修煉者と常人を比較すべきではない
■ 印刷版
 

文/カナダの大法弟子

  【明慧日本2025年3月22日】私は2001年に法輪大法を修煉し始めましたが、本格的に修煉を始めたのは2003年です。私の人生で最高の瞬間は、法輪功迫害の事実を伝えることや修煉者との学法に参加したときでした。しかし、私はいつも修煉者の心性と常人の心性を比較していました。

 どうしてこんなに立派な常人が法輪大法を修煉しないのか、あるいは何年も修煉している修煉者がどうしてこの常人のように行儀がよくないのか、と時々不思議に思ったことがあります。

 私は、この考え方が間違っていることに気づいていませんでした。実際、これは私にとっての試練であり、私が修煉を本当に大切に思っているかどうか、そして修煉者であることの価値を本当に理解しているかどうかの試練なのです。私は無意識のうちに、法輪大法ではなく、一般の人々を称賛していました。その一方で、私は修煉者が真相を伝え、修煉する中で大きな困難に耐えていることは評価されるべきであるという事実を無視していました。

 私の考え方は旧勢力に利用され、私は修煉者と一緒に働く代わりに、常人と一緒に仕事を探したり、余暇を常人と過ごしたりしていました。旧勢力は私の執着心を利用して、私を修煉の環境から遠ざけようとしていました。

 実は、修煉者は非常に高貴な存在であり、修煉を始めると決心した者は、本来の自分に戻るという困難な道を歩み、多くの苦難に直面します。それでは、法を正す弟子と常人とをどう比較すればよいのでしょうか?

 師父はこう説かれました。

 「佛教には、『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします」(『轉法輪』「第一講」)

 しかし、誰かが私に家を貸したり、ビジネスをしたりするのに信頼できる人を求めたとき、私はすぐに修煉者を最良の選択肢として提案し、彼らが最も信頼できると言いました。それでも、修煉者の行動に間違いを見つけるたびに、自分自身を見つめるのではなく、同修と常人と比べました。このような考え方は、利己心の執着に関連していました。

 修煉上の問題があることに気づいたとき、私は自分の内面を見つめ、次のような執着に気づきました。仕事やプロジェクト、大法の勉強などで修煉者と関わると、心性の試練が多くなりますが、これは避けられないことでした。それらの試練は私が修煉の中で成長するためのものであり、恨みを感じたり、修煉していない人と比べたりしてはいけません。常人は安楽や幸運を求めますが、それは修煉者が求めるものとは大きく異なります。私は愛と慈愛に満ち、困難のない、平和で穏やかな修煉環境を求めていました。

 また、私は、修煉者と過ごす時間が増え、彼らと心性のテストを受けるようになると、自分の問題を思い出させる一部の修煉者に対して恨みや怒りを抱くようになったことにも気づきました。この内なる怒りのせいで、私は良好な関係を築いている常人との関係を求めるようになりました。彼らは私を褒め、私の良い性格を称賛してくれました。

 彼らの人間的な優しさは私にとってとても大切だったので、修煉者と修煉するよりも、常人と友好的な関係を築くことを好みました。私は人間世界に感情的に依存しており、自分自身を修煉して人間の欲望や感情を取り除くことを避けていました。私は快適で平和な環境で修煉することを求めていました。これは、快適さを求める私の執着から来ています。

 私は、自分が修煉者に対して高い期待を抱いているのに、常人に対しては低い期待を抱いていることに気づきました。修煉者に対する私の態度は厳しく、一部の修煉者に対しては十分な優しさを持っていませんでした。その代わり、私に親切にしてくれた人には親切にしていました。一部の修煉者は私にはできないことを成し遂げましたが、彼らを常人と比較することで、彼らが私より弱いことを見せ、自分の修煉状態を良く見せようとしました。時には、私は同修は感情を消すために修煉しているので、私の優しさは必要ない、むしろ、同修が心性の欠点に気づき、より良く修煉できるように、同修にもっと厳しくすべきだ、とさえ思ったことがありました。

 これらの執着に気づいてから、私は正念を発し、本当に内面から変わりたいと願いました。私は自分自身に取り組み始め、嫉妬心を取り除き、親切になりました。私は修煉者の徳と衆生を救うための彼らの努力を見始めました。親切な思いは私たちの関係を改善するのに役立ち、関係はますます良くなっていきました。

 内面を見つめると、利己心が弱まり、修煉がいかに神聖なものであるかが分かりました。他の修煉者に対する愛と慈悲の光が私の心に輝きました。

 私は心の中で、尊敬する師父に感謝し、すべての修煉者に感謝しました。私たちは互いに助け合いながら、この道を切り開いています。私たちは同じ家族の一員であり、尊敬する師父に属しています。ですから、私たちの良好な関係は、この絆をより豊かで、より強く、より効果的なものにしています。

 上記は私の個人的な体験です。法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございます!

 【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです。】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/25/485390.html
 
関連文章