文/北カリフォルニアの大法弟子
【明慧日本2021年5月6日】大法を修煉していた同僚の紹介で、2014年に法輪大法の修煉を始めました。私は師父のご按排にとても感謝しております。修煉してから、心身ともに浄化され、向上しました。特に、今まで分からなかったことについて、ようやく答えが見つかりました。たとえば、子供の教育問題についてです。
大法を学んで疑惑が解ける、教育の眞諦はすべて『轉法輪』の中にある
息子が生まれてから、私は子供の教育に関する本や文章、そして様々な議論などに関心を持つようになりました。しかし、子供を豊かな環境で育てるべきか、それとも贅沢をさせないで育てるべきか? 教育の基準と眞諦とは何か? 明確な答えが見つかりませんでした。私が子供の頃、両親は「温厚で優しい人になるように」と教えてくれました。しかし、今の社会は大きく変わってきて、そのままの教育方法では、子供が正直になりすぎて、人にいじめられるのではないか? と疑問を感じました。世の中の風紀は日増しに乱れる現在、学校でのいじめ事件が多発しています。ですから、息子が小学校に入ってから、私は息子に「人をいじめてはいけない。でも、いじめられたらやり返しなさい。そうしないと、いつもいじめられるからね」と教えました。
その後、私は大法を修煉し、はじめて「『真・善・忍』は、良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」 [1] と分かりました。師父は「人類の道徳基準がどんなに変わろうとも、この宇宙の特性は変わることはなく、それが良い人と悪い人を量る唯一の基準です」 [1]と説かれました。真・善・忍の基準で子供を教育することこそ最も正しい道だとやっと分かりました。
師父は説法の中でこのような例を挙げられました。「子供を教育する際に、将来社会でやっていけるように、大人はよく子供がまだ小さい時から『利口になるように』と教えています。 『利口になる』というのは、われわれのこの宇宙から見ればすでに間違っています。われわれは、自然に任せ、個人の利益を重く見ないようにと言っています。『利口になる』というのはほかでもなく個人の利益を得ようとするためです。 『誰かにいじめられたら、その先生や親に訴えなさい』とか『落ちているお金を見つけたら、拾いなさい』とか教えるのです。 小さい時からこのような教育を受けてきた子供は、常人社会で利己心が次第に大きくなり、得をすることばかり覚えてしまい、それによって徳を失うことになるでしょう」 [1]
これはまさに私のことではありませんか? 私は以前の考え方を恥ずかしく思いました。私は『轉法輪』を読んで、徳と業力は転換すると分かり、子供の教育の方向性が見えてきて、心の迷いがなくなりました。それ以来、私は息子に「真・善・忍」で自分を律し、心性を高めることを教え、励ましてあげました。また、中国の伝統文化を紹介し、一緒に神韻公演を観に行くなどしました。宿題が終わると、家事を手伝うことや、普段からできるだけ同級生や先生に協力し、周りの人に力を貸してあげるように教えました。
ある日、学校から帰ってきて、息子は私に「今日の試合に負けて、同級生にラケットで殴られたけど、僕は怒らないで彼を許したよ」と言いました。私は「よくやった!」と息子を褒め、嬉しく思いました。息子は冗談で「でも、お母さんは以前僕にやり返せと教えたでしょう?」と言いました。私は「その時、お母さんはまだ修煉していなかったからだよ」と言って、笑いました。
今、息子は学校でいろんな面でうまくやっていて、みんなと仲良くしています。私も修煉してから、子供の教育に関する本などを読むことはありませんでした。教育の眞諦はすべて『轉法輪』の中に書かれているからです。
内に向けて探し、親子の関係が改善された
執着心が長く続くと当たり前のようになり、気づきにくくなる傾向があります。将来、息子が有名大学に進学することは私の長年の願いでした。周りの友人や同僚の子供たちの多くが、常青藤大学に通っていて、息子もそのような良い大学に入ることができればと期待しました。そのため、私は最初から息子の勉強と、勉強以外の行動を厳しくチェックし、私の思った通りにうまくいかなければ、イライラして焦りました。青春期に入り、息子は反抗するようになり、時には親子で激しく対立して不愉快でした。
私は学法を重視するようにしました。師父は「ですから、いざこざが起こった時に、各自は内に向けて自分の原因を探さなければなりません。このことは、あなたに責任があるかどうかに関わりません」 [2] と語られました。
学法を通して、内に向けて自分の問題を探すことが大事だと分かりました。深く探した結果、私には虚栄心があることに気づきました。名門校に進学させたい願望は息子のためのように見えますが、実際のところ、私の面子を重んじる心が潜んでいて、それは名声を求める心ではないでしょうか? これこそが修煉者として取り除くべき執着心ではありませんか?
これらに気づいた後、私は心を放下するようになりました。実は私の心の中で、良い大学は学生らにより多くの専門知識を教えるほかに、正しい道理で学生を良い人に育てることができると思っていました。果たして、現在の一流の学校だとしても、本当にこれができるのでしょうか? そうでなければ、なぜ必ず名門校でなければならないのでしょうか? 息子が「真・善・忍」に従って自分を律することさえできれば、どの大学に行くのも良い事ではありませんか? 私は息子の進学校に対する執着心を完全に捨て、息子に圧力をかけず、そして息子を信じて自由に選択させました。そうすると、親子の関係が改善され、息子もストレスから解放され、笑顔が増えました。
師父は「あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」 [1] と説かれました。
今後、私は様々な執着心を放棄し、慈悲かつ穏やかな心で人々や物事に対応し、最善を尽くします。それと同時に、精進する同修を見習い、三つのことをよく行い、すべての念とすべての考えを修め、修煉者の基準に符合するように努めて参ります。
師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします。同修たちの助けに感謝します。
次元が限られており、正しくないところがあれば、ご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:「ヨーロッパ法会での説法」
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】