夫と私の1万元の話
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 【明慧日本2021年4月9日】夫と私にそれぞれ1万元のストーリーがあります。この事は1999年7月20日から始まりました。

 風雨の中、同修との絆

 1999年7月20日の朝、私たちはいつものように煉功へ朝の煉功に出かけましたが、先に着いた同修が「多くの輔導員が連行されたので、市政府に行って事情を聞きたい」と言いました。

 その日は、空がどんより曇っていたので、家に帰って雨具を用意し、市政府に行きました。現地に着いてみると、政府の入り口の両側にはすでに長い列ができていました。しばらくすると、暴風雨になり、同修たちは雨の中で待っていました。

 2時間が経過したあと、この事は各地の輔導員を連行するための全国統一行動であり、市では判断できないと聞きました。そこで、同修たちは各自解散し、一部の同修は北京へ陳情に行きました。

 私も大法のために公正な声を上げたいと思い、家に帰り10代の子供を連れて、銀行で1万元を下ろして北京に行きました。 なぜ、こんなにお金を引き出したのでしょうか? それは1989年6月4日の天安門広場で民主化を求める学生を思い出し、万が一、多くの同修が何日もかけて陳情を行う場合、その中でお金が足りなくなった同修がいれば、このお金で乗り越えられると思いました。

 北京の陳情局に到着すると、すでに多くの人が集まっており、歩道に何列も並び、遠くまで伸びて、皆が一緒に『論語』や『洪吟』を暗唱し、とても壮観な光景でした。

 午後になると、軍用トラックが実弾装備の兵士を乗せて、法輪功学習者(以下、学習者)を取り囲み、同時に大型ワゴン車もたくさん来ました。兵士は学習者を車に連れ込もうとしましたが、学習者は協力せず、お互いに手をつないで全体を成しました。

 衣類やお金、食料などが入ったリュックは比較的重く、肩にかけていたのですが、引っ張られたりする際に邪魔になるし、子どもを守らなければなりませんので、「このリュックはいらない」と思い、道端にある同修の自転車のカゴに投げ入れました。その後、私たちは豊台体育場に連れ込まれました。

 事件から数カ月後、勤務先の事務員が私に「お金を紛失しましたね? お金を拾った北京の人が電話をかけてきて、連絡先を教えてくれました」と声をかけました。私は、その人は同修に違いない、この善行は同修しかできないと思いました。 すぐに連絡を取ると、北京通県の同修だったので、お金を受け取る時間を約束しました。

 同修の話によると、7月20日の午後、ほとんどの同修がワゴン車に押し込まれた後、後ろにいた同修たちが、沢山の荷物を自転車のカゴに置いたままになっていることに気づいて、それを集めて車に乗せました。豊台体育場で取り残されたので、同修は家に持ち帰って保管しました。そして、同修はリュックの中にあった私の給与明細を見つけ、勤務先に連絡したのです。

 このようにして、夫は私が1万元を紛失したことを知り、私は経緯を説明して謝りましたが、夫は長い間私を責めました。この件に関して、私のやり方が悪かったことは認めますが、当時の状況は本当に怖いもので、どうなるか分からない事態でした。

 夫の飲食仲間の友人たち

 それから十数年後、夫の友人が「会社の資金運営に困っているので、1万元を借りたい」と相談してきました。当時の夫は貸したくなかったのですが、その男性に何回もお願いされて、すぐに返すと約束したので、夫は1万元を貸してあげました。その結果、1万円はずっと返って来ることなく、連絡も取れなくなりました。

 その人は会社を経営しており、夫と仕事の関係があるため、よく一緒に飲んだりしていました。私は夫に「あなたは、その人から利益を受けたことがあるのでは? だからお金を返さないのよ」と言うと、夫は黙って何も言いませんでした。

 結び

 この二つの事件から、面識のない学習者が1万元を拾って、持ち主を一生懸命探しお金を返そうとしたのに対し、よく一緒に飲食をする親しい友人と思われる人でも、お金を借りて返さないのだと感じました。

 何事にも原因があると思います。師父は「失わないものは得られず」[1]、「自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません」[1]と教えられています。

 この二つの事から、利益を得ている友人は信用できず、「真・善・忍」を修める友人こそが信用できることが分かりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/4/422044.html)
 
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