文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年9月24日】最近、私はよく内に向けて自分自身を探しています。なぜかというと、以前、2人の同修に何回かメールを送ったのですが、一切返信がなかったからです。最初は気にしていなかったのですが、2回目、3回目とも返信がないと、次第に「もう彼らに関わりたくない」と思うようになりました。
「返信しないなんて、失礼な行為だ」と思いました。ただ返事ができない理由があれば、それを伝えれば良く、例えば、「後にして」や「どう答えればいいかわからない」でもいいし、もし私の意見に賛同できないなら「賛成できない」と正直に伝えればいいのです。仮に私が法を乱しているのであれば、そのことを指摘して、教えてくれればいいのに、何も言わずに無視するなんてどういうことだろうと考えました。交流というのは、意見が正しいこともあれば、間違っていることもあります。私たちは同修であり、これまでさまざまな魔難を乗り越えてきた仲間です。新しい学習者ではないので、言われたことに耐えられないわけがありません。もし本当に耐えられないのであれば、それは自分の修煉に問題があるからでしょう。意見が違うとしても、直接話し合えばいいのに、と思いました。
こうして、私は自分の執着に流され、心の中で不満を募らせていました。
修煉者として、まずは内に向けて自分を探すべきだということは理解しています。それでも、どうしても心の中で納得がいかないのです。「私が言っていることは正しいのに、彼らが何も言わないのは間違っている」と思い込んでしまいました。もし私が法に基づかないことを言っているなら、指摘してくれればいいだけだと、さらに自分の意図を説明したいと思っていました。
数日間、ずっと内に向けて自分を探そうとしましたが、本当の意味で自分を見つめ直すことができず、ますます不満が膨らんでいきました。どうして私はこんなふうに考えてしまうのでしょう?
師父は、「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です。いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」(『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」)と説かれました。
では、私はまず内に向けて自分を探したのでしょうか? 内に向けて自分を探さなければ、大法弟子ではない――これは非常に深刻な問題です。こうしているうちに、同修との間に溝ができてしまい、隔たりが生じることになります。旧勢力はこれを喜ぶでしょうが、師父は喜ばれないでしょう。
ここで私はようやく気付きました。返信がなかったことに対する不満から、他人に対して仕返しをしようとする心が、自分の中に隠れていたのです。「あなたたちがそうするなら、私も同じようにして返す」といった復讐心、そして嫉妬心がどれだけ深く隠れていたかに驚きました。
さらに、私は他人と話すとき、非常に自己中心的であり、慈悲が欠けていることにも気付きました。しばしば、言葉が鋭く、相手を圧倒しようとしていました。特に問題だったのは、表面上は筋が通っているように見せかけ、同修が反論できない状況を作り出し、挙句の果てに相手が返答しないことを非難していたことです。実はその背後には、顕示心理や他者を指導したいという高慢な心が隠れていたのです。
これらの人心に気付いた時、それらを放下する決心する前に、なんと同修を責める気持ちはすっかり消え去っていました。師父はこのような方法で、私の嫉妬心や顕示心理を取り除いてくださったのです。胸がいっぱいになり、涙がこぼれました。「世の中に、これほど速く心を浄化し、成長させてくれる功法があるでしょうか?」、師父の弟子になれたことにこの上ない喜びと幸運を感じます。