グループ学法と交流について考える
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2021年4月14日】グループ学法と交流は師父が残して下さった修煉の向上を促す方法だと皆分かっていますが、学法が終わったらすぐ帰り、交流に参加しない現象、交流を行っても皆が話した内容が浅くて収穫が少ない現象が各地で共通に存在しています。だんだんと、学法だけをして交流を止める所もあれば、グループ学法はしょせん、家で一人の学法と効果が変わらないと思ってグループ学法に参加しなくなる学習者が増える所もあります。このような学法の環境を作ってしまった裏に、一修煉者として自分にはどのような執着心があるかを私はずっと考えています。

 一、保身策、本当の考えを露わにしたくない

 交流する時、大人数であれ小人数であれ、私はいつもあまり話しません。その理由は、もともと口数の少ない性格で、また、特に言いたいこともないからです。しかし、掘り下げて探すと保身策、傷つけられたくない、同修を怒らせたくない、安逸を求めるなどの私心がその裏に隠れていることを発見しました。

 交流の時、後になって同修に議論されたり軽蔑されたりすることを避けるため、私は自分自身のことを言わないようにしています。その裏に隠れているのはメンツやプライドを守りたい私心です。自分自身のことに言及する時でも、自分の持っている執着心に軽く浅くしか触れず、真面目に掘り下げて探しませんでした。

 良くない考えと人心などを暴露することはそれを消滅することになります。その反面、隠すことはそれを強化することと同じで、隠せば隠すほどそれは強くなります。修煉の中でなかなか人心を除去できないのは、多くの場合、自分に多くの逃げ道を用意しているからです。交流の時に執着心をさらけ出すと、逃げ道を断つことと同じで、主意識がぐっと強くなり、執着心を除去することにもっと力を入れるようになります。

 神は、修煉者がさらけ出した人心がどれほど汚いかを見られるのではなく、修煉者がどれほど人心を除去したかを見られるのです。周囲の同修の中で、勇気を持って自分の執着心を暴露する人は黙々と精進していており、一方、人心を隠して包み込んでいる同修はその執着心をなかなか除去できず、修煉の道でつまずいています。

 そのように考えてやってみた後、自分がもっと内に向けて探せるようになって、だんだんと相手の立場に立って問題を考え、相手のために配慮することもできるようになり、相手に対する非難や文句も少なくなりました。そして、自分が以前より謙虚になったことに気づきました。自分の不足を暴露する以上自ずと傲慢でなくなり、残ったのはただ着実に修煉することだけでした。

 自分の執着を自分だけが知って今後それを除去すれば充分で、同修に言う必要がない、と時々思います。一見何の問題もないように見えますが、実は背後には依然として執着心を暴露したくない心が存在しています。同時に、修煉者として正々堂々としているので、自分に高い水準で要求しているかのような問題も存在しています。素行の良い人は堂々としているから、はっきり言えないことは何もありません。

 師父がグループ学法と交流の形式を残してくださったのは、修煉者が切磋琢磨し合うことを通じてもっと早く向上することを期待されているのではありませんか。一人で修煉することは不可能ではありませんが、向上するのは比較的遅いのです。ですから、高い基準で自分を要求する修煉者は、きっと勇気を持って人心をさらけ出して、自分に逃げ道を残さないのです。これも勇猛精進することの一つの表れではないかと思います。

 その点に関して新しい学習者は往々にして古い学習者よりも良くできています。彼らはむしろ開放的で、自分の執着をさらけ出すことを恐れていません。自分が新しい学習者で執着があっても古い学習者に理解されると思っているのでしょうか。古い学習者はかえってだんだんずるくなって、狡猾でメンツを放下できません。病の難関を乗り越えられない時もそれを隠して、学法と煉功を怠ったことを認めたくありません。

 また、長年真相を伝えるための各種の活動をともに行ってきた古い学習者の間には多かれ少なかれトラブルや溝が存在しており、とても仲が悪く、互いに相手の弱点を攻撃し合うケースも存在します。そんな前提の下で、自分の執着心をさらけ出すと相手に揚げ足を取られる恐れもあるので、進んで話したりしません。一方、同修が勇気を持って話した過去の過ちや自分の執着心を知ってから、当事者を攻撃したり嘲笑したりする行為は汚いものとしか言えず、修煉環境に対する破壊でもあります。

 二、自分の不足に触れないよう、如何に真相を伝えたかを話のネタにする

 交流の時、自分が発言する時になると、自分の執着心や不足点に触れないように、私はいつも大義名分のことを話のネタにします。常人社会のことを話題にすると同修に阻止されるので、修煉において重要なことをこの時のネタにすれば無難だと思っています。そうすると、自分の心性が高く、修煉が良くできている印象を同修たちに与えることもできます。

 その中で、真相を伝える話題は私に最もよく使われるネタです。自分が行った真相を伝えることを言い出すと止まることも知らず、顕示心、人に指導したい気持ちが帯びています。「真相を伝える」ことをやっている中で如何に心性を修煉したのかについてはかえって話せなくて、結局、自分がやった「功績」だけを並べることになります。時には自己主張を押しつけたくて同修と口論もしたりします。

 話す時、「私たち」、「皆」、「一人一人」などの言葉を使う人は、往々にして外に向けて探し、自分でなく相手を変えたい気持ちがあります。一見して「私たち」には発言者自身をも含んでいますが、実は彼は聞く側の人たちを変えたいのです。そうでなければ、みんなの前でそのことを言う必要もありません。

 三、法理の交流を理由に

 交流の時、多くの時間をかけて法理の探究をしようとする同修がいます。もちろん法理は明らかにすべきものですが、法理の探究に時間をかけすぎて、いかに執着心を除去するかについて交流しないのは良くありません。修煉を始めた初期に同修と法理の探究をしたいことはもちろん悪いことではありませんが、古い学習者にとって、どのように心を修め、真相を伝えるかに関心を持つべきだと思います。

 また、交流の時に、私自身が持っている他の良くない考えにも気づいています。

 1、常人社会のことに関心を寄せすぎる

 ここで言っているのは常人社会の中の名、利、情ではなくて、自分が社会情勢、法を正すことの進展や変化、アメリカ大統領選などの時事や政治などに関心を寄せすぎていると言っているのです。そのようなことは少しだけ話しても良いのですが、話しすぎて、心を動かされると良くないと思います。

 2、同修が自ら言い出した不足点を以て、当人を攻撃しあざ笑う

 このことは前文にも触れたように、同修の内に向けて探して話した内容をもって彼を攻撃する武器に使うことです。自分にもそのような考えと行動があると気づいた時、私は罪悪感がして自分を許せませんでした。同修を傷つけ、修煉環境を破壊し、「内に向けて探す」ことを冒涜したと思います。

 3、反感

 グループ交流で自分の執着心などにいっさい触れず、もっぱら世界情勢や真相を伝えることについての考え方を語る同修を見て、内心から反感を抱いてしまいます。一見、私は何も嫌な表情をしていませんが、内心は聞きたくない、こういう発言は時間の無駄だ、聞いても何の収穫もないと思います。

 実はよく考えてみると、その発言は自分には役立たないけれど、他の人、特に新しい学習者に役に立ったかもしれないので、これから啓発や収穫を求める気持ちを強く持って交流に参加しないように注意します。同時に、聞く側の向上に役立つこと、真相を伝えることに役に立つことだけを話して、皆の時間を無駄にしないように自分に注意しました。

 4、嫉妬心、顕示心など

 交流の時、様々な人心が次から次へと出てきて、多くの時、良くない念が一瞬にして頭に現れるのです。修煉状態が良い時だけ、それらの良くない念にすぐ気づくことができるのです。

 結び

 自分自身を守って、自分の執着心をさらけ出すのを恐れているから、交流の時に発言したくない、あるいは発言しても自分はどんな仕事をしたかを並べ出して、また法理についての悟りだけを話す修煉者が多くいるため、だんだんとこんな交流をしても効果がなく、収穫もなく、自分の修煉の向上に対して役に立たないと皆は思って、次第にグループ学法交流に参加したくなくなっています。もし全体がもっと素直になって、如何に執着心を除去するかについての交流を重視すれば、グループ学法はもっと魅力的になって、より同修たちを引きつけることができるかもしれません。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/1/24/419007.html)