文/スペインの大法弟子
【明慧日本2021年8月23日】今週、ある人にある物を期待していたのですが、その人は約束したものを届けてくれませんでした。私は腹が立ち、怒りを覚えました。しかし、私は怒りを抑えることにしました。執着をコントロールしようとすると、人間の感傷や欲望など、内面的な葛藤を経験することになりました。
私の場合、自分が正当化されているときには、なかなか寛容になれません。異次元の怒りをコントロールできないのです。非常に強い怒りでした。私は修煉者として、自分の感情や欲望を引き起こした外的な理由は重要ではなく、重要なのは自分の執着だと考えました。その執着を見つけなければならないと思い、その答えを学法で探しました。
法を学んでいるときも、怒りに包まれて冷静ではいられませんでした。私は集中して、自分の中の怒りに屈しませんでした。法を読んでいるうちに、私をさらに怒らせるような要因が私の考えから出てきましたが、私はそれらを無視しました。怒りの他にも、多くの感傷的な感情が私の心に入り込もうとしました。
案の定、ゆっくりと自分をコントロールしていくうちに、法が心に入ってきました。しかし頑張って読んでも、読み終わった途端に拳を握って机を叩く自分の怒っている姿が浮かんできました。もちろん、私はこのような自分を否定していたのです。
しばらくの間、私は未知の領域にいました。執着を克服するためには、想像上のレッドラインを越えなければならないと感じました。怒りを手放すのが怖かったのです。この恐怖は、思想業から来ているのではないかと思いました。思想業は、自分の終わりが近いと思っているのです。私は、もし誰かが法を読むときに怖がっているなら、もっと自分を追い込まなければならないと思いました。そこで私は法を学び続け、声に出して読み、他のことを考えないように集中しました。
時間が経つのを忘れていました。私の頭の中に法だけがあった瞬間がありました。私は法を学び、理解していったのです。奇跡的な体験でした。また、本を読みながら、師父は怒りの裏に隠された多くの恐怖心を示してくれました。その一つが失敗への恐れでした。また、競争心、自分を証明したいという気持ち、嫉妬心...。今まで信じていたのとは逆に、攻撃性は弱い者の行動であることがはっきりしました。
師父の法身が私の思想業を除去してくださったので、私の体はリラックスし、周りのすべてが調和しました。この世のものとは思えないほどの幸福感が私の体を満たしました。
この世に完全な幸福をもたらすものはありません。最初に思い浮かんだのは、まだ自制心の重要性を理解していない他の修煉者たちにこのことを伝えたいということでした。もしかしたら、つい最近までの私のように、キレるのは当たり前だと思っていた人もいるかもしれません。そんな皆さんに、私の経験からお伝えしたいのは、「幻想は壊さなければならない」ということです。もし壊れないのであれば、それはあなたの努力が足りないからであり、その本質をはっきりと見抜いていないからなのです。
自分の努力が基準に達していれば、心の中の違和感は消えます。ですから、自分の痛みを外的要因のせいにする必要はありません。外的要因は、執着のスケープゴートに過ぎないのです。
この経験は私を揺さぶりました。それと同時に、充実感もありました。一旦落ち着くと、どんな問題も通常とは異なる合理性、有効性、思いやりをもって解決できるようになりました。
これこそが、新たな領域への突破口であり、海や空のように広大で、真に周囲を助け、相手の立場に立って物事を考えることができる方法だと思います。悪いことをされても、心から許すこともできるかもしれません。
逆に、自分の感情に従っていたら、どんな問題も解決できなかったと思います。そして大法のプロジェクトにも悪影響を与えていたかもしれません。
ある時3日間、インフルエンザの症状が出ました。不思議なことに、気分が悪くなることはありませんでした。私は自分の不快感の原因が未熟な執着であることを発見しましたが、それよりも、私の心の痛みを生み出した人たちを苦しめ、私の心の痛みを共有させようとしました。すると一日中、鼻水が出て、骨が痛かったのです。時々、頭も痛くなりました。まるでインフルエンザにかかったかのようでした。これらの症状は、突然現れます。そして、その症状は、テレビ番組の仕事をするとすぐに収まります。そして、番組を終えてコンピューターの前に座ると、また症状が出てきます。
そんな状態の日々の中で、法を学び、冷静になり、人と接したりすることで、私の心性はどんどん高まっていきました。これは嬉しかったです。私は自制心の重要性を理解することを経験しました。自分の主意識を向上させ、純粋な考え、敵もいない、後悔もない、苦しみもない...過去の状況と同じように、平和な状態になりました。
周りの人たちも、幸せそうに見えました。それは、ささやかな幸せというより、大きな幸せを感じているかのようでした。