気にかける心を放下する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年3月31日】修煉者はある種の人心が多くあれば、それなりの関も多くなり、ある種の観念が強ければ、それなりに払う代価も少なくないはずです。私は気にかける執着心が比較的多いので、普段、子供たちや、兄弟姉妹、同修、親戚、友人のことをいつも気にかけており、一定の期間ごとに「最近はどう?」と電話をしたりします。時々、坐禅や站椿をしているときも、あれこれと考えたりします。

 最近、学法を通して気づいたのですが、誰もが、歴史の舞台で役を演じているに過ぎず、最も身近な家族でさえ同じで、それぞれが自分の道を歩んでおり、誰が誰を変えることができるのでしょうか、誰を左右することができるのでしょうか。 気にかける心から派生した多くの人心や観念が、自分の修煉に多くの厄介なことをもたらしました。

 誰かのことを気に入らなくなったり、誰かを左右したかったり、誰かの代わりに何かをしたくなったりなど、それもこの心から派生したことが分かりました。私は「他人が簡単に自分を変えることができますか?」と自分に聞きました。答えは「いいえ」です。「自分が他人を変えることができますか?」について、その答えは「不可能」です。すべての生命はそれぞれの個性、気質、性格を持ち、異なる大穹の特徴を持っています。大法以外に、誰がその生命を変えることができるでしょうか。このように考えると、気にかける心がある程度淡泊になりました。

 「気にかける」とは本当の自分ではなく、形成された後天的な観念であり、それが悪いものであることに気づきにくく、愛の現れだと勘違いして、無意識に見過ごされやすいのです。それも生命であり、時には強烈に「考えさせる」こともあり、考えれば考えるほど強くなります。多く学法をし、多く正念を発し、それを排斥することによって、少しずつ弱くなります。

 私が子供の頃、年配の方は「天は目が見えない雀を飢死させることはない」という言葉をよく口にしました。その時、私は「目が見えない雀がどうやって食べ物を探すのだろう。どうやって生きていくのか」と心配していました。 修煉してから、雀は目が見えないけれど、神が生きる道を与えて下さるのだ。飢死させないことは按排であり、業を返すためであり、道義であると分かりました。神は誰に対しても不公平な扱いはされないはずです。

 はっきり言えば、気にかけることは道理が分からないから生じたものです。 気にかける心はとても深い情であり、修煉者の罠です。これを理解すれば「気にかける執着」の中で迷うことはなく、その考えを放任せず、すぐに消滅させることができるでしょう。情が出てくる度に、それをすり抜けず、すぐに取り除かなければなりません。精進すればするほど克服しやすく、怠ければ怠けるほど、払う代価は増えるのです。時には、ちょっと気楽に過ごすこともありますが、気がつけば、追いつくのに、もっと多くの努力を払わなければなりません。

 気にかける執着の中に留まらないで下さい。まったく無意味なことです。

 個人の現段階の僅かな悟りです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/27/421011.html)
 
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