文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2022年1月10日】私は国営企業に勤めています。同じ役職の従業員の待遇に大差はないのですが、仕事量の振分けが非常に偏っていることは、私の職場でよく見られる現象の一つです。上層部は自分の便宜を図るため、能力の高い人に仕事を多く振り分けています。その結果、能力のある人ほど仕事量が多く、疲労のため叱られることも多くなる一方、能力の低い人ほど閑散としています。もしかして、大半の国営企業にこのような現象が存在するかもしれません。これは、国営企業の指導者は目の前のことをやり過ごすだけで、公平と責任感に欠けて、人材育成を重視しておらず、企業の長期的発展もあまり考えていないからです。
私は、仕事をたくさんする者の中の一人で、そのため、いつも不公平だと思っています。それは恨む心、嫉妬心だと分かっていても、同じようなことがまた起きた時に、やはり冷静になれず心性を守れないことが多いのです。
先日、『轉法輪』の第4講「業力の転化」を勉強した後、突然に悟りました。もし私の仕事量が平均値を超えたら、そのように仕事を配分した上司は私に徳をくれるはずです。そして、多めに仕事をして苦労した分は、自分の徳に転化するはずです。またその時、文句を言わずに素直に現状を受け止めて、心性が高まったら、その二つの徳は功に転化して、修煉の次元も高くなり、一挙四得になります。一方、もし私が上司の仕事配分に不満を持つ場合、単純に二つの徳だけを得て、心性も次元も上がりません。同じく疲れて仕事をし、二つの徳しかもらえないのは採算が取れないではありませんか。そのように考えると、上司への恨みはすぐ消えました。上司は私の業力を消して、次元を高めるための一枚の駒のようで、この芝居を演じるように使われていたのです。
自分がキーボードでのタイピング仕事をしている時、暇を持て余して携帯電話を見たり、ゲームをしたりする同僚たちを見て、思わず嫉妬してしまうことについて、「私と同僚たちの人生の目標が違うので、何かある時の対処法も違ってくる。彼らの人生が終わったらまた輪廻転生するので、運命の按排のとおりに業力を返しているのに対して、私は今生で円満成就する人間なので、時間を無駄にしないで、苦を嘗めて業力を消さなければならない。だから、彼らより多く仕事をして苦労をすることも私の修煉の一環である」と考えれば釈然とします。
修煉には開始と終了の時間があります。我々の修煉の道を1本の直線に例えて、時間を横軸にし、修煉の次元を縦軸にしましょう。時間が経つにつれて、修煉が終わる日はきっとやってきます。しかし、その日までにどのように過ごすか、どの次元まで到達するかは、人によってそれぞれ違います。
道徳の教養が高い常人であれば、悪いことをせず、業力を蓄積しない人生を送るでしょう。そうすると、彼の「人生のグラフ」は1本の水平線になります。つまり、歳月が経つにつれて縦軸においての高さはずっとそこにあって変わりません。名利心が強くて利己主義の常人であれば、彼の「人生グラフ」は下に下がる一方の斜線になるでしょう。生きているうちは気楽な人生を送ったようにみえますが、死後、奈落の苦しみを味わいます。一方、円満成就を目標にする大法弟子たちは、こんなに短い間に高い果位に戻るには、ほぼ垂直の上向きの線にならないといけません。精進の程度は「人生のグラフ」の勾配の大きさ、つまり向上の速さおよび修煉が終了する時に自分が置かれる次元の高さを決めています。
では、どのようにして「人生のグラフ」をそんなに高い位置に上げるのでしょうか。個々の点で常に向上するしかありません。「個々の点」とは、日々の生活や仕事中に出会った心性に対する試練です。このように見ると、常人が作ってくれたトラブルは本当に私たちの向上のための敷石です。
師父は「あなたは修煉者になったから、これらの問題に遭遇しました。あなたが修煉者になったから、これらのことは良い影響があっても悪い影響があっても、いずれも良いことです。(熱烈な拍手)なぜなら、それはあなたの修煉の道のりであなたの向上のために用意されたものだからです」[1]と説かれています。
修煉者として、もし快適に過ごしている期間があれば、その期間中はきっとあまり向上しておらずに、下に滑った可能性もあると思います。残りの時間が限られた中、無駄にできる時間は少しもありません。
流れに逆らって上へ進んでこそ、難しいのです。しかし、師父は大法弟子それぞれの状況に合わせて、一人一人の修煉の道を按排されているので、修煉の各段階で大法の要求に達することができれば、きっと円満成就に達成できます。「修煉は初志貫徹すれば、必ず成就する」[2]
師父が按排された修煉の道をしっかりと歩み、師父の信頼と期待を裏切らないでください。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】