「体に異常が出た」ことについての考え
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年2月22日】ある日、外で真相を伝える時、ある若い女性同修と出会い、私たちは約2時間交流しました。この同修は最近病業の関を乗り越えたばかりで、病業が深刻化した時、多くの同修が彼女のために発正念をしてくれたそうです。この同修は、病業が現れたばかりの時、あまり気にしないようにして、やるべきことをやり、同時に発正念をして、病業を否定していました。しかし、病業が重くなり、しばらく続いたそうです。

 明慧ネットに、多くの「病業を乗り越える」文章の中に「ある日、体が突然…、私はあまり気にしないで、やるべきことやっていた。しかし数日後、病業が重くなり…(具体的な病業が現れ)、自分の生活と三つのことをすることを妨害してきました。その後、私は内に向けて探して心を修め、旧勢力の按排を否定し、この「虚像」を認めず、師父と法を信じる心を固める」のような内容をよく目にします。同修の関を乗り越える体験を読み、本当に切実に感じています。

 体に病業のような状況が現れた時、同修の念は正しいのに、なぜますます重くなり、さらに大きな関になるのでしょうか?

 私はこのような体験はありませんが、自分の理解としてこのことを分析したいと思います。病業が現れたばかりの時、通常は軽くて、徐々に重くなります。同修は「最初は気にしていない」と言いましたが、恐らくすでに気にしていると思います。例えば、同修は「これは旧勢力の迫害だ『虚像』だ、この状態を認めないで、私はやるべきことを変わらずやる」と思うかもしれないでしょう。

 つまり、病業が現れたら、すぐに旧勢力の迫害だと思います。これは自分を「旧勢力と戦う相手」とし、その位置に置き「旧勢力が虚像を通して私を迫害するので、私は否定する」と思うことです。しかし、旧勢力と思うなら、旧勢力が本当に来ます。旧勢力は恐らく「この程度では、あなたを動かせないので、もっと力を入れよう」と思うでしょう。こうすれば、この空間での表現は、病業がますます重くなり、ますます深刻になり、激しくなり、最後は本当に「虚像」と戦うことになります。

 この過程で、旧勢力は自分がやりたいことをやり「君が試練の中で、やっていけるかどうかをテストする」、そうして徐々に旧勢力の按排した脚本に従って行うでしょう。これは旧勢力の按排に従うことになるのではないでしょうか? 正念が強い同修は乗り越えましたが、やはり受けるべきではない妨害を受けたのでしょう。正念が強くない同修なら、病状が重くなり、時間が長くなると、さらに旧勢力に命を奪われた人もいます。

 これは師父が望んでおられることではありません。師父は「旧勢力がやったことを私はすべて否定し、認めません。大法弟子が苦しみに耐えるような事はことさらあってはいけません」 [1]と説かれました。

 病業を引き起こす原因はいろいろありますが、ここで一般的な原因を話します。一つの原因としては、この人は長い間漏れがあり、旧勢力にその漏れを握られて、もしまだ悟らなければ、長い間妨害し、さらにもっと深刻になります。旧勢力はやっとあなたを下に引っ張り込む口実があり、徹底的にやることにします。もしこの状況なら、私たちは魔難の中で内に向けて探して、法に基づいて正せば、体はすぐ良い方向へ変わります。師父は「心性が高まってくると、身体にも大きな変化が起こります」 [2]と説かれました。

 もう一つの状況について、私も詳しく話したいと思います。この状況は、私たちが精進している状態で、特に何か法を実証することを行った時、体が突然悪くなることです。この状況が現れたら、すぐに内に向けて探し「何か良くない考えによってもたらしたのではないか」と考えて、もしなければ、私は良いこと(業力を滅すこととか、体を浄化することとか、次元の向上、或いは功が伸びること)だと思います。これは良性的な過程で、良い考え方です。

 もし、良いことだと思うなら、心の状態は穏やかで、抵抗や排斥などをしない、心配するとか、恐れる心もありません。修煉について、異なる次元に異なる状態が現れ、穏やかな心で各次元に現れた良くない考えを取り除けばよいのです。つまり、気持ちが良ければ嬉しくなり、良くない感覚があれば心配するなどのことによって、情緒の浮き沈みということがなくなることになります。

 もし、体に何か変な感じがあればすぐ妨害とか、旧勢力からの迫害などと考えれば、あなたの空間場(心、身体)はどうやって穏やかになれるのでしょうか、あなたの精神は緊張して、肉体は苦しく、この状況はさらにもっと良くない状態を引き起こし、自分を良くない場の中に置いたのです。これはすべて自分の一念によってもたらしたものです。

 自分が如何なる次元にいても、修煉の念があれば、師父はすべてを見守って下さり、私たちのために全てを按排してくださいます。自分が法を実証する時、突然、体調が良くない状態になっても、師父は私たちを構わないのですか、師父の代わりに旧勢力が私たちを構うのですか、そのようなことはありません。

 大法弟子は「師父の話に従う」とよく言いますが、ではなぜ「体の具合が悪くなる」などの感じがあると、まず考えるのは「旧勢力」のことですか? 恐らく「体の具合が悪くなる」ことは良くないことだと思って、良くないことなら、旧勢力の自分への迫害だと思うでしょう。私たちは、これを否定しなければならず、受け入れません。

 私の角度から見たのは、人の「体の具合が悪い」という観念ため、苦しみを嘗めたくないという人心で、この「体の具合が悪い」ことによって、未来に何を引き起すかわからないための恐怖や心配など、この「虚像」を「迫害されている」と見なして、排斥し、結局旧勢力によって迫害されたのです。

 師父の法身は私たちを守っているのではないでしょうか? なぜ旧勢力が妨害を与えますか? それは私たちが求めたからです。師父は「われわれの宇宙には、自分の追求しているもの、欲しがっているものについては、他人はふつう干渉することができないという理があるので」 [2]と説かれました。だから私たちは修めるべきです。私たちは自分の耐えたことが見えますが、慈悲なる師父が私たちのために耐えてくださった多くのことについては、私たちには見えていません。

 師父は「正念が生じ、このすべてが虚像で、旧勢力の妨害であり、長年大法を修煉しているので、この状況は起きるはずがないと思い、本当に心からの一念が生じれば、すべてが消えてしまいます」 [3]と説かれました。

 以前、私たちは師父が説かれた「虚像」の法について、円融的に理解していませんでした。私は「円融」の単語への理解には(異なる角度から)どのように解釈しても通じることと思っていました。「真相」がわからなければ「虚像」に対しても見通すことができないで、その病業の症状がはっきり見えますが、どうやってそれが「虚像」だと理解するのですか? その時、私の認識は、「師父は旧勢力が按排したすべてのことを認めないので、旧勢力の按排は存在すべきではない、私たちも認めない」ということです。私は「旧勢力の按排が法に合わない」という角度から、それが「虚像」だと認識して、発正念で否定します。今私は「病業の虚像」に対して、今の次元での円融的な認識がありました。例えば、私たちは常人の身体の「潰瘍」、「腫瘍」、「炎症」などを見て、これはすべて「虚像」で、本当の真相はもっと深い次元に霊体がいるから、その霊体が発した「場」によって常人の身体が異常になるのです。

 では、今現れた「体の具合が悪い」という虚像の背後に隠した真相は何でしょうか? 私の理解では、それは体を浄化するため、功を伸ばすため、或いは師父の励ましによって現れた現象で、自分が正しいことを行ったことへの奨励です。同時に私たちへの試練です。師父は各次元に按排された(私たちが向上するため)の関はいろいろな形で現れます。或いは旧勢力の按排である可能性もあり、師父は「旧勢力はあなたの心を取り除き、あなたができるかどうかを試したいとき、以前の病気のところがまた痛くなるようにし、または病状が現れ、症状まで同じで、あなたが大法を信じるかどうかを見ています」[3]と説かれました。しかし、師父は相手の計略を逆用して利用します。真であるか偽であるか、悟りが大事であり、私たちが動揺するかどうかの試練で、合格したら次元に向上します。この時、その「異常な状況」は速やかに改善し、すべてのことに対して手遅れになりません。低い次元の関は高い生命に届かないのです。これは次元向上の過程で、修煉中の過程ではないでしょうか。

 修煉者として、修煉の限られた時間内で速めに向上しようという考えがあって、修煉の過程で、体もますます良くになるように変えます。しかしこの変化は、私たちにいろいろな感じをもたらし、気持ち良い時もあり、辛い時もあり、すべて正常な状態です。

 ある日、私はある同修とあって、交流していた時、時々咳が出て、声がかすれていました。同修は「このことを否定して、認めないように」と言いました。私はあっけにとられて「何を否定するのか? 何を認めないのか? 旧勢力ですか? これは体の浄化ではではないのですか。いいことなのに、旧勢力とは関係ないでしょう」と思いました。このことについて、なぜ2人の考え方が異なるのかと考えました。

 もう一つの言い方があります。体に病業が現れる場合、個人修煉の時期なら、業を滅することであり、正法時期なら、旧勢力の大法弟子への迫害であり、認めてはいけません。私の考えを述べたいと思います。「大法の修煉原則はかわらないのです。修煉の基本過程は、学法煉功、心を修め、業を消去し、功を伸ばすことです。これらは旧勢力の現れによって変わることはありません。旧勢力の存在は単純に大法弟子の責任をもっと大きくさせ、旧勢力は衆生を滅ぼし、大法弟子は衆生を救い済度します。修煉の環境がもっと複雑になったため、法は大法弟子に対する要求をもっと高くします」

 修煉の初期、法を勉強して悟りの中で、私は明確な考えがあります。「如何なること、常人が異常と思っても、修煉者に対しては正常である」。私は業力が重く、執着も多いので、時間をしっかりとって業力を消去するように考えて、心身ともに異常な状況があれば、すべて良いことなので、すべての「異常状況」を排斥しません。辛い時、大きな業力を消去し、大きな変化があり、大きな向上になります。繰り返し現れることなら、もっと深く浄化することになります。時々、私は「自分が耐えられるなら、多めに耐えても良い」と思います。

 自分がどんな状態にしても(異なる次元に異なる基準がある)、体に変な状況が現れると、法に基づいて内に向けて探して、自分を正し、師父と法を信じて、師父が認めないことなら私たちも認めず、修煉者なら病気ではなく、無視して、逆に自分の向上ための「良いこと」だと信じる、これは私の考えです。心性が向上すべき次元の基準に届いたら、すべての症状が速やかに消えます。旧勢力のことはあまり考えずに、思想は「旧勢力」から脱出して、口だけで「旧勢力を否定する」でなく、行動上で否定するようにします。

 ある日、体が急に辛くなり、通常なら、心性の問題でなければ、体の浄化とか、功が伸びるなどと思いますが、今回は大変辛くて、そして時間も長く、約1時間以上続きました。私は「恐らく自分が旧勢力の迫害だと思わずに、否定してないから、旧勢力を放任してから、迫害が来たでしょう」と思って、旧勢力に対して発正念しました。突然、思惟伝達のように、頭の中に、「辛くなったら、それは体の浄化ではないのですか?」という言葉が浮かびました。私は「体の浄化だ」と言いました。即時、その辛さが弱くなりました。今振り返って考えると、その時本当に信じるかどうかの試練ではないでしょうか。

 ある日、わたしは「自分に楽観すぎるのではないか」と聞きました。確かに、心性上の問題があれば、体に異常な状況が現れると、すぐ内に向けて探して、発正念を通して、心性が向上すると、乗り越えることができます。それ以外、ほかの状況で体に異常な状況が現れると、私はほぼ「体の浄化」だと思います。特に通常の修煉状態に異常な状況が現れると、迫害ではないと思います。理由がなく迫害が現れることはありません。

 私は、法の勉強を通して、体の変化は中から一層一層と外へ突破して、最後の表面まで達することが出来るのだと分かりました。ミクロの次元で何が起こっているのか、私たちにはわかりませんが、この空間で現れたのは私たちの肉体に異常が現れたことでしょう。ですから、この関が現れると、私の心はいつも穏やかで、緊張とか心配などの感じはなく、単純に自分の忍耐力への試練だと思います。耐えている時、同時に楽しみがあり、つまりこの関を乗り越えたら、以前よりも、心身ともに良い感じになることが分かっています。関を乗り越える過程の中で体の細かい変化や玄妙さに注目しています。

 5年前、外で真相を伝えていた時、ある人がスポーツ用の機械を使って練習しているのを見て、私もその機械に乗ってやってみようと思い、機械の棒を握ぎり、両足で踏板に立って前後で歩くように動いていました。その時、時間を見るため、両手を棒から離した時、体のバランスを失い、後ろに仰向けに転んでいました。「バンッ」と言う音で、私は頭の中で「早く立たなければ」という念が浮かび、すぐに立ち上がりました。私は「なぜこんなことをしたのか?」と考え、それは今後、真相を伝えることに邪魔が生じた場合このような形で良い方向に転化して魔を取り除くのだと思いました。その後、真相を伝えている時は無事でしたが、家に帰えると、動けなくなり、腰や、足などが痛くなり大変辛くなりました。私は「今回、体に大きな変化があるだろう」と思うと、数秒後にすぐ動けるようにになりました。

 少し休んで、「神韻を見よう」と考え、座っていると、頭が大変重いと感じました。私は「この機会を利用して、頭を浄化しましょう、一石数鳥になり、その辛さを感じないようにする」、そう考えて、神韻のビデオを観ていると、頭の重さはいつの間にかなくなりました。

 全体の過程で、私は邪悪の迫害だと思わずに、自分を迫害される位置に置いていませんでした。心はずっと穏やかになっていました。

 もし、当時考え方を変えたなら、結果も異なるでしょう。もし迫害や魔難だと思ったら、修煉の道の邪悪要素と見なすことになるでしょう。穏やかな心で対応して、良いことと思って、修煉の向上のための要素と見做すことになります。だから、その時の念がとても大事で、何かを思うと、その次には、何かと直面し、得ることも異なります。

 この問題について、私の考えや今の悟りを皆さんと交流して、もし法と合わないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作『各地での説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/14/415523.html)
 
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