怨恨の心を取り除く中で根本の執着を見つける
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年4月14日】私は家で静かに法を学び、内に向けて修め、自分の修煉状態を改めて見直すべきだと思いました。なぜ恨むという物質がいつも自分の空間場に充満しているように感じたのでしょうか。私は『轉法輪』を一字一句暗記し始めましたが、思想業力が必死に阻止していました。それに惑わされることなく、心を静めて『轉法輪』を暗記していくしかないと思い、また、怨恨心に関する師父の各地の説法を暗記し、自分の状況に合わせて、関連する部分を書き写して暗記しました。暗記する過程で、それらの良くない要素と物質による妨害が非常に大きいのですが、思いきって法を暗記しなければならないと思いました。自分は、暗記する過程でそれを取り除くことができると知っているからです。

 短い段落を1日かけて暗記しましたが、バッチリ暗記できているとは言えず、次の日に引き続き暗記しなければなりませんでした。怨恨の心で死にたくはなく、暗記しているうちに、心がすっきりして空間場も明るくなったような気がして、引き続き暗記したときに法を覚えやすくなりました。私は『轉法輪』を段落ごとに暗記し、暗記する過程で一字の間違いもなくきちんと覚えるまで暗記しました。すらすら暗記できない部分があれば、何回も繰り返し暗記し、大法が私を悟らせて下さったので、私は他の空間での昇華や、人間の言葉では表現できない美しさを感じることができました。

 私は内に向けて探し続け、内に向けて修め、一分一秒、毎回のトラブルを大切にしようと自分に言い聞かせました。慈悲深い師父は、私に精進したい気持ちがあるのを見られ、様々な方法で悟らせて下さいました。そして、怨恨の心の裏には情があり、情の裏には「私(し)」があることを見つけました。なるほど、つながっているのだと思いました。しかし、ここまで悟るには、ずいぶん時間がかかりました。

 私は心の中で「師父、私はこんなにも愚かで、どれほど師父にご心配をかけたのでしょう」と言いました。これらの心を見つけたとき、私は急に世界が広がったような気がしましたし、今までの出来事や関連人物を改めて見る時、師父とすべての衆生に本当に申し訳ないと思いました。身内が犯したいわゆる過ちを見ても、もう恨みはなく、「寛容」しかありませんでした。彼らは法のために来たのに、迷いの中、苦しみの中、さらに私に嫌われていたのです。私の頭の中に現れたのは、もはや彼らの悲しげな顔ではなく、期待に満ちた笑顔で、私の内心の昇華につれ救われるのを待っているのです。母親(同修)との葛藤も、長い修煉の中できれいに取り除かれておらず、今回、母はとても素晴らしい同修であることを実感しました。母のすべてが私の鏡だと分かり、しかし、私は自分を修めず母を修めるばかりで、多くの向上する機会を逃してしまいました。

 法を学び、内に向けて探し、内に向けて修め、自分の言葉や行動を真に法に照らし、自分が法の要求からあまりにもかけ離れていることに気づきました。今まで、自分は師父が要求されている三つのことを行っていると思い込んでいますが、その三つのことは、自分をきちんと修める中でしっかりと行うことこそが、はじめて師父の言葉を聞くことになり、精進する修煉者として認められるのだと分かりました。それが実行できて、はじめて法の無限の力と玄妙さを実感できるのです!

 母は、同修の「私(し)と自我」に関する交流文章を読むようにと勧めてくれたのですが、その文章はまさに私が急いで取除なければならない、改善すべき内容でした。 文章を読んで、私は長い間、私(し)と自我から抜け出せず、ぼんやり留まっていたのだと感じました。今、大法の中で精進し心を修め、自我を捨てようとしている自分は、師父と神聖な誓約を交わした瞬間や、降りてきた光景を見たような気がしました。衆生が救われることを切望していますが、私たちは自我を放下し、すべての人心を捨てれば、はじめて本当に救われるのです。私の周りの救われていない衆生のことを思えば、救われていないのは私自身の心の問題で、しっかりと自分を修め、衆生を救おうと思いました。

 これらの心を見つけたとき、煉功発正念をする時に、長い間堆積していた恨みの物質をどんどん排出していました。師父は弟子の体を浄化して下さっているのだと分かりました。師父に感謝いたします。

【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/6/422979.html)
 
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