文/河北省の大法弟子
【明慧日本2021年4月29日】長い間、自分は内に向けて探せる人だと思っていました。トラブルに遭うとまず自分を探し、法に合わない部分を見つけ出して、そこから自分の執着心を探り出して取り除きます。そうすれば、その関を乗り越えることができます。簡単に取り除けるときもあれば、身に染みる思いをしたこともありました。
しかし、最近、中共ウイルスによって町が封鎖され、同修と接触する機会が少なくなりました。自分では精進しなければと思っているものの、怨恨の思考が明らかに増えてきたのです。学法を通じてこれらの良くない考えを排除できますが、しかし、本を置いた途端、再び溢れ出してきてます。また、昔自分が傷つけた人や経験したトラブルなども覆ってきて、思わず相手を咎めたり、相手がわざと自分のせいにしていじめてきたり、刺激してきたりなどと考えはじめ、そして、ますます相手を悪く思うようになり、しまいには1人で激怒し始めました。
しばらく時間が経ってから、ようやく自分が悪いことに気づきました。私は修煉者なので、忍耐しなければなりません。そして、師父の「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]という説法を暗唱し、闘争心や怨恨心、利己心、安逸心、嫉妬心などを排除し、自我や、情を放下することに努めました。これらの人や出来事に遭ったのも心性を向上させるためであり、業力を徳に変えているので、却って相手に感謝しなければならないことも理解しています。しかし、法理上何もかも分かっているのに、再び覆ってきます。このような状況が何度も繰り返されていき、なかなか取り除けなくて、自分の修煉にも影響が出て、とても悩まされています。一体、これらの根源はどこにあるのでしょうか。
今朝、夢を見ました。同修のところに2本の木があり、木の上には多くの杏子が実っていました。朦朧としている中で、「見てみよう」という声が聞こえてきたので、同修に何かあったのではないかと思いました。この時、ふと同修からのメールを思い出しました(「杏子」の発音は中国では「メール」の発音と同じである)。メールボックスを開いてみると、同修たちから明慧ネットに掲載された「内に向けて探す習慣を身に着ける」という文章を転送してきたのです。まだ中身を読んでいませんが、このタイトルを見ただけで、すぐに自分の不足部分に気づきました。それは、長い間、トラブルの中で、本当の自分という立場で偽りの自分を排除していなかったのです。
過去において、偽りの自分を排除してはいたものの、自分の感受の中で排除してきたので、完全には排除できませんでした。そのため、実質の向上がなく、苦の中で修煉していたのです。今日、この執着心に気づき、自分の観念まで変わったような気がして、気が楽になりました。イライラがなくなったので、以前のことを思い出しても、怨恨心もなくなりました。そして、他人の欠点に注目しなくなり、是非の概念もなくなりました。思惟が簡単になったため、気持ちも晴れ上がり、何か良くないものが取り除かれたような気がしたので、この関を乗り越え、向上したのだと悟りました。
では、一体何が旧勢力に隙に乗じられたのでしょうか。深く掘り下げていくと、理に対する執着を見つけました。つまり、何事においてもはっきりさせたいという心理です。
私は1997年に法を得て、当時、周りにはあまり同修がいなく、独りで修煉していました。あの頃は学法が好きで、それまで自分を困惑させていたものをはっきりさせたいと思っていました。長年の修煉において、この執着心はもうないだろうと思っていましたが、しかし、今日探してみて、なくなったのではなく、深く隠蔽しており、知らず知らずのうちに理論を学ぶという心理になったのです。時には、自分を法理の外に置いて、法理に溶け込んで実践していませんでした。これは旧勢力による思想の妨害であることに気づいた後、すぐに旧勢力の按排を完全に否定し、全ての妨害や邪悪な要素を消し去ると、師父にご加持を求め、強大な正念を発しました。そして、直ちに自分自身を正し、法に溶け込み、師父の要求に従って本当の自分を見つけ出し、良くない考えや気持ちを排除していきます。また、正々堂々と自分を修め、心を込めて「三つのこと」を行い、多くの衆生を救い、師父と共に返りたいと思います。
これらのことを書き出したのは、同修たちに真剣に学法し、自分の思考の一つ一つに注意し、良くない考えを取り除いて頂きたいと思います。そうすることで、修煉の道から踏み外すことなく最後まで歩んで行けるのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』