『轉法輪』を暗記し、書き写した経験から理解したこと
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年10月17日】今年の夏季休暇の期間に、私はさまざまな妨害を排除し、正念を持って、師のご加護の下、家族である同修の支持と協力で「轉法輪」を書き写しました。正法修煉を始めた数年の中で、私はある願望を抱き、遥か昔に誓約をかわしたことがぼんやりと分かりました。大法を修煉して、私のいるこの次元での現れを持って帰り、天国の衆生にもって行かなくてはならないと思いました。ですからあらゆる執着を捨て去らなければいけません。捨て去ることが難しい時は、私は師に求め、たまに心の中で衆生に対して、「どうか常に監督して、私がしっかりとやれるように促してください。私もあなた方衆生の期待に背かないつもりです」と話しました。

  私は今年の7月9日から「轉法輪」の書き写しを始めたのですが、学法しても法理を理解していない状況の下で始めたため、そこにはあたかも壁が立ちはだかっているかのようにどうしても突き進めない状態でした。

 しかも、2ページ目を書き写し始めたばかりの時、もう終了を知らせる太鼓を鳴らしたい気持ちになりました。頭の中はまっ白になり、自分が知っているはずのある1行は数文字に過ぎないのに、一文字さえ思い出せないのです。師父はこうおっしゃいました、「自分で悟りなさい、修煉の中で出遭った困難を乗り越えた後、引き続き修煉できるのです。これはあなたの悟りです。まさに理から何かを悟らなくてはいけません。もしこの法があなたに知らせなければ、悟っても悟ったことになりません」[1]

  私はもし師父のご加持がなければ、たとえかつて暗記したものがさらによく覚えられたとしても一文字も思い出せないと分かっています。なぜならこれは宇宙大法なのであって、常人の中の理論のように、著作をすらすらと暗唱できれば良いというような単純なものではありません。常人の中で記憶力がすごい人でも、一段落の一つの言葉の道理を覚えられないのと同じです。筆をもち上げても、また下に置き、何度もやめようと思いました。3、4日の時間をかけてわずか6ページある文章の最初の小見出しを書いただけでした。

 20年前に修煉を始めることを決心した時、私はかつて自己を戒め、いかなる具体的なことも含め、難易度の大きさに関係なく、中途半端にやめないことを誓いました。しかし、現在大法を書き写すという大きな決断をしたばかりなのにもうあきらめようとするなんて、中途半端に止めることに等しいばかりか、たった1つの事さえ成し遂げられないのでしょうか? 私は師父に助けを求め、「轉法輪」を完全に書き写したいと思い、弟子を加持してくださるようお願いしました。

 このようにしてずっと7月16日の週末まで続けた時、1週間でやっと第一講の書き写しを終えることができました。ようやく私に希望が見えました。引き続き週末の夕方から始め、土曜日、日曜日の2日間ずっと、毎回の食事の時間の30分を除き、机にへばりついて書き写し、ついに第二講を書き写し終えました。たちまち私の信心は大きく膨らみ、たとえこの時腰がすでに痛くて木の切り株のように固くなっていようが、また肘の痛みで筆を持ちあげる事もできなくなっていようと、私は一気に書き上げ、ひと月で九講全部を暗記して書き写し終えるという、任務計画を自分に課しました。

 しかしながら、計画はやはり計画にすぎず、さまざまな原因があり、あれこれの用事、家の中のことから外のことまで、その間には延び延びになった時間もありましたが、最後には40日余りの時間をかけて書き写すことができました。すると、目の前に立ちはだかっていた壁が開かれ、私は新たに法の内涵を見ることができたのです!

 私は本当にこの方面において私と同じような困惑をもっている同修に心からの提案をしたいと思っています。皆さんが「轉法輪」を書き写すことができれば、本当に師父がまさにおっしゃっている、「本当に柳暗花明又一村があらわれるのです!」[2]

 これまでの過程の中で師父は私に智恵を開いてくださり、元々ぼんやりしていて頭が働かないと思っていましたが、回転が速くなり、記憶力も増強しました。それと同時に法の書き写しは夕食後の眠くなる時間を十分に利用できるようになりました。書き写せば書き写す程眠くなるどころか元気になり、深夜12時までずっとやり、さらに世界中で行っている発正念までできるのです。これは一挙両得ではありませんか!しかも平日のこまごました時間も利用すれば、早朝の煉功後の発正念前の数分間や昼の発正念前の数分間(すでに退職して家にいればこのような時間を利用できます)、並びにこれらの多くの数分間の時間は、私たちはみな数行或いは1,2行でもいいから書き写すことができます。ひいては気分が乗らなくて、法を読む時に心が入らないような場合、ただ座って書き写せば、一切のことが静止したかのように心が落ち着いてきます。

 今回の書き写しの過程の中で私は、「修煉の初めの頃」[3]の感覚を見つけました。新たに一人の法輪大法の修煉者としての幸福と、一人の大法弟子としての光栄と、いつも傍に師父がいらっしゃることの素晴らしさを感じることができました。

 しかしながらこれ以前の数年の期間は、修煉者としてはベストの状態ではありませんでした。修煉状態が良くない時も同時にあり、早朝の煉功の状態も極めて劣っており、5式の功法を煉り終えた後も身体が軽くなる状態に達しませんでした。(当然ながら多くの場合も煉り終えることができない)、しかも全身がくたくたで、この上なく疲労感がありました。師父がおっしゃる煉功の最も良い休息の状態に至りませんでした。毎晩寝る前に翌日の早朝の全世界集団煉功のことを考えると気が滅入って、ストレスが大きく、大多数の同修は自然に煉功をやることができるのに、私にはかえって負担でした。毎朝6時10分に重荷を降ろしたかのように任務を終えてほっと一息つくのです。

 現在これらの良くない状態は、「轉法輪」を書き写すに従って徐々に消えて行きました。まだ煉功すればするほど、煉功したいという状態には至っていませんが、すでに前のような疲労感はありません。それどころか、「轉法輪」の2回目の暗記の書き写しをやりたいというはやる気持ちが起こり、まさに暗記すればするほど暗記したくなり、書き写せばするほど書き写しをしたくなるのです。

 ある同修の文章の中で、「精進は早朝に始まる」と書かれていました。この時、私は深く同感しました。そうだ、早朝の5式の煉功を堅持しよう。ひとつひとつの動作を正確に、伸ばす、緩める、とやっていくうちに、ある日の事、頭がはっきりして清々しい気分になり、元気にあふれ、比して学び、比して修める、精進は早朝の煉功にあり、精進は法の書き写しにあり、とさまざまな言葉が浮かんできました。 

 適切でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 
[1]李洪志師父著作:『ヨーロッパ法会の説法』
 [2]李洪志師父著作:『轉法輪』
 [3]李洪志師父著作:『各地の説法九』「2009年ニューヨーク国際法会の説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/4/430681.html)
 
関連文章