善意で同修の問題を指摘しよう
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 【明慧日本2021年9月8日】最近、地元で古い同修が亡くなりました。この同修は20年以上にわたり、毎日休むことなく真相活動に携わってきました。しかし彼女は最期のとき、すでに私を認識できなくなるほど弱っていました。

 伺ったところによれば、この同修はお子さんに「お母さん、長い間心性を修煉していないのでは」と言われたことがあるそうです。それに対してこの同修は「なぜ教えてくれなかったのか」と言い返したそうです。このことからも分かるように、指摘が間に合わなくなる前に同修同士でお互いを助け合うべきです。お互いの問題に気づいたら、普段から指摘してあげるべきです。

 この同修の真相活動に対する献身的な姿勢は尊敬すべきですが、人間の世界で最後まで歩むことができませんでした。大変残念なことです。彼女は身をもって、修煉は本当に極めて厳粛であり、ただやっているだけでは最後まで到達できる保証がない、と教えてくれました。

 修煉のどこが難しいか

 皆さんは考えたことがありますか? 修煉のどこが難しいのでしょうか。もちろん、修煉者によって答えは異なるでしょうし、時期が異なれば答えも変わってくるでしょう。私の考えでは、自分が気付かない人心による執着を取り除くことが最も難しいのではないかと思います。自分で間違いと気づかないなら、どのようにしてそれを正せばよいのでしょうか。

 師父は私たちの修煉を見守ってくださっていますが、直接私たちの問題を指摘することはできません。何を放下させるべきかは、「啓示」という形で教えることしかできないのです。私たちは師父からの啓示を神の言葉としてとらえるべきで、直接声をかけられるような言葉ではなく、周りの環境による示唆を通じて私たちに認識させてくださっているのです。

 例えば、私の体のどこかが痛いとか、他人に酷く扱われたとか、トラブルがおきたとか、これらはすべて神からの言葉です。私に何かを気づかせようとしており、何かを修煉させようとしていると私はとらえています。何を修煉するかは修煉者自身が考えるべきことであり、自分を見るようにして、ただ単に物事の表面を見るだけではいけません。これこそが私たちが良く口にする「内に向かって探す」ことですが、一方でよく同修から「探したけど何も見つからない」ということを耳にします。

 なぜ神の言葉が分からないのでしょうか。それは自分の心を空の状態にしていないからかもしれません。自分の認識が正しいものだと思い込むと、神からの啓示を受け入れられないかもしれません。自分の心を空にすれば、人は落ち着いて自分の心と向き合うことができるようになり、問題は一目瞭然に分かるのかもしれません。

 言うは易し、行うは難し。私も20年以上にわたって数えきれないほどの魔難を経験してやっと気づいたのです。そして気づくだけでなく、実践できるようになるには過程が必要です。ときに、自分が難の中にいて神から何か啓示が来ていると分かっていても、それでも難しいと感じることでしょう。「苦を楽とみなす」ことを常に念じてひたすら頑張るしかないのかもしれません。

 「内に向けて探す」は空言ではない

 「内に向けて探す」ことは空言ではありません。着実に自分の内心をみる必要があります。自分の身に起きたすべての出来事は、いずれも自身への啓示かもしれないのです。

 一部の同修は、周りの人からもたらされたトラブルを大事にせず、かえって不満の気持ちを抱いています。実は山で一人で修煉する人は、誰からもトラブルをもたらされないので、私たちを見てうらやましく思うことでしょう。一人での修煉は、問題に気づくことがとても難しくなります。つまりは、自分を変えることも大変難しくなるのです。しかし、私たちには身のまわりに自分を助けてくれる人がいて、神が人を通じて私たちに啓示を与えて下さっています。これは、大変貴重な機会ではないでしょうか。

 私たちを助けてくれる人たちが地上に降りる前、すでに自分が将来このような役割を演じることを知っていたのかもしれません。私は、修煉者にトラブルをもたらす役割を演じたいだろうかと自問してみました。これは何を意味しているのだろうかと考えてみました。もし私たちが修煉して円満成就できたら、私たちを助けてくれることになると思いますが、もしこの人たちによって自分が成就できなかった場合、この人たちは悪いことをしたことにならないでしょうか? このような場合、彼らに大変恐ろしい未来が待っていることにならないでしょうか。

 違う角度から考えてみると、私たちを助けるこのような人たちも危険にさらされることになりますので、私たちの修煉の結果が、直接彼らの未来を決定づけていることにならないでしょうか。だからこそ、私たちが何か良くできないとき、このような人たちは私たちが良くできないことを見逃せないのです。

 もちろん、この中には旧宇宙の生命の嫉妬心もあるかもしれません。彼らは悪をもって私たちを助けようとしています。修煉者同士では善意に基づいて助け合うべきです。旧宇宙の生命も大法の中で自分の位置を決めるこの時期は、旧宇宙の生命も私たちが救うべき対象ではないのでしょうか。

 無為自然 はっきりとした心で修める

 個人の修煉において、私は「無為自然」の一部の法理を理解できたように感じます。何か起きたとき、私は自分自身に対して、無為自然になるようにと言い聞かせます。何かに固執するのではなく、むしろ自分を放下したときの結果が、予想よりも良くなることがあります。振り返ってみれば、最後まで結果は見えませんので、修煉を辞めずに続けることができたときこそ、良い結果が結ばれるのだと思います。

 問題に出くわしたらまず自分を見るようにして、神からどのような啓示が来たのかを見るようにしてきました。長年の修煉を経て、どうしても分からない問題もだいぶ減ってきたのではないかと思います。まだ法の自分に対する要求までたどり着かないかもしれませんが、少なくとも何が正しいのか、どのように努力すべきかは分かるようになりました。

 多くの同修は、修煉について話したくなく、そして善意に基づく指摘も受け入れないのです。私もこのような同修と話したことがあります。それでも誰かしら話がかみ合う人がいるもので、やはり善意に基づいて指摘してあげるべきです。誰かが長い間ずっと向上せず同じ状態に陥っていると気づいたならば、やはり善意で指摘してあげるべきです。

 以上は個人の認識に過ぎません。間違いがありましたら是非ご指摘ください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/4/encoding-to-change-429045.html)
 
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