モーセの物語から得た啓示
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文/明心

 【明慧日本2021年5月16日】師父は、「歴史上いくら多くの神が世に下り、人間を済度したとしても、各民族にどれほどの英雄人物がいたとしても、歴史上にどんな文化が現れたとしても、皆今日のこの大法の人類社会での最後の現れのためなのです。そのため、人類社会で大法を認識することができる文化を築き、異なる文化の特徴と異なる文化方式を造りました」[1]と説かれました。私の個人的な理解としては、歴史上の伝承されてきた物語、特に修煉に関係のある物語は、すでに今日の社会で修煉とは何か分からず、伝統文化を失ってしまった無神論の環境の中で修煉を始めた修煉者に対して、啓示と理解の助けとなります。例えば、釈迦牟尼佛の物語、ミラレパ佛の物語、またモーセの物語など。ここで、私はモーセの物語から得た啓示を皆さんと交流したいと思います。

 一、衆生を救い済度することにおいて、私たちは一体どのぐらいの能力があるのか?

 モーセは偶然にエジプトの王子になり、40歳になるまでに世界で最も優れた教育を受けました。しかし、40歳以後、モーセは亡命のため、外界から切り離された生活を過ごし、世間のすべての欲望を切り離しました。80歳の時、モーセは燃えた荊棘の中で神様が見えました。神様は自分の衆生がエジプトで苦難に遭っていることをモーセに伝え、モーセにユダヤ人をエジプトから救い出すように話しました。しかし、当事のモーセは、神様の指示は、自分の能力範囲を超えていると思って、いろいろな口実で拒みました。

 モーセは心配していることを話しました。「私は何者でしょうか、ファラオにも会えないでしょう、どうやってユダヤ人をエジプトから救い出せますか?」。神様は、「私はあなたと共にいる」と言いました。

 しかし、モーセは神様が按排した人が自分であるとはまだ信じられませんでした。モーセは、「私がもしユダヤ人に、神様があなたたちをエジプトから救い出すために、私を派遣して来たと言っても、彼らは絶対に信じてくれないでしょう」と神様に言いました。神様はモーセに三つの奇を起こす能力を与え、その奇跡を通してユダヤ人に信じさせるようにしました。

 この三つの神通力を持っても、モーセは自分に自信がないため、自分は口下手であるという口実で断りたかったのでした。神様はまたモーセに、「あなたが何を言えばよいか、私が指示する」と伝えました。

 神様はいくら啓示しても、モーセは神様に、他の人にお願いしてほしいと求めました。神様は仕方がなく、モーセの兄のアロンを、モーセの代弁者に命じました。しかし、神様は自分からの指示を直接モーセに伝えると言いました。

 ここで一つの問題が現れました。神様はある人がある使命を果たすようにと決めれば、必ずその人にその使命と応じる能力を与えます。この能力は神様から得たので、神様が選択した人に能力が足りないなどと疑ってはいけないのです。その時に必要な神通力が得られ、さらにできないこともできます。わたしたち大法の修煉者なら、なおさらそうです。師父は、「これほど大きな法があり、正念の中で大法が皆さんとともにあり、これは絶大な保障です」[2]と説かれました。

 真の大法弟子なら似たような体験があるでしょう。本当に何か功能が必要なとき、正念が強ければ、何でも行えます。特に人を救うことに対して、なおさらそうです。ですから、自分の能力が足りないと心配するのは、やはり正しい信念がまだ100%になっておらず、法を正す時期の修煉の意義について、まだ真に理解していないのです。ただ、一部の修煉者は自分の能力を見た後、執着心が起きて、自分が偉いと思って、さらに自分の心より魔が生じるなら、それはもう一つの極端に走ることになります。

 使命を果たす過程で、ユダヤ人の救世主として、モーセは自分の能力をひけらかすことはありませんでした。彼はずっと謙遜して神様と共に、神様のお話を聞き、神様の指示に従って、そして数回にわたってユダヤ人に災難が降りかからないようにと心を込めて神様にお願いしました。最後に、モーセは神様が指示した使命を果たして、ユダヤ人を率いてエジプトから離れて、ユダヤ人の後代をカナンに入らせました。

 モーセ本人はカナンに入っていないのですが、それは彼の修煉において乗り越える関であって、これについて、わたしたちは以下に述べます。

 二、神の奇跡は人を啓示することができますが、人を救い済度することはできません

 モーセは自分がユダヤ人を率いてエジプトから出るということをエジプトのファラオに伝えた時、ファラオは許しませんでした。神様はモーセに、十災禍(水を血に変える、蛙を放つ、ぶよを放つなどの災難)を降らせました。毎回の災難の都度、ファラオはモーセの要求を飲みましたが、災難が過ぎたら、ファラオはまた拒否しました。十個目の災い(長子を皆殺しにする)が現れたとき、ファラオはモーセとユダヤ人がエジプトから離れることを許しました。しかし、モーセとユダヤ人が離れてすぐ、ファラオは後悔して、軍隊を派遣して追いかけました。ちょうどモーセがユダヤ人を率いて紅海に到達したところでした。後ろに軍隊があって、前に紅海があり、モーセは神通力で紅海を切り分けて、ユダヤ人に紅海の海底を通らせました。

 ここで一つの理が現れました。神の奇跡は業力が大きい人達に対して、驚かせる作用を長く継続させることはできないし、そして表面だけのことです。人は神の奇跡の後ろに存在する偉大な意義が分かりません。十災禍の奇跡が起きても、エジプトのファラオは神様の存在を信じませんでしたが、ユダヤ人も同じでした。ユダヤ人は自分の目で神の奇跡を見ても、神様に対する固い信念を生じさせることができませんでした。ユダヤ人は危険と絶望の中で、モーセが紅海を切り分けたのを見て、神様に感謝と称賛をしました。しかし、ユダヤ人はまた荒れ地に入って困難に遭った時、神への信念を失い、さらに神様に文句を言いだしました。

 これによって、私は「功能は本より小術 大法こそ是れ根本」[3]という法理についてもっと深く理解しました。それは人が心からより良い人になりたい、自分を変えたい場合、救われます。修煉者も同じです。功能は人の修煉の自信を強くすることはできますが、功能自体はその人が円満成就できる保障にはなれません。心性が唯一の基準です。

 三、不満や恨みによってもたらした結果は非常に深刻

 モーセはユダヤ人のために苦しみを嘗め尽くして、数回にわたって自分の命の危険を冒して、彼らを守りましたが、ユダヤ人から尊敬と感謝を得られませんでした。逆にユダヤ人はずっとモーセに不満をもって恨んで、さらにモーセと兄のアロンを石で殺すと言い触らしました。その危険な瞬間、神は自ら現れ、これを止めました。もし、モーセがユダヤ人の代わりに神に許しを乞わなければ、神はそれらのユダヤ人を消滅していたでしょう。

 神様はモーセの願いを認め、それらのユダヤ人を許してやりました。しかし、神は「2歳以上の人で、神様に不満がある人は、約束の地に入ることができない。彼らは40年の長きにわたる荒野の旅をして皆が死んだ後、彼らの子供がカナンに入ることができる」と伝えました。これは、なぜユダヤ人が40年を使って、11日の行程を歩き終わったかの理由です。

 常人の中に、恨みや不満の現象が至る所に見えます。しかしそれは修煉者には大禁物です。中国人は邪党の毒素の浸され、この問題はもっと目立っています。邪党の党文化とは、恨み、闘争、嫉妬です。ですから、大法の修煉者の中に、多くの人は習慣的に、恨み、不満、嫉妬などの表れがあり、さらに深く恨む気持ちがあります。

 当時、恨みや不満はユダヤ人が自分に40年の長きにわたって荒野の魔難を受けました。現在、一部の修煉者は嫉妬心を取り除かないために、恨みと不満の気持ちが生じ、病業の迫害を受け、さらには肉身を失いました。プロジェクトの中に、恨みと不満によって、仕事の環境や修煉の環境が悪くなり、プロジェクトの協力と発展に悪い影響を与え、ひいては一部のプロジェクトは止まってしまいました。このような現象は多く見られます。これらのことを警戒すべきです。

 四、修煉者の容量を絶えず増やすことが必要、それでこそ自分の使命を果たし遂げることができる

 モーセの結末はかなり意外に感じます。モーセは最後に怒りのため、神様の指示に従っていなかったため、神に罰せられ、カナンに入ることを許されませんでした。

 ユダヤ人はエジプトから出たばかりの時、水がないため、不満が生じました。神はモーセに杖で石を叩かせて水を流させました。その場所は後人に「メリバ」と呼ばれ、「争い」という意味です。40年後、ユダヤ人はカナンの境界に到達しましたが、また水がないため不平不満が現れました。実は今回、水がないということはモーセの修煉に対する試練です。つもり、モーセは容量をもっと拡大する必要があります。一回目の「水がない」ときに、ユダヤ人の不平不満に対して、モーセは怒っていませんでした。しかし、40年が過ぎて、この120歳の老人はユダヤ人を率いて、荒野を40年にわたって歩き続けて、今カナンの境界に到達し、いまだにユダヤ人の罵りと文句を受け、この時、モーセは怒ってしまいました。

 モーセが怒りだしたことは、常人の考えによると当たり前のことです。さらにユダヤ人はモーセに、「私たちに無理強いしてエジプトから出させ、こんなひどいところへ連れて来て…」と文句を言いました。この言葉は非常に恩知らずで、事実を無視していました。

 しかし、修煉者として、このような理屈のない指摘と怒りに直面する時、心が動かず、落ち着いて平気であれば、心の容量が大きくなり、より大きな使命を担うことができます。

 大法の修煉者なら、このような試練を受けたことがあると思います。つまり、トラブルの中で、耐え難きを耐えることができ、善意で他人を理解でき、天ほどの大きさに見えるトラブルが瞬間的に解けます。後に振り返って見ると、自分の心の容量が前より大きくなったと感じるでしょう。もしトラブルの中に陥って、常人の次元の理屈で考えれば、どう考えても自分が正しい、人が間違っていると感じます。そうなると、この関を乗り越えてないので、このようなトラブルがまたやって来ます。

 二回目の石から水を出すことについて、神の指示によれば、モーセが石に命じれば、石から水が出るはずですが、モーセは怒ったため、神の指示通りに行わず、杖で石を叩いてしまいました。表面上では、モーセが神様の指示通りに行ってないから、罰として、カナンに入ることが許されなかったように見えますが、実はモーセの一生の使命はユダヤ人を連れて、エジプトから出てカナンに入ることです。彼は40年にわたって、神の指示通りに行って、数え切れない困難を乗り越えて、最後の最後に、成功まであと一歩というところで失敗しました。モーセの教訓によると、私たちは必ず無条件で師父の指示通りに行うということです。

 モーセはなぜ最後の時に、このことを忘れたのでしょうか? それは怒りです。怒りは修煉者に理智を失わせ、さらに神の指示に従うことも忘れさせました。この点から見ると、私は修煉の厳粛さが垣間見えました。小さいことに見えますが、しっかり行わなければ、結局全体としては失敗になります。師父は『轉法輪』の中で、「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかも知れないのです。ですから心を必ず正しくもたなければなりません」[4]と説かれました。

 大法弟子として、わたしたちはもっと精進し、早く法を正す時期の大法弟子の基準に達し、自分の使命を達成しさえすれば、師父が私たちを率いて、この数億年にわたって築き上げた歴史、文化を裏切らないことになるのだと思います。

 個人の体験であり、もし不適切なところがあれば、ぜひ慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『各地での説法六』「二〇〇四年ワシントンDC法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [3] 李洪志師父の著作『洪吟』「正法の門を求む」
 [4] 李洪志師父の著作『轉法輪』

【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/24/422423.html)
 
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