山の中での対話
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文/中国 暁声  

 【明慧日本2021年5月13日】私は山の中で、石のテーブルに座っているある老人と話しました。

老人:現在の社会は道徳が腐敗しており、大義のために戦う者こそ、真の勇者です。

私:大義とは何でしょうか?

老人:多くの人々のために身の危険を顧みず、正義のために突き進むことです。

私:法輪功の弟子は、そうだと言えますか?

老人:分かりません…。

私:法輪功の弟子こそ、真の勇者です。危険を冒して、佛法がこの世に伝わっていることを衆生に伝える人は、古代の聖人たちとどう違うのですか?

老人:あなたは「佛法がこの世に伝わっている」と言いましたが、どうやってそれが真の佛法だと証明できますか?

私:修煉を通して、人生の真の意味を悟り、この世に来た意義を知ることができます。佛法のほかに、人をここまで啓発できるものはありますか?

老人:誰がそれを達成できたのですか?

私:神はどこにでもおられるのに、なぜ普通の人には見えないのでしょうか。 見えないのは、機縁と悟りの問題だからです。

老人:法輪功の弟子は修煉しているのに、なぜ世間の事柄に参与するでしょうか?

私:古代ローマでは、キリスト教徒が残忍に弾圧されていましたが、それでもなお教徒らは福音を伝えていたのでしょうか? なぜなら、福音はキリスト教徒だけのものではなく、衆生の福音だからです。彼らは衆生のために危険を冒すことを恐れませんでした。現在も同じです。佛法がこの世に伝わってきたことは、法輪功の弟子だけでなく、衆生にも知らせるべきです。今もなお、法輪功の弟子は逮捕される危険を冒して真相を伝えていますが、自分のためではありません。

老人:なぜ福音を伝えるだけでなく、迫害されている真実を話し、社会の支持を得ようとするのですか?

私:人々のために自分を犠牲にしても良いと思っている人が、悪事を暴いてはならないのでしょうか? 悪事を働く者を止めるために、悪事を働く者を晒すことは良いことではないでしょうか? 悪事を働く者にそれを辞めさせることは、大きな善ではないでしょうか? 誰かが悪事を暴くのを、ただ待てと言うのでしょうか? 勇者とは、ただ犠牲になるだけで、他に何もしてはいけないのでしょうか? 手足を縛られている者が勇者なのでしょうか? 法輪功の弟子たちは人々のために犠牲になっているのに、自分たちこそ立ち上がって悪事を暴かなければ、人々が真実を知った後、恥ずかしい思いをするのは自分たちではないでしょうか?

老人:感動しました。「士は以って弘毅ならざる可からず」(立派な人物というものは広い心と強い意志を持っていなくてはならない)と思っていましたが、法輪功の弟子と比べてみれば、私の見解はただの空虚な話です。

 老人は、話を聞いて涙を流しました。

 竹林の中から、快く響く鳥の鳴き声が聞こえてきました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/5/419502.html)
 
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