「肝心な時に師父の名前を呼ぶこと」から考える
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文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット202110月10日】同修のある交流文章の中に、警官から拷問を受けた時、同修は耐え切れずに、大声で「師父」と叫ぶと警官はぎくりとして迫害を止めました。と書かれたところを読んで、不意に悟るところがありましたので同修と交流したいと思います。

 肝心な時、師父を呼ぶというのは、それ自体が修煉であり、それ自体が修煉の境地であると悟りました。なぜなら、このことが少なくとも三層の妨害を突破しなければならないからです。

 一つには、常人の観念と無神論を突破しなければいけないからです。迫害に遭う時、これは人間が人間に対して行っている迫害ではないと悟りました。しかも別の空間の邪悪の要素が人間を利用して迫害を行っているのですから、このようにすること自体がすでに正しい念と悟りの表現であるといえます。

 二つ目は、師父は私たちの近くにおられるのだと悟りました。心の中で師父の助けを求めることは、法理の上からも師父を信じることができているということであり、さらに正しい悟りであると思います。ある日、私は電車に乗っている時歯が痛くて仕方ありませんでした。本当に耐え切れなくなり、そこで心の中で師父の助けを求めたのです。すると間もなくグキッという音がしたと思いきや、一瞬で痛みが消えたのです。私は驚きと嬉しさで、とても師父に感謝しました。もし師父のお助けがなければ、電車の中で本当に失態を演じていたことでしょう。

 三つ目は、師父を呼んで師父に救いを求めることができるかどうかですが、この点において私はまだよくできていませんでした。なぜなら、「申し訳なくてお願いできない」、「効果あるだろうか」、「普通の人間には無理な事ではないだろうか」などの良くない心理を突破する必要があるからです。現在、「做すところ到るは是れ修なり」[1]を私は悟りました。なぜある同修が何かを為すことができるのかというと、それは完全に正しい信の表現だからです。純正な一念がなければ突破することができません。「効果はあるのだろうか」などの人心があるため呼ぶことができない。それならば、これはまさに修煉ではないでしょうか。そのような場に身を置いた時、きっとその境地と次元に達していなければ、まだできないのです。このようなことは理屈では分かっていても、口で言うほど簡単なことではありません。

 その他にさらに私が悟ったことは、肝心な時に私たちの一つ一つの考えや念が極めて重要であると悟りました。あなたができると思えば何でもできる、ということです。もし旧勢力による病業の迫害が起きた時、あなたが仮想だと思えば仮想になるし、病気だとみなせば本当の魔難になる可能性があります。もし肝心な時、私たちの念がとても純正で、法に符合していれば、奇跡が起こる可能性があります。例えば、ウィルス蔓延期間に、あるコミュニティが閉鎖され、入口には守衛がいたとしても、ある同修が自分は神であるという念をもって、とても正しい行いをするならば、いわゆる守衛のような人達は本当に邪魔をすることができなくなり、同修は思いのままにその前を行き来することができます。もちろん表現形式はそれぞれ異なるかもしれませんが、守衛にとって、見えるはずが見えなくなるのです。また同修が守衛の前を通り過ぎようとする時に、守衛は後ろを振り返って別の所を見る等のことが起こりえます。

 それではさらに広い範囲での考え方として、人類社会に存在している万事万物はみな分子で構成されているのではないでしょうか? 別の空間から見れば、私たち常人社会はさまざまな分子が積み重なった塊です。それでは宇宙の中のすべての事はみな師父のコントロールの中にあるのですから、私たち常人社会のこれらの分子の塊は師父の大きな法力の下では何程のものでもないでしょう。ですから私が悟ったことは、常人社会においてあたかも実在しているかのように見える「いわゆる現実」は高次元から見れば、みな仮想であり、私たちに本当に正念が足りている時、全知全能である師父のご加持があるわけですから、私たちの正念を十分使えるかによって神の奇跡が現れてくるのではないでしょうか? それこそ人間の中に存在する神の現れであり、私たちは本当に神の奇跡を起こせるのではないでしょうか?

 個人の悟りですので、どうかご参考までに。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/23/431512.html)
 
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