのものである以上、それは全部良いことではないでしょうか? それではなぜそれらの心性の関を恐れているのでしょうか? 私達は病にたいして、形成された恐れる観念が災いしているのではないでしょうか? 苦痛を恐れているからだと思います。修煉者は心性が向上出来る機会と要素を拒否するとでもいうのでしょうか?
いわゆる「がん患者」の同修は治癒しました。なぜ治癒出来たのでしょうか? 個人的な考えですが、その同修は自分の病気の症状を考えません。「病」に対する執着がありません。「病」と言う概念がありません。「病」の症状を変えようという考えがないからだと思います。分かりやすく言うと、その同修は自分の「病」を全く考えません。「病」に対する根本的な執着と観念を放下したのです。それが故に表に顕れた病状の改善も速いのです。
修煉することは即ち心性を高めて、三つのことをよく行う事です。大法弟子として、心に衆生を救い済度する一念だけを抱きます、それは自分達の使命なのです。もし頭の中が法のことでいっぱいであれば、身体の状態を考える時間があるのでしょうか? もし、心が清浄でなければ、悟性が高くなければ、大法の法理に沿って自分の認識を高めることが出来なければ、正常ではない身体の状態は良い方向へ向かい変化が起きるのでしょうか? すなわちこれは正念を持てるかどうかの問題ではないでしょうか?
個人的な悟りですが、正念を以て旧勢力の迫害と妨害を取り除くことはとても重要だと思います。「病」の悪循環から抜け出し「病」に対する観念を変え、心の雑念を無くし、心を正常に保ち、真に内に向けて探し、長い間放下できなかった或いは認識出来なかった執着を根こそぎに掘り出して、法の中で正念を増していれば、この関は必ず乗り越えることが出来ます! もし私達の主意識が非常に強ければ、法に沿って自分の思惟を正すことが出来れば、修煉の道で勇猛邁進することを阻むものがまだ存在するのでしょうか?
個人的に修煉者の思惟は単純であればあるほど良いと思います。単純な思惟は次元の低い表われであるとは限りません。かえって、心性を高めるためには有効だと思います。
個人の修煉で次元に限りがありますので、ご参考になれば幸いです。法に則っていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『転法輪』