文/カナダの青年大法弟子
【明慧日本2025年3月28日】私はカナダ出身の青年大法弟子です。物心がついたときからすでに修煉し始めていた私にとって、修煉はずっと私の生活の一部でした。大人になってから積極的に修煉の道を選んだ同修たちと違って、私はしばしば自分の信念に対して疑念を抱いていました。状態が良い時は精進しますが、社会環境に惑わされると、気が緩んでしまうのです。「良質な」教育、「優れた」職業、「楽しめる」ライフスタイルなどは、私の気を散らせるのには十分でした。しかし最終的に、私は修煉し続けることを選びました。大法だけが人の思考と心に真の静けさをもたらすことができることを何度も発見したからです。
この乱れている世界は、若い修煉者が精進することをより一層難しくさせています。ソーシャルメディアが絶えず彼らを誘惑しているからです。精進したいと思っても、しばしば意志力との戦いを経験しなければなりません。最近、私は非常に悲しく、失望していて、批判的、悲観的、幼稚といった否定的な考えが次々と浮かんできます。学法や煉功、そして衆生を救うことをきちんと行っていないからそうなったとよく分かっていても、どうしても精進できないのです。どうすればこれらの考えを止めることができるのかも分かりませんでした。そんな時、私は2年前に同修に送った交流文を思い出しました。それが今の私の問題にぴったりと当てはまっているように感じました。
2年前のある日、友人からごく普通のメッセージを一通受け取りました。その主な内容は、彼はやらなければならないことがあるのに、どうしてもやりたくなく、自分が怠けていることに悩んでいるというものでした。当時の私は比較的精進していて、法をよく学び、衆生を救う活動にも参加していました。以下は、私がその友人に送った返信です。今の自分と似た状態にいる同修に役立つことを願っています。
-----
こんにちは。いつもならすぐに自分の考えを伝えていましたが、今回はなぜか、一瞬立ち止まりました。この問題についてじっくり考え、合理的な答えを出そうと思ったからだと思います。
師父はこのようにおっしゃっています。「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」(『轉法輪』)
これに対する私の理解は、何かが難しいと思ったとき、それは単に「やりたくないという感覚」だけの問題ではないと思います。やりたいと思うのも、やりたくないと思うのも、どちらも「情」だと思います。なぜ、あることをやりたい、またはやりたくないと感じるのでしょうか? その考えが繰り返し現れる場合、隠れた執着心が働いている可能性があります。たとえば、ある人が「家に帰りたい」と「何もしたくない」というサイクルに嵌っているのであれば、その人は快適さを求め、面倒がる、またはある結果に執着しているのかもしれません。
師父はこのようにもおっしゃっています。「私たち一人一人真剣に自分の考えに目を向けたら、考えが瞬時に変わってしまい、一秒の間に多くの考えが現れてくることに気付きます。この考えがどこから来たものなのか、あなた自身も分かりません。時に非常に奇怪な考えが現れてきますが、これはあなたの生々世々にあった異なる観念であり、何かの出来事に遭う時に、それが現れてくることがあります」(『北米第一回法会での説法』)
これを読んで思ったのは、私たちの思考はそもそも、真の私たちのものではないかもしれません。何かをする気が起きないと感じたとき、それは理屈抜きのメッセージであり、ただ一種の感情に過ぎません。しかし、私たちはそれに従い、賛同し、それを自分の考えだと思い込んでしまうのです。
同じ経文の中で、師父はこのようにおっしゃっています。「まず、法の勉強の重要性について話します。つまり、法の勉強によってあなたが向上することができるのは、法の背後に内涵があるからです。他の本を読む場合、なぜこの境地まで達することができないのでしょうか? この状態に達することができないのでしょうか? その本の中に何もないからです。しかし、何もないということでもありません。人によってそれぞれの状態も違うからです。私がいつも言っていますが、それらの良くない宗教の本、もちろん私が指しているのは邪教や良くない宗教の本と良くない気功の本ですが、手元に残してはいけません」(『北米第一回法会での説法』)
「人間の身体は服のようであり、考えは帽子のように、誰かがそれを着たり被ったりすると、その人になります。なぜこのようになるのでしょうか? 人間はここまで弱くなり、誰もが人間を制御することができ、妨害することができるからです。人間は気の毒ではありませんか? しかし、気の毒でも仕方がありません。人間が自らここまで堕ちたからです。私たちの全ての人、在席の皆さんの法の勉強も容易なことではありません。各種の妨害と邪魔があり、法を勉強しようとすると仕事が忙しくなり、時間が足りない、などなどがあります。それが一種の当たり前の現象だと皆さんは思っていますが、実は各方面からあなたを妨害し、あなたが法を得られないようにしています」(『北米第一回法会での説法』)
これに対する私の理解は、私たちが得ている情報は非常に重要です。ソーシャルメディアが「帽子」や(私たちを縛る)「衣服」になってほしくないのですが、それがまさにそのようなことをしているのです。これを例を挙げたのは、私がソーシャルメディアに多くの時間を費やし、心身ともに執着心に占められていたからです。また、あることをしたくないと感じたとき、ほかのことがすでに自分を支配しているということです。しかし、大法修煉者として、自分を主導すべきなのは大法であるべきです。それを実現するためには、学法が必要です。怠けてしまった瞬間にこのことを認識し、『轉法輪』を手に取って読むべきです。大法があなたの頭を主導していれば、思考は正しくなり、自然にうまくできるようになるでしょう。
さらに、師父はこのようにおっしゃっています。「あなたのものであれば、あなたの言うとおりになります。あなたの腕と足、手と口はあなたが思うままに動かすことができます。なぜでしょうか? それはあなたのものだからです。入定する時、どうしても静かにならないその考えは、静かになりなさいとあなたが命令すればするほど、静かにならないのです。それはあなたなのでしょうか? それが自分だと認めてよいのでしょうか? それはあなたが後天で形成した観念と業力です。ですから、あなたはそれを第三者としてみればよいのです。勝手に考えなさい。私はあなたが考えるのをみてみると思えばよいのです。そこから抜け出て、はっきりと見分けることができれば、それらのものと一線を画したことになります。真の自分を見つけることも修煉です。このようにすれば、それをすぐに消滅させることができます。本当にそれが自分ではないとわきまえることができれば、観念と業力が恐れてしまい、まもなく消滅されてしまうのです」(『北米第一回法会での説法』)
最後に私が思うには、すべての考えを自分のものだと見なし本当の自分を埋没させてしまってはならず、私たちは「真の自分を見つける」べきです。どうしても頭の中を駆け巡る雑念から抜け出せないときは、師父が教えてくださった方法を試してみるのもよいです。それらにこう伝えましょう。「勝手に考えなさい。私はあなたが考えるのをみてみる」(『北米第一回法会での説法』)
-----
後記
実際のところ、本当にこれほど簡単です。修煉においてボトルネックに当たってしまい、どう修めればよいか分からなくなったとき、法を学びましょう。子供のころ、学法は簡単だと思っていましたが、いざとなって、初めて学法がいかに重要なことかを理解しました。
修煉の次元に限りがあり、上記はあくまでも現在の私の法に対する理解です。法に符合しない部分があれば、どうかご指摘ください。ありがとうございます。