法の暗唱で得たもの
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文/吉林省の大法弟子

 【明慧日本2021年7月25日】私はキャリアウーマンで、毎日「三つのこと」をやる時間が足りないと感じています。学法の不足が悩みでしたが、明慧ネットで同修たちの法の暗唱に関する交流文章を読んで、私も暗唱しようと決心しました。2020年10月1日からの6カ月で、『轉法輪』を1回暗唱したのです。

 今日、『轉法輪』の最後の数ページを暗唱していると、慈悲なる師父のご加持を感得し、体全体がエネルギーで包まれていると感じました。法を暗唱しつつ師父の偉大な慈悲を感じて感動し、幾度も涙を流しました。その玄妙で幸せな感覚は、言葉では表現できません。法の暗唱で、私は多くのことを得ることができました。ここで私が修煉で向上できたことについて、いくつか交流したいと思います。

一、怨恨心を取り除く

 明慧ネットには怨恨心を取り除く交流文章がたくさんあり、とても助かりました。以前は、自分に怨恨心はあまりないと感じていました。しかしある日、小さな事で夫(同修)と娘の両方から私は責められました。私がどう説明しても理解してもらえず、「修煉者として、何かあったときに自分の内に向けて探さなければいけない」と思い、私からの説明は止め、2人に気が済むまで言わせました。しかし最後には耐えきれず、トイレに閉じこもって泣き出しました。

 涙を流した瞬間、何かがおかしいと感じた私は、すぐに自分を泣かせたその「者」に厳しく向き合い、「あなたは誰?  なぜ、私を泣かせるの? どうしてあなたのいうことに従わなければならないの? あなたは死になさい。あなたを消滅させてやる」と思った瞬間に涙が止まりました。そして心の苦痛が消え、先ほどまで苦しみ、痙攣していた顔が和やかになり、2人への恨みが無くなりました。私自身も驚きました。その恨みを抱いていたのは「自我」であり、誰にも言われたくないのも「自我」であるとわかりました。はっきり認識できたので、その「者」は直ぐに消えてしまいました。

 このことを通じて、私は「これまで私は誰に怨恨を抱いていたのか」とよく内に向けて探しました。すると、夫、娘、同修、母、親戚、友人、同僚、法輪大法真相を伝えるときに聞いてくれなかった人など、私が出会ったほとんどすべての人に、多かれ少なかれ一度は恨みを抱いたことがあったのです。 これらの怨恨の数々が他の空間でどれほど積もっているだろうかと思うと、ショックでたまりませんでした。 それも、今生で生じた怨恨だけでです。

 この怨恨は誰に向けたものでしょうか? 内に向けて探しますが、例えば「どうして私の修煉の道はこうなのだろうか? なぜあのような道ではないのか? どうして私の修煉はこんなに辛くて苦しいのか? 他の人の修煉はなぜ、簡単にできるのか?」「私の修煉の道は師父から按排いただいたもので、こんなふうに文句を言うなら、私は一体・・・」と思い続けられませんました。「私の生命の一切は師父に与えていただいた。これほどありがたいことはないのに、どうしてこんなにも無礼で邪な考えを持ってしまったのか」と、私はすぐに師父と大法に対する不敬な考えを取り除きました。

 『悪魔が世界を統治している』という本には「私たちの思考や行為には恨みがあり、無意識にそれに振り回されている」と明確に書かれています。恨みの心が生じれば(私の理解では怨恨も恨みである)、共産党邪霊にエネルギーを与えていることになり、本当に怖いことです!

 その後、私は自分に厳しく要求し、一つ一つの考えについて、絶えず怨恨心を除去するようにしました。例えば、朝、車で会社へ行く時は急いでいるので、誰かに割り込まれると、その人に「割り込んだのなら、早く行けよ。全くもう」と怨恨心が出てきました。しかしその瞬間に私はその考えを掴み、「私に怨恨を生じさせたでしょう。あなたに絶対従わない。大法の師父に従う。師父は衆生に慈悲の心で対処すると教えてくださったので、師父の教えに従う。あなたは死になさい」と、すぐに怨恨を解体しました。同時に、怨恨を生じさせる「自我」も解体したのです。

 このように、「怨恨」という物質が出て来たのを見つけたらすぐに、「あなたの言うことは聞かない。大法の師父の教えに従う。相手に怨恨を抱かず、相手に感謝する」と考えました。そして、心の中で「私の心性を向上させてくれている夫、娘、同僚たちに感謝する」と心で自分に言い聞かせます。やがて怨恨心が無くなり、まさに感謝しか残らなくなったのです。

 私は、「自分の思い通りにならないことがあったりすると、なぜ憤慨してしまうのか? それは「自我」のせいだ。自分が不満や不愉快な思いを抱いたとき、すでに怨恨を生むメカニズムが形成されているのだ」と、内に向けてその原因を探し出しました。それから、「怨恨を生むメカニズム」、「怨恨を生む自我」を取り除くことにしました。こうすることで、怨恨を自分の空間場から完全に取り除くことができると思います。

 私には他の空間が見えませんが、「絶えず怨恨を取り除けば、他の空間で積もった怨恨の物質は絶えず減少し、絶対に増えはしない。いつかその物質を徹底的に取り除くことができる」と固く信じています。

 怨恨を除去し続けているうちに、私の心は次第に穏やかになりました。人を見ても、何か出来事に遭っても、「怨恨を生じないよう、優しい心で対処する」という気持ちになりました。 なぜなら、私は因縁関係を知っているからです。誰かが私に優しかろうと厳しかろうと、それはすべて私の徳と業力によるものです。すべて師父の按排で、私の修煉を向上をさせるためです。ですから、心には感謝の気持ちしかなく、不満はありません。こうして、私の心はいつも穏やかで幸せです。

二、恐怖心を取り除く

 師父は「法律は常人の中のことを相手にしており、それはそれなりに問題ありません。しかし煉功者は超常的なので、一人の超常的な人間として、超常的な理で自分を律しなければならず、常人の理で量ってはいけないのです」[1]とおっしゃいました。

 私はこの段落の法を暗唱した時、「常人の中の法律は修煉者には通用しない」と悟りました。「法律は常人の中のことを相手にしているが、私たち修煉者は師父の按排の下にいる」という念が出てきました。

 別の角度から見ると、「恐れる」ことは「求める」ことになるでしょう。もし、警官や拘禁が怖ければ、警官による連行や、コミュニティの人々からの嫌がらせを求めたことになると思います。警官や、大法弟子への迫害に加わる人々の大半は、大法を得るためか救われるために、この世に来たのだと思います。もし私の「恐れる」心のために邪悪が隙に乗じたら、邪悪は警官らを利用して私を迫害し、彼らは大法に対して罪を犯すことになり、消滅される生命になってしまいます。このような結果になれば、私も関係があることにならないでしょうか?

 師父は「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[2]とおっしゃいました。

 悪い人を見かけた時に、もし自分のことだけを考えれば、恐れてしまいます。しかしもし、その人が迫害に参与しないように、参与したら壊滅されてしまうと考えれば、その人を可哀想に思い、恐れなくなります。迫害も発生しないかもしれません。私たちは師の法を正すことを手伝いにきています。衆生を救うために来たのであり、衆生に害を与えに来たわけではありません。ですから、この恐れる心は必ず取り除かなければなりません。

三、本当に苦を嘗めるを持って楽とする

 師父は「人間は修煉の中で、乗り越えなければならない関門がたくさんあります。人間は生まれてから、人類社会を絶えず認識していく中で、様々な観念が形成され、これによって執着が生じました。なぜならば、人類社会はほかでもなく、苦難と利益と享楽が共存している世界であり、いくらお金があっても、どの社会階層においても、人生には多くの苦難があるからです。苦しみによって人間は意識的または無意識のうちに苦難に対抗してしまい、その目的は幸せな暮らしを手に入れるためです。したがって、幸せを求める中で、人間はいかに傷つくことなく、いかに良い生活を送り、いかに社会で出世し、功なり名を遂げ、いかにより多くのものを手にし、いかに強者になるかなどのために経験を積んできました。これらの経験を持つと同時に、人生の観念は形成され、観念はまた経験が実践されていく中で強化されてしまいます」[3]とおっしゃいました。

 近頃は煉功の時に全身が痛み、とにかく体の調子が悪いのです。師父のこの説法に照らしてみると、私は苦に対抗する観念を持っており、苦を嘗めたくないと思っているのです。苦を嘗めることは業を滅することだと修煉の門に入ったばかりの時にすでにわかっていたはずです。今になって、どうして苦を嘗めたくないのでしょうか?

 私は自分に「無条件に師父が按排してくださった苦を受け入れ、対抗しない」と言い聞かせました。しゃがむ時に足が痛んだので「痛みを恐れる心を捨てる。苦を嘗めて業を滅する」と考えると、体の痛みが和らぎ、よくなりました。

 『轉法輪』を暗唱する中、ある段落がなかなか完全に覚えられませんでしたが、内容はよくわかっていると思い、次の段落に進むことにしました。このようにしているにもかかわらず、慈悲なる師父が私に加持と励ましを与えてくださいました。

 本当に心から師父に感謝します。言葉では師父に対する感恩は言い表せません。今後も私は法の暗唱を続けていきます。よく学法をし、より多く衆生を救い、よりよく師が法を正すことを手伝います。

 修煉の次元に限りがあり、間違って悟ったことがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/7/426581.html)