命の新たな起点
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文/日本の法輪功学習者

 【明慧日本2021年4月22日】私の名前は望月良子です。今年68歳です。修煉する前の私は、性格が強く、志を持っていて、何でもできると自信満々で、人から女傑と言われていました。私は中国で生まれ育ちました。家族が多くて生活は貧しかったのです。母は身体が悪く、足腰が痛くて家事もできませんでした。

 私は中国共産党(以下、中共)の教育を受け、大躍進、三反五反、整風運動、文化大革命など、次から次へと闘争や運動を経験しました。家の出身のことにより子どもの頃からどこにいても排除されたり、いじめられたりして苦難の連続で、闘争と恐怖の中で過ごしてきました。

 中学校を卒業して、社会に出て働こうと思っていましたが、家の出身のことが理由で、どの会社も採用してくれませんでした。冷酷な現実と人生に対する挫折感に苦しみながら、私は懸命に仕事を探し続け、深い失望感に襲われました。

 結婚して、やっと就職することができ、私は誰よりも一生懸命に頑張りました。子どもを託児所に預けられなかったため、私は子どもを連れ会社へ行きました。会社で、食堂の調理や、大工の工事、講師、総務など、様々な分野で働きました。私の仕事振りは管理層にも認められ、同僚たちも私のことを尊敬してくれました。

 しかし、数年後、管理層が変わり、私は清掃員にさせられました。私は納得できず不服を申し立て争いました。結局、何も得られず、40代で病気の理由で社内退職となりました。私は怒りを抑えられず、管理層に「私は『千里の馬』です。あなた達が使わなくても、私は必ず才能を咲かせて見せます」と不満を言って家に帰りました。

 仕事に奮闘した結果、ひどい病気になる

 退職した後、私は飲食店を開きたいと夫に相談し、夫婦で二人三脚でやってみることに決めました。私たちは借金して店を借り、三輪車を購入して拾った煉瓦と石を運び、竈と煙突を建て、たった数日間で完成し、営業を始めました。自分の店を持ち、そして商売がとても順調で、私は嬉しくてたまりませんでした。最初は自ら調理をしていましたが、店の繁盛につれ、1級、2級、3級の調理師を雇うようになり、スタッフも1人、2人から18人まで増えました。そのほか、飲食店の経営に欠かせない税務局や公安、町役場の担当者と仲良くして、人脈を広めました。各会社や官庁の予約が毎日のように満杯で、売り上げも右肩上がりでした。さらにその後、昼は飲食店で、夜はダンスホールとして続けて営業をしました。

 しかし、多忙な経営と疲労で、だんだんと身体に支障が出始めました。とうとうある日、体力を使い切ったように感じ、病院に行くしかありませんでした。しかし、3つの病院に、もっと大きい病院に行くように言われました。実は、当時、私は長期間にわたって血便していました。良くない病気だと予感しましたが、私に悔いはありませんでした。今までの人生の中で、あまりにも多くの苦難を経験してきた自分が、やっと人に認められ、重視されるようになったからです。

 私は軍の病院に行き、すぐに入院することになりました。私は病院のベッドで、まだ40代なのに、もう人生の果てに立っていると思い、人間はどうしてこんなにも苦しいものか、と心の中で叫びました。貧困、いじめ、軽蔑と戦って、やっと名誉も金も尊敬も手に入れましたが、結局すべてを手放すしかありません。涙が止まらず、生きる希望すらありませんでした。

 私は普段から、忙しくて食事もろくに取れず栄養不良になり、それに長期にわたる血便のため、手術する前に1週間続けて輸血しました。7、8時間の手術を受けましたが、全身麻酔ではなかったため、痛みで叫びが絶えず、終わった時には声も出なくなりました。病室に戻っても、痛みでベッドの上でひっくり返り我慢できませんでした。ふと目を覚ますと、息子と娘がベッドの前で泣いていました。子どもたちの存在は私に生きる希望を与えてくれました。

 手術後、26日間入院が続きました。息子は毎日小さな椅子に座って私を看病してくれたため、10キロ以上も痩せました。退院する時には4人の友人が来て、エレベーターのない4階の自宅まで送ってくれました。今まで気の強かった私が廃人となり、泣くほかに何もできませんでした。

 病気の時はいつも息子が私を背負って、階段を上り下りしてくれ、毎日面倒を見てくれました。3か月後、私の日本に行くビザが下りました。最初、姑は私が日本に行くと医療費がかかるし、万が一日本で亡くなったらどうするのかと心配して反対しました。夫は「嫁は俺と結婚して、楽に暮らすこともなかった。日本に行って暮らしてみて、ダメだったら戻ればいい」と姑を説得し、同意が得られました。私たちは家の財産をすべて放棄して、一緒に日本に行くことになりました。

 1992年9月6日、私たちはとうとう日本に来ることが出来ました。まるで久しく別れた故郷に帰って来たように親しみを感じ、気持ちがぱっと明るくなりました。電車に乗ると親切に席を譲ってくれる人もいて、人々はみな清潔で、礼儀正しいと思いました。平和で、美しい日本をすぐに好きになり、これからはここで暮らし、自分の力を貢献したいと決意しました。

 しかし、旅の疲れもあり、家に到着して3日後、私は体調が崩れ、食欲がなく、薬を飲んでも効果が見られず、元の状態に戻りました。1週間後、日本に住んでいる叔母が私に会いに来て、私の様子にびっくりしました。叔母は姑に、私を連れて東銀座にある国立がん研究センター中央病院に行くように勧め、それから区役所に助けを求めてくれました。

 食事と家事ができ、睡眠が取れるようになった

 早くも4年が過ぎました。1997年の年末に、ある友人は、私が毎日のように薬を飲んでいるのを見て、「すばらしい気功がありますが、健康のためにやってみたらどうですか?」と勧めてくれました。しかし、私は拒みました。実は、日本では様々な宗教団体があり、しつこい訪問勧誘が多いため、夫は私に何も参加しないようにと注意したことがありました。そのため、私は何度も友人の誘いを拒みました。

 ある日、友人が電話で来て欲しいと言いました。私が友人宅に行くと、来客していたので、私は帰ろうとしました。友人は私を止め、2人の客の前で「彼女は毎日薬を飲んでも病気が治らないのです。気功を勧めても拒否されました」と言いました。客は何も言わずに私を見ていました。人の前で言われ、メンツがつぶされ不愉快になった私は、「家で見てみる」と言って、友人から気功のビデオと1冊の『大圓満法』を借りて離れました。

 翌日、友人から借りたビデオを見ることにしました。穏やかな音楽が流れてきて、とてもリラックスして気持ちが良かったのです。ビデオの中で煉功の動作を教えておられる李洪志先生がとても慈悲に感じられ、優美な動作は私の心を動かしました。私は思わず起きて、ビデオを見ながら動作を習い始めました。煉功が終わってからも、その穏やかな音楽と李先生の声は頭から消えませんでした。

 以前、私は不眠症で悩まされましたが、その日の夜は初めてぐっすり眠り、目が覚めた時は翌日の午前10時でした。前日の煉功で素晴らしい体験を得たと思い、私はすぐに起きて、またビデオを流して煉功を習いました。不思議なことに、以前は毎日つらくて力がありませんでしたが、繰り返し煉功をしてもまったく疲れませんでした。

 煉功してからだいたい2週間後、私は法輪が身体の中で回っているのを感じました。体調が悪いところがあれば、そこで回ります。しかも、毎回微妙に違うように感じました。2カ月が過ぎると、煉功をしていなくても、下腹部で法輪が回っているのを感じました。私はとても幸運だと思いました。それ以降、私は食欲が戻り、顔色も良くなって元気になり、家事もできるようになり、家の中は昔のようにきれいになりました。

望月良子さん

 ある日、夫はふと私の変化に気づき、私に尋ねました。私は「病気が治ったよ。これから病院に行くことも、薬を飲むことも必要がありません。私のことを心配しなくても大丈夫、もう良くなったからです」と言いました。夫は驚いて「どういうこと?」と聞きました。私は「気功を学ぶことにしました」と告げると、夫は私が宗教団体に勧誘されていないかと心配して「何の気功? 見せて」と言いました。私はビデオを流して見せると、夫は「中国の気功? そんなに素晴らしいの? もし変な宗教だったらどうする?」と不安を隠しませんでした。私は考えることもなく「構いません。私はこの功法を続けることを固く決意しました。初めて煉功した時から、私は師父に、これこそ私が欲しがっていたもので、こんなに素晴らしい功法を必ず修めたいと言ったからです」ときっぱり言いました。私の態度を見て、夫は何も言わなくなりませんでした。

 夢で何度も、たくさん学法するよう教えられる

 当初、私は学法を重視せず煉功ばかりをしていて、法理について何も分かりませんでした。ある時、夢の中である世界に行きました。そこは透明で真っ白く、素晴らしい所でした。いつも夢で同じ光景を見ました。さらに、師父にもお会いし、そのたびに私は飛び上がらんばかりに喜びました。

 あまり学法していないので、考えが向上できず、なかなか関を乗り越えられませんでした。私は依然として人と争ったり、誰にも譲らなかったり、落ちていたお金を拾ったり、それに色欲の心もありました。師父は何度もヒントを与えてくださいましたが悟らず、どうしようもない状態でした。

 ある日、師父が私の家に来てくださった夢を見ました。夢の中で、私は辺鄙な山の古い家に住んでいて、部屋の中のオンドルに小さなテーブルがあり、壁の前に本棚が置いてありました。師父は本棚をご覧になっていましたが、1冊の『轉法輪』しかありませんでした。師父は濃い色の上着を着ておられ、オンドルにお掛けになっていました。私は4皿のおかずと1杯のご飯を作って捧げました。私は床に立って、師父が召し上がるのを見ていました。食事の後、師父は私に「これから奥の山に法を広めに行きますが、あなたは行きますか?」と聞かれました。私は「行きません」と答えました。

 師父は戸を開かれ外に出られました。外は大雪が降っていました。ふと師父が靴下を履かれていないのを見て、私は家から1足の靴下を探し出し、外に出て師父を追いかけましたが、深く積もった雪に足がはまり、一歩一歩力をふり絞って進みましたが、師父の姿は見えませんでした。焦りのあまり目が覚め、汗だくになっていました。

 また、ある時、私は夢の中で、高い所に透明できれいな世界が見えました。私はそのところを目指して下から登り始めましたが、なかなか上がりませんでした。その時、上から大きな手が差し伸ばされて、私を引っ張ってくれましたが、なぜか体重が重く、しかも大きな荷物を背負っていてまったく上がらず、疲れて目が覚めました。起きてから、なぜこうなったのかを考えました。師父は私に、重荷を下ろすように啓示してくださっているのではないか? いろいろな執着を放下すべきだと気づきました。

 しかし、学法をしない私は悟らず、「もう病気も治ったし、向上できなくても仕方がない」と思い、これから働いて金を儲け、収入が増えれば国から手当をもらう必要もなくなると思いました。しかし、私の心の奥では、このような素晴らしい功法を放棄することはできませんでした。

 慈悲なる師父はこんな私を見捨てず、また夢の中で私を悟らせてくださいました。果てしない海の中で、家の大きさの一つの筏(いかだ)が浮かんでいて、1本の柱の上に灯がありました。師父は筏の上に立っておられ、私は素足で後ろに立って、私の側には1歳半ぐらいの子どもが腹ばいになっていました。巨大な波の中で、師父は身体を動かすこともなく、じっと前方を眺められていました。

 目を覚ますと、涙で枕が濡れました。師父はなんとご慈悲なのでしょう。師父が私の命を助けてくださいましたが、私は小さな困難で逃げようとしていて、本当に恥ずかしく思いました。私は当初「どんなことがあっても、この素晴らしい功法を絶対に放棄しない」と決意しましたが、自分の誓いを忘れてしまい、簡単にやめようと思った自分を深く責めました。中国に「 一日師として仰げば、一生父として慕う」ということわざがあります。私は「修煉します!」と改めて決意しました。

 1998年、私はシンガポール法会に参加し、とうとう師父にお目にかかることができました。しかし、当時、私は師父の説法についてよく分からなくて、ただ宇宙の大法は「真・善・忍」であると覚えていました。法会が終わり、師父と記念写真を撮る時、私が「師父、師父!」と呼んでいると、師父は振り向かれて私を見てくださいました。しかし、私は何も言えず、涙を流すばかりでした。師父は私に「必ず本を多く読んでください」[1]と3回も繰り返し言われました。その声はとても慈悲で、一生忘れられません。

 病気が治り、手当の受給を辞退する

 法会が終わり日本に帰って来て、私はこれから真に修煉し、師父の本当の弟子になり、「做(な)すところ到(いた)るは是(こ)れ修(しゅう)なり」[2]とすることを決意しました。そして、私は政府からの手当を返し、病院と区役所に行って病気が治った事実を告げると決めました。日本語がまだ上手ではないため、私は叔母に頼みました。叔母は私が煉功して健康になったことを知っているし、自分の家にも大法を修煉する家族がいたので、私の代わりに説明してくれると了承しました。

 しかし、翌日、叔母は電話で「説明したが、担当者からこれは国が決めたことなので、勝手に辞退することはできないと言われたよ」と言いました。法律に関わる問題なので、一方的に変えることは難しいとのこと。家族も私に「辞退してくれなければ、そのまま受けましょう。あなたが要らないなら、私たちに使わせて」と言いました。私は「病気が治ったので、お金をただでもらうのはだめです。私は師父が教えてくださった『真・善・忍』に従わなければなりません」と態度をはっきりしました。私は諦めず、また叔母にお願いしました。叔母から「あなたの願い通り、補助金の辞退が許可されたよ」と電話が来ました。

 その話を聞いて、背負っていた荷物が下ろされたように、いきなり身体が軽くなりました。

 私は法輪大法の修煉者になったことを幸せに思います。当初、私は病院で医者にせいぜい余命5年だと宣告されましたが、それからすでに24年が経ちました。死を宣告された私は、幸いにも大法に出会い、修煉して健康になりました。いま私は精神と体力が充ちていて、毎日、朝早く起きて煉功し、昼は出かけて法輪功迫害の実態を伝えたり、資料を配ったりし、夜は学法をしています。私の願いは、人々に法輪功はただ病気治療のためのものではなく、返本帰真こそ人生の目的であることを知って欲しいのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:「スイス法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「实修」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/21/429607.html)
 
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